もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

(この文献の中から、このテーマについて、まだ、全収録には至っていませんが、別の論考で触れているため、一応、一部を記載したものをアップロードしておきます。)
悟りの否定かー七十五巻「正法眼蔵」ー越前下向前
(A)悟りの否定か
「正法眼蔵」
- 道元が悟り(見性体験)を否定した証拠として酒井得元氏が引用する根拠の一つ。(「永平高祖の見性批判について」(「道元思想体系7」(道元禅の成立)同朋舎出版、1995年、78頁))
「いはゆる佛祖の保任する即心是佛は、外道二乘のゆめにもみるところにあらず。唯佛祖與佛祖のみ即心是佛しきたり、究盡しきたる聞著あり、行取あり、證著あり。
佛百草を拈却しきたり、打失しきたる。しかあれども丈六の金身に説似せず。
即公案あり、見成を相待せず、敗壞を廻避せず。
是三界あり、退出にあらず、唯心にあらず。
心牆壁あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。
あるいは即心是佛を參究し、心即佛是を參究し、佛即是心を參究し、即心佛是を參究し、是佛心即を參究す。かくのごとくの參究、まさしく即心是佛、これを擧して即心是佛に正傳するなり。かくのごとく正傳して今日にいたれり。いはゆる正傳しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり。
このゆゑに古人いはく、若人識得心、大地無寸土(若し人、心を識得せば、大地に寸土無し)。
しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落し、@(そう)地裂破す。あるいは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。」(1)
- 道元が悟りを否定した証拠として酒井得元氏が引用する根拠の一つ。(「永平高祖の見性批判について」(「道元思想体系7」(道元禅の成立)同朋舎出版、1995年、67頁))
「而今の山水は、古佛の道現成なり。ともに法位に住して、究盡の功徳を成ぜり。空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱なり。山の諸功徳高廣なるをもて、乘雲の道徳かならず山より通達す、順風の妙功さだめて山より透脱するなり。
大陽山楷和尚示衆云、青山常運歩、石女夜生兒。
山はそなはるべき功徳の虧闕することなし。このゆゑに常安住なり、常運歩なり。さの運歩の功徳、まさに審細に參學すべし。山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆゑに、人間の行歩におなじくみえざればとて、山の運歩をうたがふことなかれ。
いま佛祖の説道、すでに運歩を指示す、これその得本なり。常運歩の示衆を究辨すべし。運歩のゆゑに常なり。青山の運歩は其疾如風よりもすみやかなれども、山中人は不覺不知なり、山中とは世界裏の花開なり。山外人は不覺不知なり、山をみる眼目あらざる人は、不覺不知、不見不聞、這箇道理なり。もし山の運歩を疑著するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしられざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに青山の運歩をもしるべきなり。
青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず。いま青山の運歩を疑著せんことうべからず。いく法界を量局として青山を照鑑すべしとしらず。青山の運歩、および自己の運歩、あきらかに&(けん)點すべきなり。退歩歩退、ともに&(けん)點あるべし。
未朕兆の正當時、および空王那畔より、進歩退歩に、運歩しばらくもやまざること、&(けん)點すべし。運歩もし休することあらば、佛祖不出現なり。運歩もし窮極あらば、佛法不到今日ならん。進歩いまだやまず、退歩いまだやまず。進歩のとき退歩に乖向せず、退歩のとき進歩を乖向せず。この功徳を山流とし、流山とす。
青山も運歩を參究し、東山も水上行を參學するがゆゑに、この參學は山の參學なり。山の身心をあらためず、山の面目ながら廻途參學しきたれり。
青山は運歩不得なり、東山水上行不得なると、山を誹謗することなかれ。低下の見處のいやしきゆゑに、青山運歩の句をあやしむなり。小聞のつたなきによりて、流山の語をおどろくなり。いま流水の言も七通八達せずといへども、小見小聞に沈溺せるのみなり。
しかあれば、所積の功徳を擧せるを形名とし、命脈とせり。運歩あり、流行あり。山の山兒を生ずる時節あり、山の佛祖となる道理によりて、佛祖かくのごとく出現せるなり。
たとひ草木土石牆壁の見成する眼睛あらんときも、疑著にあらず、動著にあらず、全現成にあらず。たとひ七寶莊嚴なりと見取せらるる時節現成すとも、實歸にあらず。たとひ諸佛行道の境界と見現成あるも、あながちの愛處にあらず。たとひ諸佛不思議の功徳と見現成の頂@(ねい)をうとも、如實これのみにあらず。各各の見成は各各の依正なり、これらを佛祖の道業とするにあらず、一隅の管見なり。
轉境轉心は大聖の所呵なり、説心説性は佛祖の所不肯なり。見心見性は外道の活計なり、滯言滯句は解脱の道著にあらず。かくのごとくの境界を透脱せるあり、いはゆる青山常運歩なり、東山水上行なり。審細に參究すべし。
石女夜生兒は石女の生兒するときを夜といふ。おほよそ男石女石あり、非男女石あり。これよく天を補し、地を補す。天石あり、地石あり。俗のいふところなりといへども、人のしるところまれなるなり。生兒の道理しるべし。生兒のときは親子並化するか。兒の親となるを生兒現成と參學するのみならんや、親の兒となるときを生兒現成の修證なりと參學すべし、究徹すべし。」(2)
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「ある漢いはく、釋迦老漢、かつて一代の教典を宣説するほかに、さらに上乘一心の法を摩訶迦葉に正傳す、嫡嫡相承しきたれり。しかあれば、教は赴機の戲論なり、心は理性の眞實なり。この正傳せる一心を、教外別傳といふ。三乘十二分教の所談にひとしかるべきにあらず。一心上乘なるゆゑに、直指人心、見性成佛なりといふ。
この道取、いまだ佛法の家業にあらず。出身の活路なし、通身の威儀あらず。かくのごとくの漢、たとひ數百千年のさきに先達と稱ずとも、恁麼の説話あらば、佛法佛道はあきらめず、通ぜざりけるとしるべし。ゆゑはいかん、佛をしらず、教をしらず、心をしらず、内をしらず、外をしらざるがゆゑに。そのしらざる道理は、かつて佛法をきかざるによりてなり。いま諸佛といふ本末、いかなるとしらず。去來の邊際すべて學せざるは、佛弟子と稱ずるにたらず。ただ一心を正傳して、佛教を正傳せずといふは、佛法をしらざるなり。佛教の一心をしらず、一心の佛教をきかず。一心のほかに佛教ありといふ、なんぢが一心、いまだ一心ならず。佛教のほかに一心ありといふ、なんぢが佛教いまだ佛教ならざらん。たとひ教外別傳の謬説を相傳すといふとも、なんぢいまだ内外をしらざれば、言理の符合あらざるなり。
佛正法眼藏を單傳する佛祖、いかでか佛教を單傳せざらん。いはんや釋迦老漢、なにとしてか佛家の家業にあるべからざらん教法を施設することあらん。釋迦老漢すでに單傳の教法をあらしめん、いづれの佛祖かなからしめん。このゆゑに、上乘一心といふは、三乘十二分教これなり、大藏小藏これなり。
しるべし、佛心といふは、佛の眼睛なり、破木杓なり、諸法なり、三界なるがゆゑに、山海國土、日月星辰なり。佛教といふは、萬像森羅なり。外といふは、這裏なり、這裏來なり。正傳は、自己より自己に正傳するがゆゑに、正傳のなかに自己あるなり。一心より一心に正傳するなり、正傳に一心あるべし。上乘一心は、土石砂礫なり、土石砂礫は一心なるがゆゑに、土石砂礫は土石砂礫なり。もし上乘一心の正傳といはば、かくのごとくあるべし。
しかあれども、教外別傳を道取する漢、いまだこの意旨をしらず。かるがゆゑに、教外別傳の謬説を信じて、佛教をあやまることなかれ。もしなんぢがいふがごとくならば、教をば心外別傳といふべきか。もし心外別傳といはば、一句半偈つたはるべからざるなり。もし心外別傳といはずは、教外別傳といふべからざるなり。
摩訶迦葉すでに釋尊の嫡子として法藏の教主たり。正法眼藏を正傳して佛道の住持なり。しかありとも、佛教は正傳すべからずといふは、學道の偏局なるべし。しるべし、一句を正傳すれば、一法の正傳せらるるなり。一句を正傳すれば、山傳水傳あり。不能離却這裡(這裏を離却すること能はず)なり。
釋尊の正法眼藏無上菩提は、ただ摩訶迦葉に正傳せしなり。餘子に正傳せず、正傳はかならず摩訶迦葉なり。このゆゑに、古今に佛法の眞實を學する箇箇、ともにみな從來の教學を決擇するには、かならず佛祖に參究するなり。決を餘輩にとぶらはず。もし佛祖の正決をえざるは、いまだ正決にあらず。依教の正不を決せんとおもはんは、佛祖に決すべきなり。そのゆゑは、盡法輪の本主は佛祖なるがゆゑに。道有道無、道空道色(有と道ひ無と道ひ、空と道ひ色と道ふ)、ただ佛祖のみこれをあきらめ、正傳しきたりて、古佛今佛なり。」(3)
(注)
- (1)「即心是仏」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、56頁。@=しんにょうに匝(そう) 。
- (2)「山水経」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、316頁。@=寧偏に頁(ねい)、 &=手偏の儉(けん)。
- (3)「仏教」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、381頁。
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