もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

(この文献の中から、このテーマについて、まだ、全収録には至っていませんが、別の論考で触れているため、一応、一部を記載したものをアップロードしておきます。)
我見・我執を捨てる
我見・我執を捨てる
「正法眼蔵」
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「身心に法いまだ參飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、萬法またしかあり。塵中格外、おほく樣子を帶せりといへども、參學眼力のおよぶばかりを見取會取するなり。萬法の家風をきかんには、方圓とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。」(1)
- 「行佛の威儀をC見せんとき、天上人間のまなこをもちゐることなかれ、天上人間の情量をもちゐるべからず。これを擧して測量せんと擬することなかれ。十聖三賢なほこれをしらずあきらめず、いはんや人中天上の測量のおよぶことあらんや。人量短小なるには識智も短小なり、壽命短促なるには思慮も短促なり。いかにしてか行佛の威儀を測量せん。 しかあればすなはち、ただ人間を擧して佛法とし、人法を擧して佛法を局量せる家門、かれこれともに佛子と許可することなかれ、これただ業報の衆生なり。いまだ身心の聞法あるにあらず、いまだ行道せる身心なし。從法生にあらず、從法滅にあらず、從法見にあらず、從法聞にあらず、從法行住坐臥にあらず。かくのごとくの儻類、かつて法の潤益なし。行佛は本覺を愛せず、始覺を愛せず、無覺にあらず、有覺にあらずといふ、すなはちこの道理なり。」(2)
- 「
」(3)
(注)
- (1)「現成公案」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、4頁。
- (2)「行仏威儀」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、65頁。
- (3)同上、x頁。
- (2)同上、x頁。
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