もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

(この文献の中から、このテーマについて、まだ、全収録には至っていませんが、別の論考で触れているため、一応、一部を記載したものをアップロードしておきます。)
煩悩の捨棄・持戒
(a)煩悩の捨棄・持戒
「正法眼蔵」
- 「身學道といふは、身にて學道するなり。赤肉團の學道なり。身は學道よりきたり、學道よりきたれるは、ともに身なり。盡十方界是箇眞實人體なり、生死去來眞實人體なり。この身體をめぐらして、十惡をはなれ、八戒をたもち、三寶に歸依して捨家出家する、眞實の學道なり。このゆゑに眞實人體といふ。後學かならず自然見の外道に同ずることなかれ。」(1)
- 「盡十方世界といふは、十方面ともに盡界なり。東西南北四維上下を十方といふ。かの表裏縱横の究盡なる時節を思量すべし。思量するといふは、人體はたとひ自他に@礙せらるといふとも、盡十方なりと諦觀し、決定するなり。これ未曾聞をきくなり。方等なるゆゑに、界等なるゆゑに。人體は四大五蘊なり、大塵ともに凡夫の究盡するところにあらず、聖者の參究するところなり。又、一塵に十方を諦觀すべし、十方は一塵に嚢括するにあらず。あるいは一塵に僧堂佛殿を建立し、あるいは僧堂佛殿に、盡界を建立せり。これより建立せり、建立これよりなれり。
恁麼の道理、すなはち盡十方界眞實人體なり。自然天然の邪見をならふべからず。」(2)
- 「佛佛祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは即心是佛のみなり。しかあるを、西天には即心是佛なし、震旦にはじめてきけり。學者おほくあやまるによりて、將錯就錯せず。將錯就錯せざるゆゑに、おほく外道に零落す。
いはゆる即心の話をききて、癡人おもはくは、衆生の慮知念覺の未發菩提心なるを、すなはち佛とすとおもへり。これはかつて正師にあはざるによりてなり。」(3)
- 「この行佛は、頭頭に威儀現成するゆゑに、身前に威儀現成す、道前に化機漏泄すること、亙時なり、亙方なり、亙佛なり亙行なり。行佛にあらざれば、佛縛法縛いまだ解脱せず、佛魔法魔に黨類せらるるなり。
佛縛といふは、菩提を菩提と知見解會する、即知見、即解會に即縛せられぬるなり。一念を經歴するに、なほいまだ解脱の期を期せず、いたづらに錯解す。菩提をすなはち菩提なりと見解せん、これ菩提相應の知見なるべし。たれかこれを邪見といはんと想憶す、これすなはち無繩自縛なり。縛縛綿綿として樹倒藤枯にあらず。いたづらに佛邊の@(か)窟に活計せるのみなり。法身のやまふをしらず、報身の窮をしらず。
教家經師論師等の佛道を遠聞せる、なほしいはく、即於法性、起法性見、即是無明(法性に即して法性の見を起す、即ち是れ無明なり)。この教家のいはくは、法性に法性の見おこるに、法性の縛をいはず、さらに無明の縛をかさぬ、法性の縛あることをしらず。あはれむべしといへども、無明縛のかさなれるをしれるは、發菩提心の種子となりぬべし。いま行佛、かつてかくのごとくの縛に縛せられざるなり。」(4)
- 「しかあればすなはち、修證は無にあらず、修證は有にあらず、修證は染汚にあらず。無佛無人の處在に百千萬ありといへども、行佛を染汚せず。ゆゑに行佛の修證に染汚せられざるなり。修證の不染汚なるにはあらず、この不染汚、それ不無なり。」(5)
- 「又、宋朝に居士といふは、未出家の士夫なり。庵居して夫婦そなはれるもあり、又孤獨潔白なるもあり。なほ塵勞稠林といひぬべし。しかあれども、あきらむるところあるは、雲衲霞袂あつまりて禮拜請益すること、出家の宗匠におなじ。たとひ女人なりとも、畜生なりとも、又しかあるべし。」(6)
(注)
- (1)「身心学道」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、49頁。
- (2)同上、50頁。
- (3)「即心是仏」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、53頁。
- (4)「行仏威儀」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、59頁。@=穴冠に果(か)。
- (5)同上、60頁。
- (6)「礼拝得髄」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、308頁。
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