もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

(この文献の中から、このテーマについて、まだ、全収録には至っていませんが、別の論考で触れているため、一応、一部を記載したものをアップロードしておきます。)
仏性、如来蔵思想に類似の言葉ー七十五巻「正法眼蔵」ー越前下向前
(a)如来蔵思想に類似の言葉
「正法眼蔵・仏性」巻の全文(後半)
- 「第十四祖龍樹尊者、梵云那伽閼刺樹那。唐云龍樹亦龍勝、亦云龍猛。西天竺國人也。至南天竺國。彼國之人、多信福業。尊者爲説妙法。聞者逓相謂曰、人有福業、世間第一。徒言佛性、誰能覩之。
(第十四祖龍樹尊者、梵に那伽閼刺樹那と云ふ。唐には龍樹また龍勝と云ふ、また龍猛と云ふ。西天竺國の人なり。南天竺國に至る。彼の國の人、多く福業を信ず。尊者、爲に妙法を説く。聞く者、逓相に謂つて曰く、人の福業有る、世間第一なり。徒らに佛性を言ふ、誰か能く之を覩たる。)
尊者曰、汝欲見佛性、先須除我慢。(汝佛性を見んと欲はば、先づ須らく我慢を除くべし。)
彼人曰、佛性大耶小耶。(佛性大なりや小なりや。)
尊者曰く、佛性非大非小、非廣非狹、無福無報、不死不生。(佛性大に非ず小に非ず、廣に非ず狹に非ず、福無く報無く、不死不生なり。)
彼聞理勝、悉廻初心。(彼、理の勝たることを聞いて、悉く初心を廻らす。)
尊者復於座上現自在身、如滿月輪。一切衆會、唯聞法音、不覩師相。
(尊者、また坐上に自在身を現ずること、滿月輪の如し。一切衆會、唯法音のみを聞いて、師相を覩ず。)
於彼衆中、有長者子迦那提婆、謂衆會曰、識此相否。(彼の衆の中に、長者子迦那提婆といふもの有り、衆會に謂つて曰く、此の相を識るや否や。)
衆會曰、而今我等目所未見、耳無所聞、心無所識、身無所住。(衆會曰く、而今我等目に未だ見ざる所、耳に聞く所無く、心に識る所無く、身に住する所無し。)
提婆曰、此是尊者、現佛性相、以示我等。何以知之。蓋以無相三昧形如滿月。佛性之義、廓然虚明。(此れは是れ尊者、佛性の相を現して、以て我等に示す。何を以てか之を知る。蓋し、無相三昧は形滿月の如くなるを以てなり。佛性の義は廓然虚明なり)
言訖輪相即隱。復居本座、而説偈言、(言ひ訖るに、輪相即ち隱る。また本座に居して、偈を説いて言く、)
身現圓月相、以表諸佛體、説法無其形、用辯非聲色。
(身に圓月相を現じ、以て諸佛の體を表す、説法其の形無し、用辯は聲色に非ず。)
しるべし、眞箇の用辯は聲色の即現にあらず。眞箇の説法は無其形なり。尊者かつてひろく佛性を爲説する、不可數量なり。いまはしばらく一隅を略擧するなり。
汝欲見佛性、先須除我慢。この爲説の宗旨、すごさず辨肯すべし。見はなきにあらず、その見これ除我慢なり。我もひとつにあらず、慢も多般なり、除法また萬差なるべし。しかあれども、これらみな見佛性なり。眼見目覩にならふべし。
佛性非大非小等の道取、よのつねの凡夫二乘に例諸することなかれ。偏枯に佛性は廣大ならんとのみおもへる、邪念をたくはへきたるなり。大にあらず小にあらざらん正當恁麼時の道取に@(けい)礙せられん道理、いま聽取するがごとく思量すべきなり。思量なる聽取を使得するがゆゑに。
しばらく尊者の道著する偈を聞取すべし、いはゆる身現圓月相、以表諸佛體なり。すでに諸佛體を以表しきたれる身現なるがゆゑに圓月相なり。しかあれば、一切の長短方圓、この身現に學習すべし。身と現とに轉疎なるは、圓月相にくらきのみにあらず、諸佛體にあらざるなり。愚者おもはく、尊者かりに化身を現ぜるを圓月相といふとおもふは、佛道を相承せざる黨類の邪念なり。いづれのところのいづれのときか、非身の他現ならん。まさにしるべし、このとき尊者は高座せるのみなり。身現の儀は、いまのたれ人も坐せるがごとくありしなり。この身、これ圓月相現なり。身現は方圓にあらず、有無にあらず、隱顯にあらず、八萬四千蘊にあらず、ただ身現なり。圓月相といふ、這裏是甚麼處在、説細説&(そ)月(這裏是れ甚麼の處在ぞ、細と説き、&(そ)と説く月)なり。この身現は、先須除我慢なるがゆゑに、龍樹にあらず、諸佛體なり。以表するがゆゑに諸佛體を透脱す。しかあるがゆゑに、佛邊にかかはれず。佛性の滿月を形如する虚明ありとも、圓月相を排列するにあらず。いはんや用辯も聲色にあらず、身現も色身にあらず、蘊處界にあらず。蘊處界に一似なりといへども以表なり、諸佛體なり。これ説法蘊なり、それ無其形なり。無其形さらに無相三昧なるとき身現なり。一衆いま圓月相を望見すといへども、目所未見なるは、説法蘊の轉機なり、現自在身の非聲色なり。即隱、即現は、輪相の進歩退歩なり。復於座上現自在身の正當恁麼時は、一切衆會、唯聞法音するなり、不覩師相なるなり。
尊者の嫡嗣迦那提婆尊者、あきらかに滿月相を識此し、圓月相を識此し、身現を識此し、諸佛性を識此し、諸佛體を識此せり。入室瀉#(びょう)の衆たとひおほしといへども、提婆と齊肩ならざるべし。提婆は半座の尊なり、衆會の導師なり、全座の分座なり。正法眼藏無上大法を正傳せること、靈山に摩訶迦葉尊者の座元なりしがごとし。龍樹未廻心のさき、外道の法にありしときの弟子おほかりしかども、みな謝遣しきたれり。龍樹すでに佛祖となれりしときは、ひとり提婆を附法の正嫡として、大法眼藏を正傳す。これ無上佛道の單傳なり。しかあるに、僭僞の邪群、ままに自稱すらく、われらも龍樹大士の法嗣なり。論をつくり義をあつむる、おほく龍樹の手をかれり、龍樹の造にあらず。むかしすてられし群徒の、人天を惑亂するなり。佛弟子はひとすぢに、提婆の所傳にあらざらんは、龍樹の道にあらずとしるべきなり。これ正信得及なり。しかあるに、僞なりとしりながら稟受するものおほかり。謗大般若の衆生の愚蒙、あはれみかなしむべし。
迦那提婆尊者、ちなみに龍樹尊者の身現をさして衆會につげていはく、此是尊者、現佛性相、以示我等。何以知之。蓋以無相三昧形如滿月。佛性之義、廓然虚明(此れは是れ尊者、佛性の相を現じて、以て我等に示すなり。何を以てか之れを知る。蓋し、無相三昧は形滿月の如くなるを以てなり。佛性の義は、廓然として虚明)なり。
いま天上人間、大千法界に流布せる佛法を見聞せる前後の皮袋、たれか道取せる、身現相は佛性なりと。大千界にはただ提婆尊者のみ道取せるなり。餘者はただ、佛性は眼見耳聞心識等にあらずとのみ道取するなり。身現は佛性なりとしらざるゆゑに道取せざるなり。祖師のをしむにあらざれども、眼耳ふさがれて見聞することあたはざるなり。身識いまだおこらずして、了別することあたはざるなり。無相三昧の形如滿月なるを望見し禮拜するに、目未所覩なり。佛性之義、廓然虚明なり。
しかあれば身現の説佛性なる、虚明なり、廓然なり。説佛性の身現なる、以表諸佛體なり。いづれの一佛二佛か、この以表を佛體せざらん。佛體は身現なり、身現なる佛性あり。四大五蘊と道取し會取する佛量祖量も、かへりて身現の造次なり。すでに諸佛體といふ、蘊處界のかくのごとくなるなり。一切の功徳、この功徳なり。佛功徳はこの身現を究盡し、嚢括するなり。一切無量無邊の功徳の往來は、この身現の一造次なり。
しかあるに、龍樹提婆師資よりのち、三國の諸方にある前代後代、ままに佛學する人物、いまだ龍樹提婆のごとく道取せず。いくばくの經師論師等か、佛祖の道を蹉過する。大宋國むかしよりこの因縁を畫せんとするに、身に畫し心に畫し、空に畫し、壁に畫することあたはず、いたづらに筆頭に畫するに、法座上に如鏡なる一輪相を圖して、いま龍樹の身現圓月相とせり。すでに數百歳の霜華も開落して、人眼の金屑をなさんとすれども、あやまるといふ人なし。あはれむべし、萬事の蹉%(だ)たることかくのごときなる。もし身現圓月相は一輪相なりと會取せば、眞箇の畫餠一枚なり。弄他せん、笑也笑殺人なるべし。かなしむべし、大宋一國の在家出家、いづれの一箇も、龍樹のことばをきかずしらず、提婆の道を通ぜずみざること。いはんや身現に親切ならんや。圓月にくらし、滿月を虧闕せり。これ稽古のおろそかなるなり、慕古いたらざるなり。古佛新佛、さらに眞箇の身現にあうて、畫餠を賞翫することなかれ。
しるべし、身現圓月相の相を畫せんには、法座上に身現相あるべし。揚眉瞬目それ端直なるべし。皮肉骨髓正法眼藏、かならず兀坐すべきなり。破顔微笑つたはるべし、作佛作祖するがゆゑに。この畫いまだ月相ならざるには、形如なし、説法せず、聲色なし、用辯なきなり。もし身現をもとめば、圓月相を圖すべし。圓月相を圖せば、圓月相を圖すべし、身現圓月相なるがゆゑに。圓月相を畫せんとき、滿月相を圖すべし、滿月相を現すべし。しかあるを、身現を畫せず、圓月を畫せず、滿月相を畫せず、諸佛體を圖せず、以表を體せず、説法を圖せず、いたづらに畫餠一枚を圖す、用作什麼(用て什麼にか作ん)。これを急著眼看せん、たれか直至如今飽不飢ならん。月は圓形なり、圓は身現なり。圓を學するに一枚錢のごとく學することなかれ、一枚餠に相似することなかれ。身相圓月身なり、形如滿月形なり。一枚錢、一枚餠は、圓に學習すべし。」(1)
- 「予、雲遊のそのかみ、大宋國にいたる、嘉定十六年癸未秋のころ、はじめて阿育王山廣利禪寺にいたる。西廊の壁間に、西天東地三十三祖の變相を畫せるをみる。このとき領覽なし。のちに寶慶元年乙酉夏安居のなかに、かさねていたるに、西蜀の成桂知客と、廊下を行歩するついでに、
予、知客にとふ。這箇是什麼變相(這箇は是れ什麼の變相ぞ)。
知客いはく、龍樹身現圓月相(龍樹の身現圓月相なり)。かく道取する顔色に鼻孔なし、聲裏に語句なし。
予いはく、眞箇是一枚畫餠相似(眞箇に是れ一枚の畫餠に相似せり)。
ときに知客、大笑すといへども、笑裏無刀、破畫餠不得(笑裏に刀無く、畫餠を破すること不得)なり。
すなはち知客と予と、舍利殿および六殊勝地等にいたるあひだ、數番擧揚すれども、疑著するにもおよばず。おのづから下語する僧侶も、おほく都不是なり。
予いはく、堂頭にとふてみん。ときに堂頭は大光和尚なり。
知客いはく、他無鼻孔、對不得。如何得知(他は鼻孔無し、對へ得じ。如何でか知ることを得ん)。
ゆゑに光老にとはず。恁麼道取すれども、桂兄も會すべからず。聞説する皮袋も道取せるなし。前後の粥飯頭みるにあやしまず、あらためなほさず。又、畫することうべからざらん法はすべて畫せざるべし。畫すべくは端直に畫すべし。しかあるに、身現の圓月相なる、かつて畫せるなきなり。
おほよそ佛性は、いまの慮知念覺ならんと見解することさめざるによりて、有佛性の道にも、無佛性の道にも、通達の端を失せるがごとくなり。道取すべきと學習するもまれなり。しるべし、この疎怠は癈せるによりてなり。諸方の粥飯頭、すべて佛性といふ道得を、一生いはずしてやみぬるもあるなり。あるいはいふ、聽教のともがら佛性を談ず、參禪の雲衲はいふべからず。かくのごとくのやからは、眞箇是畜生なり。なにといふ魔黨の、わが佛如來の道にまじはりけがさんとするぞ。聽教といふことの佛道にあるか、參禪といふことの佛道にあるか。いまだ聽教參禪といふこと、佛道にはなしとしるべし。」(2)
- 「杭州鹽官縣齊安國師は、馬祖下の尊宿なり。ちなみに衆にしめしていはく、一切衆生有佛性。
いはゆる一切衆生の言、すみやかに參究すべし。一切衆生、その業道依正ひとつにあらず、その見まちまちなり。凡夫外道、三乘五乘等、おのおのなるべし。いま佛道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆゑに。無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆゑに。しかあれば、心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有佛性なり。草木國土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有佛性なり。日月星辰これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有佛性なり。國師の道取する有佛性、それかくのごとし。もしかくのごとくにあらずは、佛道に道取する有佛性にあらざるなり。いま國師の道取する宗旨は、一切衆生有佛性のみなり。さらに衆生にあらざらんは、有佛性にあらざるべし。しばらく國師にとふべし、一切諸佛有佛性也無(一切諸佛、有佛性なりや也無や)。かくのごとく問取し、試驗すべきなり。一切衆生即佛性といはず、一切衆生、有佛性といふと參學すべし。有佛性の有、まさに脱落すべし。脱落は一條鐵なり、一條鐵は鳥道なり。しかあれば、一切衆生有衆生なり。これその道理は、衆生を説透するのみにあらず、佛性をも説透するなり。國師たとひ會得を道得に承當せずとも、承當の期なきにあらず。今日の道得、いたづらに宗旨なきにあらず。又、自己に具する道理、いまだかならずしもみづから會得せざれども、四大五陰もあり、皮肉骨髓もあり。しかあるがごとく、道取も、一生に道取することもあり、道取にかかれる生生もあり。」(3)
- 「大@(い)山大圓禪師、あるとき衆にしめしていはく、一切衆生無佛性。
これをきく人天のなかに、よろこぶ大機あり、驚疑のたぐひなきにあらず。釋尊説道は一切衆生悉有佛性なり、大@(い)の説道は一切衆生無佛性なり。有無の言理、はるかにことなるべし、道得の當不、うたがひぬべし。しかあれども、一切衆生無佛性のみ佛道に長なり。鹽官有佛性の道、たとひ古佛とともに一隻の手をいだすににたりとも、なほこれ一條&(しゅ)杖兩人舁なるべし。
いま大@(い)はしかあらず、一條&(しゅ)杖呑兩人なるべし。いはんや國師は馬祖の子なり、大@(い)は馬祖の孫なり。しかあれども、法孫は、師翁の道に老大なり、法子は、師父の道に年少なり。いま大@(い)道の理致は、一切衆生無佛性を理致とせり。いまだ曠然繩墨外といはず。自家屋裏の經典、かくのごとくの受持あり。さらに摸%(さく)すべし、一切衆生なにとしてか佛性ならん、佛性あらん。もし佛性あるは、これ魔黨なるべし。魔子一枚を將來して、一切衆生にかさねんとす。佛性これ佛性なれば、衆生これ衆生なり。衆生もとより佛性を具足せるにあらず。たとひ具せんともとむとも、佛性はじめてきたるべきにあらざる宗旨なり。張公喫酒李公醉(張公酒を喫すれば李公醉ふ)といふことなかれ。もしおのづから佛性あらんは、さらに衆生あらず。すでに衆生あらんは、つひに佛性にあらず。
このゆゑに百丈いはく、説衆生有佛性、亦謗佛法僧。説衆生無佛性、亦謗佛法僧。(衆生に佛性有りと説くもまた佛法僧を謗ず。衆生に佛性無しと説くもまた佛法僧を謗ずるなり)。しかあればすなはち、有佛性といひ無佛性といふ、ともに謗となる。謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず。
且問$(なんじ)、大@(い)、百丈しばらくきくべし。謗はすなはちなきにあらず、佛性は説得すやいまだしや。たとひ説得せば、説著を#(けい)礙せん。説著あらば聞著と同參なるべし。また、大@(い)にむかひていふべし。一切衆生無佛性はたとひ道得すといふとも、一切佛性無衆生といはず、一切佛性無佛性といはず、いはんや一切諸佛無佛性は夢也未見在(夢にもまた未だ見ざること在る)なり。試擧看(試みに擧げて看よ)。」(4)
- 「百丈山大智禪師示衆云、佛是最上乘、是上上智。是佛道立此人、是佛有佛性、是導師。是使得無所礙風、是無礙慧。於後能使得因果、福智自由。是作車運載因果。處於生不被生之所留、處於死不被死之所礙、處於五陰如門開。不被五陰礙、去住自由、出入無難。若能恁麼、不論階梯勝劣、乃至蟻子之身、但能恁麼、盡是淨妙國土、不可思議。
(百丈山大智禪師、衆に示して云く、佛は是れ最上乘なり、是れ上上智なり。是れ佛道立此人なり、是れ佛有佛性なり、是れ導師なり。是れ使得無所礙風なり、是れ無礙慧なり。於後能く因果を使得す、福智自由なり。是れ車となして因果を運載す。生に處して生に留められず、死に處して死に礙へられず、五陰に處して門の開るが如し。五陰に礙へられず、去住自由にして、出入無難なり。若し能く恁麼なれば、階梯勝劣を論ぜず、乃至蟻子之身も、但能く恁麼ならば、盡く是れ淨妙國土、不可思議なり)。
これすなはち百丈の道處なり。いはゆる五蘊は、いまの不壞身なり。いまの造次は門開なり、不被五陰礙なり。生を使得するに生にとどめられず、死を使得するに死にさへられず。いたづらに生を愛することなかれ、みだりに死を恐怖することなかれ。すでに佛性の處在なり、動著し厭却するは外道なり。現前の衆縁と認ずるは使得無礙風なり。これ最上乘なる是佛なり。この是佛の處在、すなはち淨妙國土なり。」(5)
- 「黄檗南泉在茶堂内坐。南泉問黄檗、定慧等學、明見佛性。此理如何。(黄檗南泉の茶堂の内に在つて坐す。南泉、黄檗に問ふ、定慧等學、明見佛性。此の理如何。)
黄檗云、十二時中不依倚一物始得。(十二時中一物にも依倚せずして始得ならん。)
南泉云く、莫便是長老見處麼。(便ち是れ長老の見處なることなきや。)
黄檗曰く、不敢。
南泉云、醤水錢且致、草鞋錢教什麼人還。(醤水錢は且く致く、草鞋錢は什麼人をしてか還さしめん。)
黄檗便休。(黄檗便ち休す。)
いはゆる定慧等學の宗旨は、定學の慧學をさへざれば、等學するところに明見佛性のあるにはあらず、明見佛性のところに、定慧等學の學あるなり。此理如何と道取するなり。たとへば、明見佛性はたれか所作なるぞと道取せんもおなじかるべし。佛性等學、明見佛性、此理如何と道取せんも道得なり。
黄檗いはく、十二時中不依倚一物といふ宗旨は、十二時中たとひ十二時中に處在せりとも、不依倚なり。不依倚一物、これ十二時なるがゆゑに佛性明見なり。この十二時中、いづれの時節到來なりとかせん、いづれの國土なりとかせん。いまいふ十二時は、人間の十二時なるべきか、他那裏に十二時のあるか、白銀世界の十二時のしばらくきたれるか。たとひ此土なりとも、たとひ他界なりとも、不依倚なり。すでに十二時中なり、不依倚なるべし。
莫便是長老見處麼といふは、これを見處とはいふまじやといふがごとし。長老見處麼と道取すとも、自己なるべしと囘頭すべからず。自己に的當なりとも、黄檗にあらず。黄檗かならずしも自己のみにあらず、長老見處は露廻廻なるがゆゑに。
黄檗いはく、不敢。
この言は、宋土に、おのれにある能を問取せらるるには、能を能といはんとても、不敢といふなり。しかあれば、不敢の道は不敢にあらず。この道得はこの道取なること、はかるべきにあらず。長老見處たとひ長老なりとも、長老見處たとひ黄檗なりとも、道取するには不敢なるべし。一頭水&(こ)牛出來道吽吽(一頭の水&(こ)牛出で來りて吽吽と道ふ)なるべし。かくのごとく道取するは、道取なり。道取する宗旨さらに又道取なる道取、こころみて道取してみるべし。
南泉いはく、醤水錢且致、草鞋錢教什麼人還。
いはゆるは、こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめんとなり。この道取の意旨、ひさしく生生をつくして參究すべし。醤水錢いかなればかしばらく不管なる、留心勤學すべし。草鞋錢なにとしてか管得する。行脚の年月にいくばくの草鞋をか踏破しきたれるとなり。いまいふべし、若不還錢、未著草鞋(若し錢を還さずは、未だ草鞋を著かじ)。またいふべし、兩三輪。この道得なるべし、この宗旨なるべし。
黄檗便休。これは休するなり。不肯せられて休し、不肯にて休するにあらず。本色衲子しかあらず。しるべし休裏有道は、笑裏有刀のごとくなり。これ佛性明見の粥足飯足なり。」(6)
- 「この因縁を擧して、@(い)山、仰山にとうていはく、莫是黄檗搆他南泉不得麼(是れ黄檗他の南泉を搆すること得ざるにあらずや)。
仰山いはく、不然。須知、黄檗有陷虎之機(然らず。須く知るべし、黄檗陷虎之機有ることを)。
@(い)山いはく、子見處、得恁麼長(子が見處、恁麼に長ずること得たり)。
大@(い)の道は、そのかみ黄檗は南泉を搆不得なりやといふ。
仰山いはく、黄檗は陷虎の機あり。すでに陷虎することあらば、#(らつ)虎頭なるべし。
陷虎#(らつ)虎、異類中行。明見佛性也、開一隻眼。佛性明見也、失一隻眼。速道速道。佛性見處、得恁麼長
(虎を陷れ虎を#(らつ)る。異類中に行く。佛性を明見しては一隻眼を開き、佛性明見すれば一隻眼を失す。速やかに道へ、速やかに道へ。佛性の見處、恁麼に長ずることを得たり)なり。
このゆゑに、半物全物、これ不依倚なり。百千物、不依倚なり、百千時、不依倚なり。このゆゑにいはく、$(ら)篭一枚、時中十二。依倚不依倚、如葛藤倚樹。天中及全天、後頭未有語($(ら)篭は一枚、時中は十二、依倚も不依倚も、葛藤の樹に依が如し。天中と全天と、後頭未だ語あらず)なり。」(7)
- 「趙州眞際大師にある僧とふ、狗子還有佛性也無(狗子にまた佛性有りや無や)。
この問の意趣あきらむべし。狗子とはいぬなり。かれに佛性あるべしと問取せず、なかるべしと問取するにあらず。これは、鐵漢また學道するかと問取するなり。あやまりて毒手にあふ、うらみふかしといへども、三十年よりこのかた、さらに半箇の聖人をみる風流なり。
趙州いはく、無。
この道をききて、習學すべき方路あり。佛性の自稱する無も恁麼なるべし、狗子の自稱する無も恁麼道なるべし、傍觀者の喚作の無も恁麼道なるべし。その無わづかに消石の日あるべし。
僧いはく、一切衆生皆有佛性、狗子爲甚麼無(一切衆生皆佛性有り、狗子甚麼としてか無き)。
いはゆる宗旨は、一切衆生無ならば、佛性も無なるべし、狗子も無なるべしといふ、その宗旨作麼生、となり。狗子佛性、なにとして無をまつことあらん。
趙州いはく、爲他有業識在(他に業識在ること有るが爲なり)。
この道旨は、爲他有は業識なり。業識有、爲他有なりとも、狗子無、佛性無なり。業識いまだ狗子を會せず、狗子いかでか佛性にあはん。たとひ雙放雙収すとも、なほこれ業識の始終なり。
趙州有僧問、狗子還有佛性也無。(趙州に僧有って問ふ、狗子にまた佛性有りや無や)。
この問取は、この僧、搆得趙州の道理なるべし。しかあれば、佛性の道取問取は、佛祖の家常茶飯なり。
趙州いはく、有。
この有の樣子は、教家の論師等の有にあらず、有部の論有にあらざるなり。すすみて佛有を學すべし。佛有は趙州有なり、趙州有は狗子有なり、狗子有は佛性有なり。
僧いはく、既有、爲甚麼却撞入這皮袋(既に有ならば、甚麼としてか却この皮袋に撞入する)。
この僧の道得は、今有なるか、古有なるか、既有なるかと問取するに、既有は諸有に相似せりといふとも、既有は孤明なり。既有は撞入すべきか、撞入すべからざるか。撞入這皮袋の行履、いたづらに蹉過の功夫あらず。
趙州いはく、爲他知而故犯(他、知りて故に犯すが爲なり)。
この語は、世俗の言語としてひさしく途中に流布せりといへども、いまは趙州の道得なり。いふところは、しりてことさらをかす、となり。この道得は、疑著せざらん、すくなかるべし。いま一字の入あきらめがたしといへども、入之一字も不用得なり。いはんや欲識庵中不死人、豈離只今這皮袋(庵中不死の人を識らんと欲はば、豈只今のこの皮袋を離れんや)なり。不死人はたとひ阿誰なりとも、いづれのときか皮袋に莫離なる。故犯はかならずしも入皮袋にあらず、撞入這皮袋かならずしも知而故犯にあらず。知而のゆゑに故犯あるべきなり。しるべし、この故犯すなはち脱體の行履を覆藏せるならん。これ撞入と説著するなり。脱體の行履、その正當覆藏のとき、自己にも覆藏し、他人にも覆藏す。しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢。いはんや、雲居高祖いはく、たとひ佛法邊事を學得する、はやくこれ錯用心了也。
しかあれば、半枚學佛法邊事ひさしくあやまりきたること日深月深なりといへども、これ這皮袋に撞入する狗子なるべし。知而故犯なりとも有佛性なるべし。」(8)
- 「長沙景岑和尚の會に、竺尚書とふ、蚯蚓斬爲兩段、兩頭倶動。未審、佛性在阿那箇頭(蚯蚓斬れて兩段と爲る、兩頭倶に動く。未審、佛性阿那箇頭にか在る)。
師云く、莫妄想(妄想すること莫れ)。
書曰く、爭奈動何(動をいかがせん)。
師云く、只是風火未散(只是れ風火の未だ散ぜざるなり)。
いま尚書いはくの蚯蚓斬爲兩段は、未斬時は一段なりと決定するか。佛祖の家常に不恁麼なり。蚯蚓もとより一段にあらず、蚯蚓きれて兩段にあらず。一兩の道取、まさに功夫參學すべし。
兩頭倶動といふ兩頭は、未斬よりさきを一頭とせるか、佛向上を一頭とせるか。兩頭の語、たとひ尚書の會不會にかかはるべからず、語話をすつることなかれ。きれたる兩段は一頭にして、さらに一頭のあるか。その動といふに倶動といふ、定動智拔ともに動なるべきなり。
未審、佛性在阿那箇頭。佛性斬爲兩段、未審、蚯蚓在阿那箇頭といふべし。この道得は審細にすべし。兩頭倶動、佛性在阿那箇頭といふは、倶動ならば佛性の所在に不堪なりといふか。倶動なれば、動はともに動ずといふとも、佛性の所在は、そのなかにいづれなるべきぞといふか。
師いはく、莫妄想。この宗旨は、作麼生なるべきぞ。妄想することなかれ、といふなり。しかあれば、兩頭倶動するに、妄想なし、妄想にあらずといふか、ただ佛性は妄想なしといふか。佛性の論におよばず、兩頭の論におよばず、ただ妄想なしと道取するか、とも參究すべし。
動ずるはいかがせんといふは、動ずればさらに佛性一枚をかさぬべしと道取するか、動ずれば佛性にあらざらんと道著するか。
風火未散といふは、佛性を出現せしむるなるべし。佛性なりとやせん、風火なりとやせん。佛性と風火と、倶出すといふべからず、一出一不出といふべからず、風火すなはち佛性といふべからず。ゆゑに長沙は蚯蚓有佛性といはず、蚯蚓無佛性といはず。ただ莫妄想と道取す、風火未散と道取す。佛性の活計は、長沙の道を卜度すべし。風火未散といふ言語、しづかに功夫すべし。未散といふは、いかなる道理かある。風火のあつまれりけるが、散ずべき期いまだしきと道取するに、未散といふか。しかあるべからざるなり。風火未散はほとけ法をとく、未散風火は法ほとけをとく。たとへば一音の法をとく時節到來なり。説法の一音なる、到來の時節なり。法は一音なり、一音の法なるゆゑに。
又、佛性は生のときのみにありて、死のときはなかるべしとおもふ、もとも少聞薄解なり。生のときも有佛性なり、無佛性なり。死のときも有佛性なり、無佛性なり。風火の散未散を論ずることあらば、佛性の散不散なるべし。たとひ散のときも佛性有なるべし、佛性無なるべし。たとひ未散のときも有佛性なるべし、無佛性なるべし。しかあるを、佛性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは、外道なり。
無始劫來は、癡人おほく識神を認じて佛性とせり、本來人とせる、笑殺人なり。さらに佛性を道取するに、@(た)泥滯水なるべきにあらざれども、牆壁瓦礫なり。向上に道取するとき、作麼生ならんかこれ佛性。還委悉麼(また委悉すや)。
三頭八臂。」(9)
(注)
- (1)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、25頁。
@=あみ頭に圭(けい)。&=鹿が三箇(そ)。#=缶并(びょう)。%=足偏の佗(だ)。
- (2)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、31頁。
- (3)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、33頁。
- (4)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、34頁。
#=あみ頭に圭(けい)。@=さんずいに爲(い)。&=手偏に主(しゅ)。
%=手偏に索(さく)。$=人偏に爾(なんじ)
- (5)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、35頁。
- (6)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、36頁。
&=へんが牛で古(こ)。
- (7)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、38頁。
@=さんずいに爲(い)。#=手偏の埒(らつ)。$=竹冠に羅(ら)。
- (8)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、39頁。
- (9)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、41頁。@=手偏の佗(た)。
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