もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

(この文献の中から、このテーマについて、まだ、全収録には至っていませんが、別の論考で触れているため、一応、一部を記載したものをアップロードしておきます。)
仏性、如来蔵思想に類似の言葉ー七十五巻「正法眼蔵」ー越前下向前
(a)如来蔵思想に類似の言葉
「正法眼蔵・仏性」巻の全文(前半)
- 「
釋迦牟尼佛言、一切衆生、悉有佛性、如來常住、無有變易。
これ、われらが大師釋尊の師子吼の轉法輪なりといへども、一切諸佛、一切祖師の頂&(ねい)眼睛なり。參學しきたること、すでに二千一百九十年[當日日本仁治二年辛丑歳]正嫡わづかに五十代[至先師天童淨和尚]、西天二十八代、代代住持しきたり、東地二十三世、世世住持しきたる。十方の佛祖、ともに住持せり。」
(1)
- 「世尊道の一切衆生、悉有佛性は、その宗旨いかん。是什麼物恁麼來(是れ什麼物か恁麼に來る)の道轉法輪なり。あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。 悉有の言は衆生なり、群有也。すなはち悉有は佛性なり。悉有の一悉を衆生といふ。正當恁麼時は、衆生の内外すなはち佛性の悉有なり。單傳する皮肉骨髓のみにあらず、汝得吾皮肉骨髓なるがゆゑに。
しるべし、いま佛性に悉有せらるる有は、有無の有にあらず。悉有は佛語なり、佛舌なり。佛祖眼睛なり、衲僧鼻孔なり。悉有の言、さらに始有にあらず、本有にあらず、妙有等にあらず、いはんや縁有妄有ならんや。心境性相等にかかはれず。しかあればすなはち、衆生悉有の依正、しかしながら業増上力にあらず、妄縁起にあらず、法爾にあらず、神通修證にあらず。もし衆生の悉有、それ業増上および縁起法爾等ならんには、諸聖の證道および諸佛の菩提、佛祖の眼睛も、業増上力および縁起法爾なるべし。しかあらざるなり。盡界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず、直截根源人未識、忙忙業識幾時休(直に根源を截るも未だ識らず、忙忙たる業識幾時か休せん)なるがゆゑに。妄縁起の有にあらず、@(へん)界不曾藏のゆゑに。@(へん)界不曾藏といふは、かならずしも滿界是有といふにあらざるなり。@(へん)界我有は外道の邪見なり。本有の有にあらず、亙古亙今のゆゑに。始起の有にあらず、不受一塵のゆゑに。條條の有にあらず、合取のゆゑに。無始有の有にあらず、是什麼物恁麼來のゆゑに。始起有の有にあらず、吾常心是道のゆゑに。まさにしるべし、悉有中に衆生快便難逢なり。悉有を會取することかくのごとくなれば、悉有それ透體脱落なり。
佛性の言をききて、學者おほく先尼外道の我のごとく邪計せり。それ、人にあはず、自己にあはず、師をみざるゆゑなり。いたづらに風火の動著する心意識を佛性の覺知覺了とおもへり。たれかいふし、佛性に覺知覺了ありと。覺者知者はたとひ諸佛なりとも、佛性は覺知覺了にあらざるなり。いはんや諸佛を覺者知者といふ覺知は、なんだちが云云の邪解を覺知とせず、風火の動靜を覺知とするにあらず、ただ一兩の佛面祖面、これ覺知なり。
往往に古老先徳、あるいは西天に往還し、あるいは人天を化導する、漢唐より宋朝にいたるまで、稻麻竹葦のごとくなる、おほく風火の動著を佛性の知覺とおもへる、あはれむべし、學道轉疎なるによりて、いまの失誤あり。いま佛道の晩學初心、しかあるべからず。たとひ覺知を學習すとも、覺知は動著にあらざるなり。たとひ動著を學習すとも、動著は恁麼にあらざるなり。もし眞箇の動著を會取することあらば、眞箇の覺知覺了を會取すべきなり。佛之與性、達彼達此(佛と性と、彼に達し、此に達す)なり。佛性かならず悉有なり、悉有は佛性なるがゆゑに。悉有は百雜碎にあらず、悉有は一條鐵にあらず。拈拳頭なるがゆゑに大小にあらず。すでに佛性といふ、諸聖と齊肩なるべからず、佛性と齊肩すべからず。」(2)
- 「ある一類おもはく、佛性は草木の種子のごとし。法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽莖生長し、枝葉花果もすことあり。果實さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに條條の赤心なりと參究すべし。果裏に種子あり、種子みえざれども根莖等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝條大圍となれる、内外の論にあらず、古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根莖枝葉みな同生し同死し、同悉有なる佛性なるべし。」(3)
- 「佛言、欲知佛性義、當觀時節因縁、時節若至、佛性現前。(佛性の義を知らんと欲はば、まさに時節の因縁を觀ずべし。時節若し至れば、佛性現前す。)
いま佛性義をしらんとおもはばといふは、ただ知のみにあらず、行ぜんとおもはば、證せんとおもはば、とかんとおもはばとも、わすれんとおもはばともいふなり。かの説、行、證、忘、錯、不錯等も、しかしながら時節の因縁なり。時節の因縁を觀ずるには、時節の因縁をもて觀ずるなり、拂子@(しゅ)杖等をもて相觀するなり。さらに有漏智、無漏智、本覺、始覺、無覺、正覺等の智をもちゐるには觀ぜられざるなり。
當觀といふは、能觀所觀にかかはれず、正觀邪觀等に準ずべきにあらず、これ當觀なり。當觀なるがゆゑに不自觀なり、不他觀なり、時節因縁&(にい)なり、超越因縁なり。佛性&(にい)なり、脱體佛性なり。佛佛&(にい)なり、性性&(にい)なり。
時節若至の道を、古今のやから往往におもはく、佛性の現前する時節の向後にあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然に佛性現前の時節にあふ。時節いたらざれば、參師問法するにも、辨道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼見取して、いたづらに紅塵にかへり、むなしく雲漢をまぼる。かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道の流類なり。いはゆる欲知佛性義は、たとへば當知佛性義といふなり。當觀時節因縁といふは、當知時節因縁といふなり。いはゆる佛性をしらんとおもはば、しるべし、時節因縁これなり。時節若至といふは、すでに時節いたれり、なにの疑著すべきところかあらんとなり。疑著時節さもあらばあれ、還我佛性來(我れに佛性を還し來れ)なり。しるべし、時節若至は、十二時中不空過なり。若至は、既至といはんがごとし。時節若至すれば、佛性不至なり。しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ佛性の現前なり。あるいは其理自彰なり、おほよそ時節の若至せざる時節いまだあらず、佛性の現前せざる佛性あらざるなり。」(4)
- 「第十二祖馬鳴尊者、第十三祖のために佛性海をとくにいはく、
山河大地、皆依建立、三昧六通、由茲發現。
(山河大地皆依つて建立し、三昧六通茲に由つて發現す。)
しかあれば、この山河大地、みな佛性海なり。皆依建立といふは、建立せる正當恁麼時、これ山河大地なり。すでに皆依建立といふ、しるべし、佛性海のかたちはかくのごとし。さらに内外中間にかかはるべきにあらず。恁麼ならば、山河をみるは佛性をみるなり、佛性をみるは驢腮馬觜をみるなり。皆依は全依なり、依全なりと會取し不會取するなり。
三昧六通由茲發現。しるべし、諸三昧の發現來現、おなじく皆依佛性なり。全六通の由茲不由茲、ともに皆依佛性なり。六神通はただ阿笈摩教にいふ六神通にあらず。六といふは、前三三後三三を六神通波羅蜜といふ。しかあれば、六神通は明明百草頭、明明佛祖意なりと參究することなかれ。六神通に滯累せしむといへども、佛性海の朝宗に@(けい)礙するものなり。」(5)
- 「五祖大滿禪師、@(き)州黄梅人也。無父而生、童兒得道、乃栽松道者也。初在@(き)州西山栽松、遇四祖出遊。告道者、吾欲傳法與汝、汝已年邁、若待汝再來、吾尚遲汝。
(五祖大滿禪師は、@(き)州黄梅の人なり、父無くして生る、童兒にして道を得たり、乃ち栽松道者なり。初め@(き)州の西山に在りて松を栽ゑしに、四祖の出遊に遇ふ。道者に告ぐ、吾れ汝に傳法せんと欲へば、汝已に年邁ぎたり。若し汝が再來を待たば、吾れ尚汝を遲つべし。)
師諾。遂往周氏家女托生。因抛濁港中。神物護持、七日不損、因收養矣。至七歳爲童兒、於黄梅路上逢四祖大醫禪師。
(師、諾す。遂に周氏家の女に往いて托生す。因みに濁港の中に抛つ。神物護持して七日損せず。因みに收りて養へり。七歳に至るまで童兒たり、黄梅路上に四祖大醫禪師に逢ふ。)
祖見師、雖是小兒、骨相奇秀、異乎常童。
(祖、師を見るに、是れ小兒なりと雖も、骨相奇秀、常の童に異なり。)
祖見問曰、汝何姓。(汝何なる姓ぞ。)
師答曰、姓即有、不是常姓。
(姓は即ち有り、是れ常の姓にあらず。)
祖曰、是何姓。(是れ何なる姓ぞ。)
師答曰、是佛性。(是れ佛性。)
祖曰、汝無佛性。(汝に佛性無し。)
師答曰、佛性空故、所以言無。(佛性空なる故に、所以に無と言ふ。)
祖識其法器、俾爲侍者、後付正法眼藏。居黄梅東山、大振玄風。
(祖、其の法器なるを識つて、侍者たらしめて、後に正法眼藏を付す。黄梅東山に居して、大きに玄風を振ふ。)
しかあればすなはち、祖師の道取を參究するに、四祖いはく、汝何性は、その宗旨あり。むかしは何國人の人あり、何姓の姓あり。なんぢは何姓と爲説するなり。たとへば吾亦如是、汝亦如是と道取するがごとし。
五祖いはく、姓即有、不是常姓。
いはゆるは、有即姓は常姓にあらず、常姓は即有に不是なり。
四祖いはく是何姓は、何は是なり、是を何しきたれり。これ姓なり。何ならしむるは是のゆゑなり。是ならしむるは何の能なり。姓は是也、何也なり。これを蒿湯にも點ず、茶湯にも點ず、家常の茶飯ともするなり。
五祖いはく、是佛性。
いはくの宗旨は、是は佛性なりとなり。何のゆゑに佛なるなり。是は何姓のみに究取しきたらんや、是すでに不是のとき佛性なり。しかあればすなはち是は何なり、佛なりといへども、脱落しきたり、透脱しきたるに、かならず姓なり。その姓すなはち周なり。しかあれども、父にうけず祖にうけず、母氏に相似ならず、傍觀に齊肩ならんや。
四祖いはく、汝無佛性。
いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無佛性なりと開演するなり。しるべし、學すべし、いまはいかなる時節にして無佛性なるぞ。佛頭にして無佛性なるか、佛向上にして無佛性なるか。七通を逼塞することなかれ、八達を摸&(さく)することなかれ。無佛性は一時の三昧なりと修習することもあり。佛性成佛のとき無佛性なるか、佛性發心のとき無佛性なるかと問取すべし、道取すべし。露柱をしても問取せしむべし、露柱にも問取すべし、佛性をしても問取せしむべし。
しかあればすなはち、無佛性の道、はるかに四祖の祖室よりきこゆるものなり。黄梅に見聞し、趙州に流通し、大%(い)に擧揚す。無佛性の道、かならず精進すべし、#$(しそ)することなかれ。無佛性たどりぬべしといへども、何なる標準あり、汝なる時節あり、是なる投機あり、周なる同生あり、直趣なり。
五祖いはく、佛性空故、所以言無。
あきらかに道取す、空は無にあらず。佛性空を道取するに、半斤といはず、八兩といはず、無と言取するなり。空なるゆゑに空といはず、無なるゆゑに無といはず、佛性空なるゆゑに無といふ。しかあれば、無の片片は空を道取する標榜なり、空は無を道取する力量なり。いはゆるの空は、色即是空の空にあらず。色即是空といふは、色を強爲して空とするにあらず、空をわかちて色を作家せるにあらず。空是空の空なるべし。空是空の空といふは、空裏一片石なり。しかあればすなはち、佛性無と佛性空と佛性有と、四祖五祖、問取道取。」(6)
- 「震旦第六祖曹谿山大鑑禪師、そのかみ黄梅山に參ぜしはじめ、五祖とふ、なんぢいづれのところよりかきたれる。
六祖いはく、嶺南人なり。
五祖いはく、きたりてなにごとをかもとむる。
六祖いはく、作佛をもとむ。
五祖いはく、嶺南人無佛性、いかにしてか作佛せん。
この嶺南人無佛性といふ、嶺南人は佛性なしといふにあらず、嶺南人は佛性ありといふにあらず、嶺南人、無佛性となり。いかにしてか作佛せんといふは、いかなる作佛をか期するといふなり。
おほよそ佛性の道理、あきらむる先達すくなし。諸阿笈摩教および經論師のしるべきにあらず。佛祖の兒孫のみ單傳するなり。佛性の道理は、佛性は成佛よりさきに具足せるにあらず、成佛よりのちに具足するなり。佛性かならず成佛と同參するなり。この道理、よくよく參究功夫すべし。三二十年も功夫參學すべし。十聖三賢のあきらむるところにあらず。衆生有佛性、衆生無佛性と道取する、この道理なり。成佛以來に具足する法なりと參學する正的なり。かくのごとく學せざるは佛法にあらざるべし。かくのごとく學せずば、佛法あへて今日にいたるべからず。もしこの道理あきらめざるには、成佛をあきらめず、見聞せざるなり。
このゆゑに、五祖は向他道するに、嶺南人無佛性と爲道するなり。見佛聞法の最初に、難得難聞なるは、衆生無佛性なり。或從知識、或從經卷するに、きくことのよろこぶべきは衆生無佛性なり。一切衆生無佛性を、見聞覺知に參飽せざるものは、佛性いまだ見聞覺知せざるなり。六祖もはら作佛をもとむるに、五祖よく六祖を作佛せしむるに、他の道取なし、善巧なし。ただ嶺南人無佛性といふ。しるべし、無佛性の道取聞取、これ作佛の直道なりといふことを。しかあれば、無佛性の正當恁麼時すなはち作佛なり。無佛性いまだ見聞せず、道取せざるは、いまだ作佛せざるなり。
六祖いはく、人有南北なりとも、佛性無南北なり。この道取を擧して、句裏を功夫すべし。南北の言、まさに赤心に照顧すべし。六祖道得の句に宗旨あり。いはゆる人は作佛すとも、佛性は作佛すべからずといふ一隅の搆得あり。六祖これをしるやいなや。
四祖五祖の道取する無佛性の道得、はるかに@(けい)礙の力量ある一隅をうけて、迦葉佛および釋迦牟尼佛等の諸佛は、作佛し轉法するに、悉有佛性と道取する力量あるなり。悉有の有、なんぞ無無の無に嗣法せざらん。しかあれば、無佛性の語、はるかに四祖五祖の室よりきこゆるなり。このとき、六祖その人ならば、この無佛性の語を功夫すべきなり。有無の無はしばらくおく、いかならんかこれ佛性と問取すべし、なにものかこれ佛性とたづぬべし。いまの人も、佛性とききぬれば、いかなるかこれ佛性と問取せず、佛性の有無等の義をいふがごとし、これ倉卒なり。しかあれば、諸無の無は、無佛性の無に學すべし。六祖の道取する人有南北、佛性無南北の道、ひさしく再三撈&(ろく)すべし、まさに撈波子に力量あるべきなり。六祖の道取する人有南北佛性無南北の道、しづかに拈放すべし。おろかなるやからおもはくは、人間には質礙すれば南北あれども、佛性は虚融にして南北の論におよばずと、六祖は道取せりけるかと推度するは、無分の愚蒙なるべし。この邪解を抛却して、直須勤學すべし。
六祖示門人行昌云、無常者即佛性也、有常者即善惡一切諸法分別心也。
(六祖、門人行昌に示して云く、無常は即ち佛性なり、有常は即ち善惡一切諸法分別心なり。)
いはゆる六祖道の無常は、外道二乘等の測度にあらず。二乘外道の鼻祖鼻末、それ無常なりといふとも、かれら窮盡すべからざるなり。しかあれば、無常のみづから無常を説著、行著、證著せんは、みな無常なるべし。今以現自身得度者、即現自身而爲説法(今、自身を現ずるを以て得度すべき者には、即ち自身を現じて而も爲に法を説く)なり、これ佛性なり。さらに或現長法身、或現短法身なるべし。常聖これ無常なり、常凡これ無常なり。常凡聖ならんは、佛性なるべからず。小量の愚見なるべし、測度の管見なるべし。佛者小量身也、性者小量作也。このゆゑに六祖道取す、無常者佛性也(無常は佛性なり)。 常者未轉なり。未轉といふは、たとひ能斷と變ずとも、たとひ所斷と化すれども、かならずしも去來の蹤跡にかかはれず、ゆゑに常なり。
しかあれば、草木叢林の無常なる、すなはち佛性なり。人物身心の無常なる、これ佛性なり。國土山河の無常なる、これ佛性なるによりてなり。阿耨多羅三藐三菩提これ佛性なるがゆゑに無常なり、大般涅槃これ無常なるがゆゑに佛性なり。もろもろの二乘の小見および經論師の三藏等は、この六祖の道を驚疑怖畏すべし。もし驚疑せんことは、魔外の類なり。」(7)
(注)
- (1)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、14頁。
- (2)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、14頁。@=行人偏に扁(へん)。&=へんが寧で、つくりが頁(ねい)。
- (3)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、16頁。
- (4)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、17頁。@=手偏に主(しゅ)。&=漸の下に耳(にい)
- (5)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、18頁。@=あみ頭に圭(けい)
- (6)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、19頁。@=艸冠の單に斤(き)。&=手偏に索(さく)。%=さんずいに爲(い)。#=走遶に咨(し)。$=走遶に且(そ)。
- (7)「仏性」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、22頁。@=得の偏無し(けい)。&=手偏に鹿(ろく)
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