もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

(この文献の中から、このテーマについて、まだ、全収録には至っていませんが、別の論考で触れているため、一応、一部を記載したものをアップロードしておきます。)
悟道の強調ー七十五巻「正法眼蔵」ー越前下向前
- (a)悟道の強調
(真見道)と標記したものは、いわゆる、現代の臨済宗でいう見性体験(六祖壇経や三教一致説でいう見性とは異なる)、阿含経でいう「解脱」、悟りの体験、唯識説で無分別智をはじめて得る体験を「真見道」とよび、道元が「見道」という体験と思われるもの。
道元も悟道、無生法忍、解脱を肯定し、「見道」ともいうので、まさに、その自己(霊魂)のないこと(無我)を證得する体験のただ中を、「真見道」と呼ぶことにする。
道元の「悟道」は、信決定、坐禅、気付き、などと種々の解釈がされているが、そのいずれでもなく、無我を證得する体験、無分別のただ中をさすと思われる言葉に、(真見道)と標記する。
(a)悟道の強調
「正法眼蔵」
- (真見道)
「諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。
萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。
佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。
しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。」(1)
- 「佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。
人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の邊際を離却せり。法すでにおのれに正傳するとき、すみやかに本分人なり。
人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を亂想して萬法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に歸すれば、萬法のわれにあらぬ道理あきらけし。」(2)
- 「人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も彌天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを@(けい)礙せざること、滴露の天月を@(けい)礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を&(けん)點し、天月の廣狹を辨取すべし。
身心に法いまだ參飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、萬法またしかあり。塵中格外、おほく樣子を帶せりといへども、參學眼力のおよぶばかりを見取會取するなり。萬法の家風をきかんには、方圓とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。」(3)
- 「麻浴山寶徹禪師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住無處不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。
師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。
僧いはく、いかならんかこれ無處不周底の道理。
ときに、師、あふぎをつかふのみなり。
僧、禮拜す。
佛法の證驗、正傳の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、佛家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を參熟せり。」(4)
- 「觀自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色受想行識なり、五枚の般若なり。照見これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空即空なり。百草なり。萬象なり。般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意、色聲香味觸法、および眼耳鼻舌身意識等なり。また四枚の般若あり、苦集滅道なり。また六枚の般若あり、布施、淨戒、安忍、精進、靜慮、般若なり。また一枚の般若波羅蜜、而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり。また般若波羅蜜三枚あり、過去現在未來なり。また般若六枚あり、地水火風空識なり。また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行住坐臥なり。」(5)
- 「釋迦牟尼佛言、舍利子、是諸有情、於此般若波羅蜜多、應如佛住供養禮敬。思惟般若波羅蜜多、應如供養禮敬佛薄伽梵。所以者何。般若波羅蜜多、不異佛薄伽梵、佛薄伽梵、不異般若波羅蜜多。般若波羅蜜多、即是佛薄伽梵。佛薄伽梵、即是般若波羅蜜多。何以故。舍利子、一切如來應正等覺、皆由般若波羅蜜多得出現故。舍利子、一切菩薩摩訶薩、獨覺、阿羅漢、不還、一來、預流等、皆由般若波羅蜜多得出現故。舍利子、一切世間十善業道、四靜慮、四無色定、五神通、皆由般若波羅蜜多得出現故。
(舍利子、是の諸の有情、此の般若波羅蜜多に於て、佛の住したまふが如く供養し禮敬すべし。般若波羅蜜多を思惟すること、應に佛薄伽梵を供養し禮敬するが如くすべし。所以は何。般若波羅蜜多は、佛薄伽梵に異ならず、佛薄伽梵は般若波羅蜜多に異ならず。般若波羅蜜多は即ち是れ佛薄伽梵なり。佛薄伽梵は即ち是れ般若波羅蜜多なり。何を以ての故に。舍利子、一切の如來應正等覺は、皆般若波羅蜜多より出現することを得るが故に。舍利子、一切の菩薩摩訶薩、獨覺、阿羅漢、不還、一來、預流等は、皆般若波羅蜜多によりて出現することを得るが故に。舍利子、一切世間の十善業道、四靜慮、四無色定、五神通は、皆般若波羅蜜多によりて出現することを得るが故に。)
しかあればすなはち、佛薄伽梵は般若波羅蜜多なり、般若波羅蜜多は是諸法なり。この諸法は空相なり、不生不滅なり、不垢不淨、不増不減なり。この般若波羅蜜多の現成せるは佛薄伽梵の現成せるなり。問取すべし、參取すべし。供養禮敬する、これ佛薄伽梵に奉覲承事するなり。奉覲承事の佛薄伽梵なり。」(6)
- (真見道)
「いはゆる佛祖の保任する即心是佛は、外道二乘のゆめにもみるところにあらず。唯佛祖與佛祖のみ即心是佛しきたり、究盡しきたる聞著あり、行取あり、證著あり。
佛百草を拈却しきたり、打失しきたる。しかあれども丈六の金身に説似せず。
即公案あり、見成を相待せず、敗壞を廻避せず。
是三界あり、退出にあらず、唯心にあらず。
心牆壁あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。
あるいは即心是佛を參究し、心即佛是を參究し、佛即是心を參究し、即心佛是を參究し、是佛心即を參究す。かくのごとくの參究、まさしく即心是佛、これを擧して即心是佛に正傳するなり。かくのごとく正傳して今日にいたれり。いはゆる正傳しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり。
このゆゑに古人いはく、若人識得心、大地無寸土
(若し人、心を識得せば、大地に寸土無し)。
しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落し、@(そう)地裂破す。あるいは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。
古徳云く、作麼生是妙淨明心。山河大地、日月星辰(作麼生ならんか是れ妙淨明心。山河大地、日月星辰)。
あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。しかあれども、この道取するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。山河大地心は山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。日月星辰心は日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。生死去來心は生死去來のみなり。さらに迷なし、悟なし。牆壁瓦礫心は牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。四大五蘊心は四大五蘊のみなり。さらに馬なし、猿なし。椅子拂子心は椅子拂子のみなり。さらに竹なし、木なし。かくのごとくなるがゆゑに、即心是佛、不染汚即心是佛なり。諸佛、不染汚諸佛なり。
しかあればすなはち、即心是佛とは、發心、修行、菩提、涅槃の諸佛なり。いまだ發心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是佛にあらず。たとひ一刹那に發心修證するも即心是佛なり、たとひ一極微中に發心修證するも即心是佛なり、たとひ無量劫に發心修證するも即心是佛なり、たとひ一念中に發心修證するも即心是佛なり、たとひ半拳裏に發心修證するも即心是佛なり。しかあるを、長劫に修行作佛するは即心是佛にあらずといふは、即心是佛をいまだみざるなり、いまだしらざるなり、いまだ學せざるなり。即心是佛を開演する正師を見ざるなり。
いはゆる諸佛とは釋迦牟尼佛なり。釋迦牟尼佛これ即心是佛なり。過去現在未來の諸佛、ともにほとけとなるときは、かならず釋迦牟尼佛となるなり。これ即心是佛なり。 」(7)
- 「この行佛は、頭頭に威儀現成するゆゑに、身前に威儀現成す、道前に化機漏泄すること、亙時なり、亙方なり、亙佛なり亙行なり。行佛にあらざれば、佛縛法縛いまだ解脱せず、佛魔法魔に黨類せらるるなり。
佛縛といふは、菩提を菩提と知見解會する、即知見、即解會に即縛せられぬるなり。一念を經歴するに、なほいまだ解脱の期を期せず、いたづらに錯解す。菩提をすなはち菩提なりと見解せん、これ菩提相應の知見なるべし。たれかこれを邪見といはんと想憶す、これすなはち無繩自縛なり。縛縛綿綿として樹倒藤枯にあらず。いたづらに佛邊の@(か)窟に活計せるのみなり。法身のやまふをしらず、報身の窮をしらず。
教家經師論師等の佛道を遠聞せる、なほしいはく、即於法性、起法性見、即是無明(法性に即して法性の見を起す、即ち是れ無明なり)。この教家のいはくは、法性に法性の見おこるに、法性の縛をいはず、さらに無明の縛をかさぬ、法性の縛あることをしらず。あはれむべしといへども、無明縛のかさなれるをしれるは、發菩提心の種子となりぬべし。いま行佛、かつてかくのごとくの縛に縛せられざるなり。」(8)
- (真見道)
「正當恁麼時、あるいは虚空にかかり、衣裏にかかる、あるいは頷下にをさめ、髻中にをさむる、みな盡十方世界一顆明珠なり。ころものうらにかかるを樣子とせり、おもてにかけんと道取することなかれ。髻中頷下にかかるを樣子とせり、髻表頷表に弄せんと擬することなかれ。醉酒の時節にたまをあたふる親友あり、親友にはかならずたまをあたふべし。たまをかけらるる時節、かならず醉酒するなり。」(9)
- 「臨濟院慧照大師云、大唐國裏、覓一人不悟者難得
(大唐國裏、一人の不悟者を覓むるに難得なり)。
いま慧照大師の道取するところ、正脈しきたれる皮肉骨髓なり、不是あるべからず。
大唐國裏といふは自己眼睛裏なり。盡界にかかはれず、塵刹にとどまらず。遮裏に不悟者の一人をもとむるに難得なり。自己の昨自己も不悟者にあらず、他己の今自己も不悟者にあらず。山人水人の古今、もとめて不悟を要するにいまだえざるべし。學人かくのごとく臨濟の道を參學せん、虚度光陰なるべからず。
しかもかくのごとくなりといへども、さらに祖宗の懷業を參學すべし。いはく、しばらく臨濟に問すべし、不悟者難得のみをしりて、悟者難得をしらずは、未足爲是なり。不悟者難得をも參究せるといひがたし。たとひ一人の不悟者をもとむるには難得なりとも、半人の不悟者ありて面目雍容、巍巍堂堂なる、相見しきたるやいまだしや。たとひ大唐國裏に一人の不悟者をもとむるに難得なるを究竟とすることなかれ。一人半人のなかに兩三箇の大唐國をもとめこころみるべし。難得なりや、難得にあらずや。この眼目をそなへんとき、參飽の佛祖なりとゆるすべし。」(10)
- (真見道)
「阿耨菩提に傳道受業の佛祖おほし、粉骨の先蹤即不無なり。斷臂の祖宗まなぶべし、掩泥の毫髪もたがふることなかれ。各各の脱殼うるに、從來の知見解會に拘牽せられず、曠劫未明の事、たちまちに現前す。恁麼時の而今は、吾も不知なり、誰も不識なり、汝も不期なり、佛眼も@(しょ)不見なり。人慮あに測度せんや。」
(11)
(注)
- (1)「現成公案」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、3頁。
- (2)同上、3頁。
- (3)同上、4頁。@=あみがしらに圭(けい) &=手へんの檢(けん)
- (4)同上、6頁。
- (5)「摩訶般若波羅蜜」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、8頁。
- (6)同上、11頁。
- (7)「即心是仏」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、57頁。
@=しんにょうに匝(そう)
- (8)「行仏威儀」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、59頁。@=穴冠に果(か)。
- (9)「一顆明珠」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、80頁。
- (10)「大悟」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、93頁。
- (11)「渓声山色」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、274頁。@=虍に且に見(しょ)
(下記は、他の記事にふれたので、掲載する。整理中)
- 「礼拝得髄」巻
「しかあれば、いまも住持および半座の職むなしからんときは、比丘尼の得法せらんを請すべし。比丘の高年宿老なりとも、得法せざらん、なんの要かあらん。為衆の主人、かならず明眼によるべし。」(a)
- (真見道)
「玄沙因僧問、三乘十二分教即不要、如何是祖師西來意(三乘十二分教は即ち不要なり、如何ならんか是れ祖師西來意)。
師云、三乘十二分教總不要(三乘十二分教總に不要なり)。
いはゆる僧問の三乘十二分教即不要、如何是祖師西來意といふ、よのつねにおもふがごとく、三乘十二分教は條條の岐路なり。そのほか祖師西來意あるべしと問するなり。三乘十二分教これ祖師西來意なりと認ずるにあらず。いはんや八萬四千法門蘊すなはち祖師西來意としらんや。しばらく參究すべし、三乘十二分教、なにとしてか即不要なる。もし要せんときは、いかなる規矩かある。三乘十二分教を不要なるところに、祖師西來意の參學を現成するか。いたづらにこの問の出現するにあらざらん。
玄沙いはく、三乘十二分教總不要。
この道取は、法輪なり。この法輪の轉ずるところ、佛教の佛教に處在することを參究すべきなり。その宗旨は、三乘十二分教は佛祖の法輪なり、有佛祖の時處にも轉ず、無佛祖の時處にも轉ず。祖前祖後、おなじく轉ずるなり。さらに佛祖を轉ずる功徳あり。祖師西來意の正當恁麼時は、この法輪を總不要なり。總不要といふは、もちゐざるにあらず、やぶるるにあらず。この法輪、このとき、總不要輪の轉ずるのみなり。三乘十二分教なしといはず、總不要の時節を@(ちょ)見すべきなり。總不要なるがゆゑに三乘十二分教なり。三乘十二分教なるがゆゑに三乘十二分教にあらず。このゆゑに、三乘十二分教、總不要と道取するなり。」(b)
- 「その三乘十二分教、そこばくあるなかの一隅をあぐるには、すなはちこれあり。
三乘
一者声聞乘
四諦によりて得道す。四諦といふは、苦諦、集諦、滅諦、道諦なり。これをきき、これを修行するに、生老病死を度脱し、般涅槃を究竟す。この四諦を修行するに、苦集は俗なり、滅道は第一義なりといふは、論師の見解なり。もし佛法によりて修行するがごときは、四諦ともに唯仏与仏なり。四諦ともに法住法位なり。四諦ともに実相なり、四諦ともに仏性なり。このゆゑに、さらに無性無作等の論におよばず、四諦ともに総不要なるゆゑに。
二者縁覚乘
十二因縁によりて般涅槃す。十二因縁といふは、一者無明、二者行、三者識、四者名色、五者六入、六者触、七者受、八者愛、九者取、十者有、十一者生、十二者老死。
この十二因縁を修行するに、過去現在未來に因縁せしめて、能觀・所觀を論ずといへども、一一の因縁を擧して參究するに、すなはち總不要輪轉なり、總不要因縁なり。しるべし、無明これ一心なれば、行・識等も一心なり。無明これ滅なれば、行・識等も滅なり。無明これ涅槃なれば、行・識等も涅槃なり。生も滅なるがゆゑに、恁麼いふなり。無明も道著の一句なり、識・名色等もまたかくのごとし。しるべし、無明・行等は、吾有箇斧子、與汝住山(吾れに箇の斧子有り、汝と與に住山せん)なり。無明・行識等は、發時蒙和尚許斧子、便請取(發時和尚に斧子を許すことを蒙れり、便ち請取せん)なり。
三者菩薩乘
六波羅蜜の教行證によりて、阿耨多羅三藐三菩提を成就す。その成就といふは、造作にあらず、無作にあらず、始起にあらず、新成にあらず、久成にあらず、本行にあらず、無爲にあらず。ただ成就阿耨多羅三藐三菩提なり。
六波羅蜜といふは、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、@(せん)提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禪那波羅蜜、般若波羅蜜なり。これはともに無上菩提なり。無生無作の論にあらず。かならずしも檀をはじめとし般若ををはりとせず。
經云、利根菩薩、般若爲初、檀爲終。鈍根菩薩、檀爲初、般若爲終(利根の菩薩は、般若を初めとし、檀を終りとす。鈍根の菩薩は、檀を初めとし、般若を終りとす)。
しかあれども、@(せん)提もはじめなるべし、禪那もはじめなるべし。三十六波羅蜜の現成あるべし。&(ら)篭より&(ら)篭をうるなり。
波羅蜜といふは、彼岸到なり。彼岸は古來の相貌蹤跡にあらざれども、到は現成するなり、到は公案なり。修行の彼岸へいたるべしともおふことなかれ。彼岸に修行あるがゆゑに、修行すれば彼岸到なり。この修行、かならず%(へん)界現成の力量を具足せるがゆゑに。」(c)
- (真見道)
「十二部經の名、きくことまれなり。佛法のよのなかにひろまれるときこれをきく、佛法すでに滅するときはきかず。佛法いまだひろまらざるとき、またきかず。ひさしく善根をうゑて佛をみたてまつるべきもの、これをきく。すでにきくものは、ひさしからずして阿耨多羅三藐三菩提をうべきなり。
この十二、おのおの經と稱ず。十二分教ともいひ、十二部經ともいふなり。十二分教おのおの十二分教を具足せるゆゑに、一百四十四分教なり。十二分教おのおの十二分教を兼含せるゆゑに、ただ一分教なり。しかあれども、億前億後の數量にあらず。これみな佛祖の眼睛なり、佛祖の骨髓なり、佛祖の家業なり、佛祖の光明なり、佛祖の莊嚴なり、佛祖の國土なり。十二分教をみるは佛祖をみるなり、佛祖を道取するは十二分教を道取するなり。
しかあればすなはち、青原の垂一足、すなはち三乘十二分教なり。南嶽の説似一物即不中、すなはち三乘十二分教なり。いま玄沙の道取する總不要の意趣、それかくのごとし。この宗旨擧拈するときは、ただ佛祖のみなり。さらに半人なし、一物なし、一事未起なり。正當恁麼時、如何。いふべし總不要。」(d)
- 「入大乘爲本といふは、證大乘といひ、行大乘といひ、聞大乘といひ、説大乘といふ。しかあれば、衆生は天然として得道せりといふにあらず、その一端なり。入は本なり、本は頭正尾正なり。ほとけ法をとく、法ほとけをとく。法ほとけにとかる、ほとけ法にとかる。火焔ほとけをとき、法をとく。ほとけ火焔をとき、法火焔をとく。」(e)
(注)
- (a)「礼拝得髄」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1991年、306頁。
- (b)「仏教」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、384頁。@=偏が虞の中が呉ではなくて、且。つくりが見。(ちょ)
- (c)「仏教」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、385頁。#=手偏に主(しゅ)。 @=(せん)尸の中に、羊3つ。&=竹冠に羅(ら) 。%=ぎょうにんべんの偏
- (d)同上、389頁。
- (e)同上、391頁。
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