もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
是非善悪、自他を管しないー七十五巻「正法眼蔵」ー越前下向後

(この文献の中から、このテーマについて、まだ、全収録には至っていませんが、別の論考で触れているため、一応、一部を記載したものをアップロードしておきます。)
是非、善悪、生死、自他、有無などの二元対立の分別を超える。
是非善悪を管しない
「正法眼蔵」
- 「釋迦牟尼佛、告大衆言、唯我知是相、十方佛亦然(唯だ我れのみ是の相を知る、十方佛も亦た然り)。
しるべし、唯我知是相の相は、打圓相なり。圓相は遮竿得恁麼長、那竿得恁麼短なり。十方佛道は、唯我知是相、釋迦牟尼佛亦然の説著なり。唯我證是相、自方佛亦然なり。我相、知相、是相、一切相、十方相、裟婆國土相、釋迦牟尼佛相なり。
この宗旨は、これ佛經なり。諸佛ならびに國土は兩頭にあらず。有情にあらず無情にあらず、迷悟にあらず、善惡無記等にあらず。淨にあらず穢にあらず、成にあらず住にあらず、壞にあらず空にあらず、常にあらず無常にあらず、有にあらず無にあらず、自にあらず。離四句なり、絶百非なり。ただこれ十方なるのみなり、佛土なるのみなり。しかあれば、十方は有頭無尾漢なるのみなり。」(1)
- 「過去學人問、過去百丈山の大修行底人、還落因果也無。
この問、まことに卒爾に容易會すべからず。そのゆゑは、後漢永平のなかに佛法東漸よりのち、梁代普通のなか、祖師西來ののち、はじめて老野狐の道より過去の學人問をきく。これよりさきはいまだあらざるところなり。しかあれば、まれにきくといふべし。
大修行を摸得するに、これ大因果なり。この因果かならず圓因滿果なるがゆゑに、いまだかつて落不落の論あらず、昧不昧の道あらず。不落因果もしあやまりならば、不昧因果もあやまりなるべし。將錯就錯すといへども、墮野狐身あり、脱野狐身あり。不落因果たとひ迦葉佛時にはあやまりなりとも、釋迦佛時はあやまりにあらざる道理もあり。不昧因果たとひ現在釋迦佛のときは脱野狐身すとも、迦葉佛時しかあらざる道理も現成すべきなり。
」(2)
- 「しかあるを、いまだあきらめざれば人のためにとくべからずとおもふことなかれ。あきらめんことをまたんは、無量劫にもかなふべからず。たとひ人佛をあきらむとも、さらに天佛あきらむべし。たとひ山のこころをあきらむとも、さらに水のこころをあきらむべし。たとひ因縁生法をあきらむとも、さらに非因縁生法をあきらむべし。たとひ佛祖邊をあきらむとも、さらに佛祖向上をあきらむべし。これらを一世にあきらめをはりて、のちに他のためにせんと擬せんは、不功夫なり、不丈夫なり、不參學なり。」(3)
- 「おほよそ佛鉢盂は、これ造作にあらず、生滅にあらず。去來せず、得失なし。新舊にわたらず、古今にかかはれず。佛祖の衣盂は、たとひ雲水を採集して現成せしむとも、雲水の@(ら)篭にあらず。たとひ草木を採集して現成せしむとも、草木の@(ら)篭にあらず。その宗旨は、水は衆法を合成して水なり、雲は衆法を合成して雲なり。雲を合成して雲なり、水を合成して水なり。鉢盂は但以衆法、合成鉢盂なり。但以鉢盂、合成衆法なり。但以渾心、合成鉢盂なり。但以虚空、合成鉢盂なり。但以鉢盂、合成鉢盂なり。鉢盂は鉢盂に&(けい)礙せられ、鉢盂に染汚せらる。」(4)
- 「觀受是苦といふは、苦これ受なり。自受にあらず他受にあらず、有受にあらず無受にあらず。生身受なり、生身苦なり。甜熟Iを苦葫蘆に換却するをいふ。これ皮肉骨髓ににがきなり。有心無心等ににがきなり。これ一上の神通修證なり。徹蔕より跳出し、連根より跳出する神通なり。このゆゑに、將謂衆生苦、更有苦衆生なり。衆生は自にあらず、衆生は他にあらず。更有苦衆生、つひに瞞他不得なり。甜I徹蔕甜、苦匏連根苦なりといへども、苦これたやすく摸索著すべきにあらず。自己に問著すべし、作麼生是苦(作麼生ならんか是れ苦)。」(5)
- 「四正斷 あるいは四正勤と稱ず
一者、未生惡令不生(未生の惡をば不生ならしむ)
二者、已生惡令滅(已生の惡をば滅ならしむ)
三者、未生善令生(未生の善をば生ぜしむ)
四者、已生善令増長(已生の善をば増長せしむ)
未生惡令不生といふは、惡の稱、かならずしもさだまれる形段なし。ただ地にしたがひ、界によりて立稱しきたれり。しかあれども、未生をして不生ならしむるを佛法と稱じ、正傳しきたれり。外道の解には、これ未萌我を根本とせりといふ。佛法にはかくのごとくなるべからず。しばらく問取すべし、惡未生のとき、いづれのところにかある。もし未來にありといはば、ながくこれ斷滅見の外道なり。もし未來きたりて現在となるといはば、佛法の談にあらず、三世混亂しぬべし。三世混亂せば諸法混亂すべし、諸法混亂せば實相混亂すべし、實相混亂せば唯佛與佛混亂すべし。かるがゆゑに、未來はのちに現在となるといはざるなり。さらに問取すべし、未生惡とは、なにを稱ずべきぞ、たれかこれを知取見取せる。もし知取見取することあらば、未生時あり、非未生時あらん。もししかあらば、未生法と稱ずべからず、已滅の法と稱じつべし。外道および小乘聲聞等に學せずして、未生惡令不生の參學すべきなり。彌天の積惡、これを未生惡と稱ず、不生惡なり。不生といふは、昨日説定法、今日説不定法なり。」(6)
- 「佛法の大道は、一塵のなかに大千の經卷あり、一塵のなかに無量の諸佛まします。一草一木ともに身心なり。萬法不生なれば一心も不生なり、諸法實相なれば一塵實相なり。しかあれば、一心は諸法なり、諸法は一心なり、全身なり。造塔等もし有爲ならんときは、佛果菩提、眞如佛性もまた有爲なるべし。眞如佛性これ有爲にあらざるゆゑに、造像起塔すなはち有爲にあらず、無爲の發菩提心なり、無爲無漏の功徳なり。ただまさに、造像起塔等は發菩提心なりと決定信解すべきなり。億劫の行願、これより生長すべし、億億萬劫くつべからざる發心なり。これを見佛聞性といふなり。」(7)
- 「
しるべし、木石をあつめ泥土をかさね、金銀七寶をあつめて造佛起塔する、すなはち一心をあつめて造塔造像するなり。空空をあつめて作佛するなり、心心を拈じて造佛するなり。塔塔をかさねて造塔するなり、佛佛を現成せしめて造佛するなり。
かるがゆゑに、經にいはく、作是思惟時、十方佛皆現。
しるべし、一思惟の作佛なるときは、十方思惟佛皆現なり。一法の作佛なるときは、諸法作佛なり。」(8)
- 「」(9)
(注)
- (1)「大修行」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、93頁。
- (2)「大修行」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、187頁。
- (3)「自証三昧」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、200頁。
- (4)「鉢盂」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、215頁。&=网頭に圭(けい)。@=竹冠に羅(ら)。
- (5)「三十七菩提分法」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、132頁。
- (6)「三十七菩提分法」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、134頁。
- (7)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、163頁。
- (8)同上、164頁。
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