もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

(この文献の中から、このテーマについて、まだ、全収録には至っていませんが、別の論考で触れているため、一応、一部を記載したものをアップロードしておきます。)
信ずべし・信ではいけない
(a)信ずべし
「正法眼蔵」
- 「 釋迦牟尼佛、告大衆言、若善男子善女人、聞我説壽命長遠、深心信解、則爲見佛、常在耆闍崛山、共大菩薩、諸聲聞衆、圍遶説法。又見此裟婆世界、其地瑠璃、坦然平正(釋迦牟尼佛、大衆に告げて言く、若し善男子善女人、我が壽命の長遠なりと説くを聞きて、深心に信解せば、則ちため佛、常に耆闍崛山に在して、共に大菩薩、諸聲聞衆に、圍遶せられて説法したまふを見る。又此の裟婆世界は、其の地瑠璃にして、坦然平正なりと見る)。
この深心といふは裟婆世界なり。信解といふは無廻避處なり。誠諦の佛語、たれか信解せざらん。この經典にあひたてまつれるは、信解すべき機縁なり。深心信解是法華、深心解壽命長遠のために、願生此裟婆國土しきたれり。如來の神力、慈悲力、壽命長遠力、よく心を拈じて信解せしめ、身を拈じて信解せしめ、盡界を拈じて信解せしめ、佛祖を拈じて信解せしめ、諸法を拈じて信解せしめ、實相を拈じて信解せしめ、皮肉骨髓を拈じて信解せしめ、生死去來を拈じて信解せしむるなり。これらの信解、これ見佛なり。
しかあればしりぬ、心頭眼ありて見佛す、信解眼をえて見佛す。ただ見佛のみにあらず、常在耆闍崛山をみるといふは、耆闍崛山の常在は、如來壽命と一齊なるべし。しかあれば、見佛常在耆闍崛山は、前頭來も如來および耆闍崛山ともに常在なり、後頭來も如來および耆闍崛山ともに常在なり。菩薩聲聞もおなじく常在なるべし、説法もまた常在なるべし。裟婆世界、其地瑠璃、坦然平正をみる、裟婆世界をみること動著すべからず、高處高平、低處低平なり。この地はこれ瑠璃地なり、これを坦然平正なるとみる目をいやしくすることなかれ。瑠璃爲地の地はかくのごとし。この地を瑠璃にあらずとせば、耆闍崛山は耆闍崛山にあらず、釋迦牟尼佛は釋迦牟尼佛にあらざらん。其地瑠璃を信解する、すなはち深信解相なり、これ見佛なり。」(1)
- 「しかあれば、而今の造塔造佛等は、まさしくこれ發菩提心なり。直至成佛の發心なり、さらに中間に破癈すべからず。これを無爲の功徳とす、これを無作の功徳とす。これ眞如觀なり、これ法性觀なり。これ諸佛集三昧なり、これ得諸佛陀羅尼なり。これ阿耨多羅三藐三菩提心なり、これ阿羅漢果なり、これ佛現成なり。このほかさらに無爲無作等の法なきなり。
しかあるに、小乘愚人いはく、造像起塔は有爲の功業なり。さしおきていとなむべからず。息慮凝心これ無爲なり、無生無作これ眞實なり、法性實相の觀行これ無爲なり。かくのごとくいふを、西天東地の古今の習俗とせり。これによりて、重罪逆罪をつくるといへども造像起塔せず、塵勞稠林に染汚すといへども念佛讀經せず。これただ人天の種子を損壞するのみにあらず、如來の佛性を撥無するともがらなり。まことにかなしむべし、佛法僧の時節にあひながら、佛法僧の怨敵となりぬ。三寶の山にのぼりながら空手にしてかへり、三寶の海に入りながら空手にしてかへらんことは、たとひ千佛萬祖の出世にあふとも、得度の期なく、發心の方を失するなり。これ經卷にしたがはず、知識にしたがはざるによりてかくのごとし。おほく外道邪師にしたがふによりてかくのごとし。造塔等は發菩提心にあらずといふ見解、はやくなげすつべし。こころをあらひ、身をあらひ、みみをあらひ、めをあらうて見聞すべからざるなり。まさに佛經にしたがひ、知識にしたがひて、正法に歸し、佛法を修學すべし。」(2)
- 「 佛法の大道は、一塵のなかに大千の經卷あり、一塵のなかに無量の諸佛まします。一草一木ともに身心なり。萬法不生なれば一心も不生なり、諸法實相なれば一塵實相なり。しかあれば、一心は諸法なり、諸法は一心なり、全身なり。造塔等もし有爲ならんときは、佛果菩提、眞如佛性もまた有爲なるべし。眞如佛性これ有爲にあらざるゆゑに、造像起塔すなはち有爲にあらず、無爲の發菩提心なり、無爲無漏の功徳なり。ただまさに、造像起塔等は發菩提心なりと決定信解すべきなり。億劫の行願、これより生長すべし、億億萬劫くつべからざる發心なり。これを見佛聞性といふなり。」(3)
(注)
- (1)「見仏」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、103頁。
- (2)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、162頁。
- (3)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、163頁。
(b)信ではいけない
「正法眼蔵」
- 「しかあるを、この宗旨を參學する從來のおもはくは、諸相は如來相なり、一相の如來相にあらざる、まじはれることなし。この相を、かりにも非相とすべからず。もしこれを非相とするは捨父逃逝なり。この相すなはち如來相なるがゆゑに、諸相は諸相なるべしと道取するなりといひきたれり。まことにこれ大乘の極談なり、諸方の所證なり。しかのごとく決定一定して、信受參受すべし。さらに隨風東西の輕毛なることなかれ。諸相は如來相なり、非相にあらずと參究見佛し、決定證信して受持すべし。諷誦通利すべし。かくのごとくして、自己の耳目に見聞ひまなからしむべし。自己の身心骨髓に脱落ならしむべし。自己の山河盡界に透脱ならしむべし。これ參學佛祖行李なり。自己の云爲にあれば、自己の眼睛を發明せしむべからずとおもふことなかれ。自己の一轉語に轉ぜられて、自己の一轉佛祖を見脱落するなり。これ佛祖の家常なり。」(1)
- 「釋迦牟尼佛、告普賢菩薩言、若有受持、讀誦正憶念修習書寫、是法華經者、當知是人、則見釋迦牟尼佛、如從佛口、聞此經典(釋迦牟尼佛、普賢菩薩に告げて言はく、若し是の法華經を受持し讀誦し正憶念し、修習し書寫せん者有らん、當に知るべし、是の人、則ち釋迦牟尼佛を見たてまつり、佛の口より此の經典を聞くが如し)。
おほよそ一切諸佛は、見釋迦牟尼佛、成釋迦牟尼佛するを成道作佛といふなり。かくのごとくの佛儀、もとよりこの七種の行處の條條よりうるなり。七種行人は、當知是人なり、如是當人なり。これすなはち見釋迦牟尼佛處なるがゆゑに、したしくこれ如來佛口、聞此經典なり。釋迦牟尼佛は、見釋迦牟尼佛よりこのかた釋迦牟尼佛なり。これによりて舌相あまねく三千を覆す、いづれの山海か佛經にあらざらん。このゆゑに書寫の當人、ひとり見釋迦牟尼佛なり。佛口はよのつねに萬古に開す、いづれの時節か經典にあらざらん。このゆゑに、受持の行者のみ見釋迦牟尼佛なり。乃至眼耳鼻等の功徳もまたかくのごとくなるべきなり。および前後左右、取捨造次、かくのごとくなり。いまの此經典にむまれあふ、見釋迦牟尼佛をよろこばざらんや、生値釋迦牟尼佛なり。身心をはげまして受持讀誦、正憶念、修習書寫是法花經者則見釋迦牟尼佛なるべし、如從佛口、聞此經典、たれかこれをきほひきかざらん。いそがず、つとめざるは、貧窮無福慧の衆生なり、修習するは當知是人、則見釋迦牟尼佛なり。
」(2)
- 「しかあるに、近來大宋國に禪師と稱ずるともがらおほし。佛法の縱横をしらず、見聞いとすくなし。わづかに臨濟雲門の兩三語を諳誦して、佛法の全道とおもへり。佛法もし臨濟雲門の兩三語に道盡せられば、佛法今日にいたるべからず。臨濟雲門を佛法の爲尊と稱じがたし。いかにいはんやいまのともがら、臨濟雲門におよばず、不足言のやからなり。かれら、おのれが愚鈍にして佛經のこころあきらめがたきをもて、みだりに佛經を謗す。さしおきて修習せず。外道の流類といひぬべし。佛祖の兒孫にあらず、いはんや見佛の境界におよばんや。孔子老子の宗旨になほいたらざるともがらなり。佛祖の屋裡兒、かの禪師と稱ずるやからにあひあふことなかれ。ただ見佛眼の眼睛を參究體達すべし。」(3)
(注)
- (1)「見仏」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、99頁。
- (2)同上、102頁。
- (3)同上、107頁。
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