もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

(この文献の中から、このテーマについて、まだ、全収録には至っていませんが、別の論考で触れているため、一応、一部を記載したものをアップロードしておきます。)
縁起、因果=「正法眼蔵」(越前下向後)
縁起、因果
「正法眼蔵」
- 「過去學人問、過去百丈山の大修行底人、還落因果也無。
この問、まことに卒爾に容易會すべからず。そのゆゑは、後漢永平のなかに佛法東漸よりのち、梁代普通のなか、祖師西來ののち、はじめて老野狐の道より過去の學人問をきく。これよりさきはいまだあらざるところなり。しかあれば、まれにきくといふべし。
大修行を摸得するに、これ大因果なり。この因果かならず圓因滿果なるがゆゑに、いまだかつて落不落の論あらず、昧不昧の道あらず。不落因果もしあやまりならば、不昧因果もあやまりなるべし。將錯就錯すといへども、墮野狐身あり、脱野狐身あり。不落因果たとひ迦葉佛時にはあやまりなりとも、釋迦佛時はあやまりにあらざる道理もあり。不昧因果たとひ現在釋迦佛のときは脱野狐身すとも、迦葉佛時しかあらざる道理も現成すべきなり。
老人道の後五百生墮野狐身は、作麼生是墮野狐身(作麼生ならんか是れ野狐に墮したる身)。さきより野狐ありて先百丈をまねきおとさしむるにあらず。先百丈もとより野狐なるべからず。先百丈の精魂いでて野狐皮袋に撞入すといふは外道なり。野狐きたりて先百丈を呑却すべからず。もし先百丈さらに野狐となるといはば、まづ脱先百丈身あるべし、のちに墮野狐身すべきなり。以百丈山換野狐身なるべからず。因果のいかでかしかあらん。因果の本有にあらず、始起にあらず、因果のいたづらなるありて人をまつことなし。たとひ不落因果の祗對たとひあやまれりとも、かならず野狐身に墮すべからず。學人の問著を錯對する業因によりて野狐身に墮すること必然ならば、近來ある臨濟、徳山、およびかの門人等、いく千萬枚の野狐にか墮在せん。そのほか二三百年來の杜撰長老等、そこばくの野狐ならん。しかあれども、墮野狐せりときこえず。おほからば見聞にもあまるべきなり。あやまらずもあるらんといふつべしといへども、不落因果よりもはなはだしき胡亂答話のみおほし。佛法の邊におくべからざるもおほきなり。參學眼ありてしるべきなり、未具眼はわきまふべからず。
しかあればしりぬ、あしく祗對するによりて野狐身となり、よく祗對するによりて野狐身とならずといふべからず。この因縁のなかに、脱野狐身ののち、いかなりといはず。さだめて破袋につつめる眞珠あるべきなり。」(1)
-
「しかあるを、いまだあきらめざれば人のためにとくべからずとおもふことなかれ。あきらめんことをまたんは、無量劫にもかなふべからず。たとひ人佛をあきらむとも、さらに天佛あきらむべし。たとひ山のこころをあきらむとも、さらに水のこころをあきらむべし。たとひ因縁生法をあきらむとも、さらに非因縁生法をあきらむべし。たとひ佛祖邊をあきらむとも、さらに佛祖向上をあきらむべし。これらを一世にあきらめをはりて、のちに他のためにせんと擬せんは、不功夫なり、不丈夫なり、不參學なり。」(2)
(注)
- (1)「大修行」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、187頁。
- (2)「自証三昧」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、200頁。
このページのHP素材は、「てづくり素材館 Crescent Moon」の素材を使用しています。
「てづくり素材館 Crescent Moon」