もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
[一つを取る説]目次
仏教学・禅学の批判
有無・是非・善悪の二辺に執著しない=十二巻「正法眼蔵」
道元の言葉に、是非を管しない、ということがある。これも坐禅法、および、日常生活での実践の心得である。初期仏教の次のような教説に関係する実践である。現代に伝来されている「祗管打坐」でも行われている。
- 中道。世俗の基準による善悪の二辺、断常の二辺、有無の二辺を離れた中道の実行。
- 煩悩のうち、悪見、偏執見を捨棄する。我・我がものに執著する。二元対立の見解に執著することを離れる。自作でもない、多作でもない、とは断常の極端な見解。「自作」は、常見、「他作」は断見。
- 八正道の実践のうちの、「正見」。正見は、有無の二辺を離れて、縁起で見る。般若で見るのが、正見とされる。
- 四禅の教説。初禅は、尋伺がある。この段階には、苦の起こるプロセスを確認する思惟がある。それを会得した後、二禅以降は、その後は、そのような思惟も離れる。二元的な断定、思惟をはなれる。
- 仏道の是非善悪は、世俗の善悪の基準と異なる。
有無・是非・善悪の二辺に執著しない
十二巻本「正法眼蔵」
- 「佛言はく、復た次に舍利弗、菩薩摩訶薩、若し出家の日に、即ち阿耨多羅三藐三菩提を成じ、即ち是の日に轉法輪し、轉法輪の時、無量阿僧祇の衆生、遠塵離垢し、諸法の中に於て、法眼淨を得、無量阿僧祇の衆生、一切法不受を得るが故に、諸漏の心、解脱を得、無量阿僧祇の衆生、阿耨多羅三藐三菩提に於て、不退轉を得んと欲はば、當に般若波羅蜜を學すべし。
いはゆる學般若菩薩とは祖祖なり。しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提は、かならず出家即日に成熟するなり。しかあれども、三阿僧祇劫に修證し、無量阿僧祇に修證するに、有邊無邊に染汚するにあらず。學人しるべし。」(1)
- 「第四優婆@(きく)多尊者、有長者子、名曰提多伽。來禮尊者、志求出家
(第四優婆@(きく)多尊者、長者子有り、名を提多伽と曰ふ。來りて尊者を禮し、出家を志求せり)。
尊者曰、汝身出家耶、心出家
(汝、身の出家なりや、心の出家なりや)。
答曰、我來出家、非爲身心
(我れ來りて出家する、身心の爲にあらず)。
尊者曰、不爲身心、復誰出家
(身心の爲にあらずは、復た誰か出家する)。
答曰、夫出家者、無我我所故、即心不生滅、心不生滅故、即是常道。諸佛亦常心無形相、其躰亦然
(夫れ出家は、我と我所と無きが故に、即ち心、生滅せず。心、生滅せざる故に、即ち是れ常道なり。諸佛も亦た常に心、形相無く、其の躰も亦た然り)。
尊者曰、汝當大悟心自通達。宜依佛法僧紹髏ケ種
(汝當に大悟して心、自ら通達すべし。宜しく佛法僧に依りて聖種を紹驍キべし)。
即與出家受具
(即ち與に出家受具せしめたり)。
それ諸佛の法にあふたてまつりて出家するは、最第一の勝果報なり。その法すなはち我のためにあらず、我所のためにあらず。身心のためにあらず、身心の出家するにあらず。出家の我我所にあらざる道理かくのごとし。我我所にあらざれば諸佛の法なるべし。ただこれ諸佛の常法なり。諸佛の常法なるがゆゑに、我我所にあらず、身心にあらざるなり。三界のかたをひとしくするところにあらず。かくのごとくなるがゆゑに、出家これ最上の法なり。頓にあらず、漸にあらず。常にあらず、無常にあらず。來にあらず、去にあらず。住にあらず、作にあらず。廣にあらず、狹にあらず。大にあらず、小にあらず、無作にあらず。佛法單傳の祖師、かならず出家受戒せずといふことなし。いまの提多伽、はじめて優婆@(きく)多尊者にあふたてまつりて出家をもとむる道理かくのごとし。出家受具し、優婆@(きく)多に參學し、つひに第五祖師となれり。」(2)
- 「南嶽懷讓禪師、一日自歎曰、夫出家者、爲無生法、天上人間、無有勝者
(南嶽懷讓禪師、一日自ら歎じて曰く、夫れ出家は、無生法の爲にす、天上人間、勝る者有ること無し)。
いはく、無生法とは如來の正法なり、このゆゑに天上人間にすぐれたり。天上といふは、欲界に六天あり、色界に十八天あり、無色界に四種、ともに出家の道におよぶことなし。
盤山寶積禪師曰、禪徳、可中學道、似地フ山、不知山之孤峻。如石含玉、不知玉之無瑕。若如是者、是名出家
(盤山寶積禪師曰く、禪徳、可中學道は、地の山をフげて、山の孤峻を知らざるに似たり。石の玉を含んで、玉の瑕無きを知らざるが如し。若し是の如くならば、是れを出家と名づく)。
佛祖の正法かならずしも知不知にかかはれず、出家は佛祖の正法なるがゆゑに、その功徳あきらかなり。
鎭州臨濟院義玄禪師曰、夫出家者、須辨得平常眞正見解、辨佛辨魔、辨眞辨僞、辨凡辨聖。若如是辨得、名眞出家。若魔佛不辨、正是出一家入一家、喚作造業衆生。未得名爲眞正出家
(鎭州臨濟院義玄禪師曰く、夫れ出家は、須らく平常眞正の見解を辨得し、辨佛辨魔、辨眞辨僞、辨凡辨聖すべし。若し是の如く辨得せば、眞の出家と名づく。若し魔佛辨ぜざれば、正に是れ一家を出でて一家に入るなり、喚んで造業の衆生と作す。未だ名づけて眞正の出家と爲すこと得ず)。
いはゆる平常眞正見解といふは、深信因果、深信三寶等なり。辨佛といふは、ほとけの因中果上の功徳を念ずることあきらかなるなり。眞僞凡聖をあきらかに辨肯するなり。もし魔佛をあきらめざれば、學道を沮壞し、學道を退轉するなり。魔事を覺知してその事にしたがはざれば、辨道不退なり。これを眞正出家の法とす。いたづらに魔事を佛法とおもふものおほし、近世の非なり。學者、はやく魔をしり佛をあきらめ、修證すべし。」(3)
- 「如來の正法は、西天すなはち法本なり。古今の人師、おほく凡夫の情量局量の小見をたつ。佛界・衆生界、それ有辺無辺にあらざるがゆゑに、大小乘の教行人理、いまの凡夫の局量にいるべからず。しかあるに、いたづらに西天を本とせず、震旦國にして、あらたに局量の小見を今案して佛法とせる、道理しかあるべからず。
」(4)
- 「しかあればすなはち、佛祖正傳の作袈裟の法によりて作法すべし。ひとりこれ正傳なるがゆゑに。凡聖人天龍神、みなひさしく證知しきたれるところなり。この法の流布にむまれあひて、ひとたび袈裟を身體におほひ、刹那須臾も受持せん、すなはちこれ決定成無上菩提の護身符子ならん。一句一偈を信(身)心にそめん、長劫光明の種子として、つひに無上菩提にいたる。一法一善を身心にそめん、亦復如是なるべし。心念も刹那生滅し無所住なり、身體も刹那生滅し無所住なりといへども、所修の功徳、かならず熟脱のときあり。袈裟また作にあらず無作にあらず、有所住にあらず無所住にあらず、唯佛與佛の究盡するところなりといへども、受持する行者、その所得の功徳、かならず成就するなり、かならず究竟するなり。もし宿善なきものは、一生二生乃至無量生を經歴すといふとも、袈裟をみるべからず、袈裟を著すべからず、袈裟を信受すべからず、袈裟をあきらめしるべからず。いま震旦國日本國をみるに、袈裟をひとたび身體に著することうるものあり、えざるものあり。貴賎によらず、愚智によらず。はかりしりぬ、宿善によれりといふこと。」(5)
- 「およそしるべし、袈裟はこれ諸佛の恭敬歸依しましますところなり。佛身なり、佛心なり。解脱服と稱じ、福田衣と稱じ、無相衣と稱じ、無上衣と稱じ、忍辱衣と稱じ、如來衣と稱じ、大慈大悲衣と稱じ、勝幡衣と稱じ、阿耨多羅三藐三菩提衣と稱ず。まさにかくのごとく受持頂戴すべし。かくのごとくなるがゆゑに、こころにしたがうてあらたむべきにあらず。
その衣財、また絹布よろしきにしたがうてもちゐる。かならずしも布は清淨なり、絹は不淨なるにあらず。布をきらうて絹をとる所見なし、わらふべし。諸佛の常法、かならず糞掃衣を上品とす。」(6)
- 「糞掃に十種あり、四種あり。
いはゆる火燒、牛嚼、鼠噛、死人衣等。五印度人、如此等衣、棄之巷野。事同糞掃、名糞掃衣。行者取之、浣洗縫治、用以供身(火燒、牛嚼、鼠噛、死人衣等なり。五印度の人、此の如き等の衣、之を巷野に棄つ。事、糞掃に同じ、糞掃衣と名づく。行者之を取つて、浣洗縫治して、用以て身に供ず)。
そのなかに絹類あり、布類あり。絹布の見をなげすてて、糞掃を參學すべきなり。
糞掃衣は、むかし阿耨達池にして浣洗せしに、龍王讃歎、雨花禮拜しき。
小乘教師また化絲の説あり、よところなかるべし、大乘人わらふべし。いづれか化絲にあらざらん。なんぢ化をきくみみを信ずとも、化をみる目をうたがふ。
しるべし、糞掃をひろふなかに、絹に相似なる布あらん、布に相似なる絹あらん。土俗萬差にして造化はかりがたし、肉眼のよくしるところにあらず。かくのごときのものをえたらん、絹布と論ずべからず、糞掃と稱ずべし。たとひ人天の糞掃と生長せるありとも、有情ならじ、糞掃なるべし。たとひ松菊の糞掃と生長せるありとも、非情ならじ、糞掃なるべし。糞掃の絹布にあらず、金銀珠玉にあらざる道理を信受するとき、糞掃現成するなり。絹布の見解いまだ脱落せざれば、糞掃也未夢見在なり。」(7)
- 「ある僧かつて古佛にとふ、黄梅夜半の傳衣、これ布なりとやせん、絹なりとやせん。畢竟じてなにものなりとかせん。
古佛いはく、これ布にあらず、これ絹にあらず。
しるべし、袈裟は絹布にあらざる、これ佛道の玄訓なり。
商那和修尊者は第三の附法藏なり、むまるるときより衣と倶生せり。この衣、すなはち在家のときは俗服なり、出家すれば袈裟となる。また鮮白比丘尼、發願施@(じょう)ののち、生生のところ、および中有、かならず衣と倶生せり。今日釋迦牟尼佛にあふたてまつりて出家するとき、生得の俗衣、すみやかに轉じて袈裟となる。和修尊者におなじ。あきらかにしりぬ、袈裟は絹布等にあらざること。いはんや佛法の功徳、よく身心諸法を轉ずること、それかくのごとし。われら出家受戒のとき、身心依正すみやかに轉ずる道理あきらかなれど、愚蒙にしてしらざるのみなり。諸佛の常法、ひとり和修鮮白に加して、われらに加せざることなきなり。隨分の利益、うたがふべからざるなり。
かくのごとくの道理、あきらかに功夫參學すべし。善來得戒の披體の袈裟、かならずしも布にあらず、絹にあらず。佛化難思なり、衣裏の寶珠は算沙の所能にあらず。
諸佛の袈裟の體色量の有量無量、有相無相、あきらめ參學すべし。西天東地、古往今來の祖師、みな參學正傳せるところなり。祖祖正傳のあきらかにしてうたがふところなきを見聞しながら、いたづらにこの祖師に正傳せざらんは、その意樂ゆるしがたからん。愚癡のいたり、不信のゆゑなるべし。實をすてて虚をもとめ、本をすてて末をねがふものなり。これ如來を輕忽したてまつるならん。菩提心をおこさんともがら、かならず祖師の正傳を傳受すべし。われらあひがたき佛法にあひたてまつるのみにあらず、佛袈裟正傳の法孫としてこれを見聞し、學習し、受持することをえたり。すなはちこれ如來をみたてまつるなり。佛説法をきくなり、佛光明にてらさるるなり、佛受用を受用するなり。佛心を單傳するなり、佛髓をえたるなり。まのあたり釋迦牟尼佛の袈裟におほはれたてまつるなり。釋迦牟尼佛まのあたりわれに袈裟をさづけましますなり。ほとけにしたがふたてまつりて、この袈裟はうけたてまつれり。」(8)
- 「おほよそ、八萬歳より百歳にいたるまで、壽命の増減にしたがうて、身量の長短あり。八萬歳と一百歳と、ことなることありといふ、また平等なるべしといふ。そのなかに、平等なるべしといふを正傳とせり。佛と人と、身量はるかにことなり。人身ははかりつべし。佛身はつひにはかるべからず。このゆゑに、迦葉佛の袈裟、いま釋迦牟尼佛著しましますに、長にあらず、ひろきにあらず。今釋迦牟尼佛の袈裟、彌勒如來著しましますに、みぢかきにあらず、せばきにあらず。佛身の長短にあらざる道理、あきらかに觀見し、決斷し、照了し、警察すべきなり。梵王のたかく色界にある、その佛頂をみたてまつらず。目連はるかに光明幡世界にいたる、その佛聲をきはめず。遠近の見聞ひとし、まことに不可思議なるものなり。如來の一切の功徳、みなかくのごとし。この功徳を念じたてまつるべし。」(9)
- 「しかあればすなはち、この糞掃衣は、人天龍等のおもくし擁護するところなり。これをひろうて袈裟をつくるべし。これ最第一の淨財なり、最第一の清淨なり。いま日本國、かくのごとく糞掃衣なし、たとひもとめんとすともあふべからず、邊地小國かなしむべし。ただ檀那所施の淨財、これをもちゐるべし。人天の布施するところの淨財、これをもちゐるべし。あるいは淨命よりうるところのものをもて、いちにして貿易せらん、またこれ袈裟につくりつべし。かくのごときの糞掃、および淨命よりえたるところは、絹にあらず、布にあらず。金銀珠玉、綾羅錦繍等にあらず、ただこれ糞掃衣なり。この糞掃は、弊衣のためにあらず、美服のためにあらず、ただこれ佛法のためなり。これを用著する、すなはち三世の諸佛の皮肉骨髓を正傳せるなり、正法眼藏を正傳せるなり。この功徳さらに、人天に問著すべからず、佛祖に參學すべし。」(10)
- 「おほよそ、心三種あり。
一者質多心、此方稱慮知心(一つには質多心、此の方に慮知心と稱ず)。
二者汗栗多心、此方稱草木心(二つには汗栗多心、此の方に草木心と稱ず)。
三者矣栗多心、此方稱積聚精要心(三つには矣栗多心、此の方に積聚精要心と稱ず)。
このなかに、菩提心をおこすこと、かならず慮知心をもちゐる。菩提は天竺の音、ここには道といふ。質多は天竺の音、ここには慮知心といふ。この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて菩提心をおこすなり。菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと發願しいとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに、一切衆生の導師なり。この心もとよりあるにあらず、いまあらたに@(くつ)起するにあらず。一にあらず、多にあらず。自然にあらず、凝然にあらず。わが身のなかにあるにあらず、わが身は心のなかにあるにあらず。この心は、法界に周遍せるにあらず。前にあらず、後にあらず。なきにあらず。自性にあらず、他性にあらず。共性にあらず、無因性にあらず。しかあれども、感應道交するところに、發菩提心するなり。諸佛菩薩の所授にあらず、みづからが所能にあらず、感應道交するに發心するゆゑに、自然にあらず。」(11)
- 「この心、われにあらず、他にあらず、きたるにあらずといへども、この發心よりのち、大地を擧すればみな黄金となり、大海をかけばたちまちに甘露となる。これよりのち、土石砂礫をとる、すなはち菩提心を拈來するなり。水沫泡焔を參ずる、したしく菩提心を擔來するなり。
しかあればすなはち、國城妻子、七寶男女、頭目髓腦、身肉手足をほどこす、みな菩提心の鬧聒聒なり、菩提心の活@@(ぱつぱつ)なり、いまの質多、慮知の心、ちかきにあらず、とほきにあらず、みづからにあらず、他にあらずといへども、この心をもて、自未得度先度他の道理にめぐらすこと不退轉なれば、發菩提心なり。しかあれば、いま一切衆生の我有と執せる草木瓦礫、金銀珍寶をもて菩提心にほどこす、また發菩提心ならざらめやは。
心および諸法、ともに自・他・共・無因にあらざるがゆゑに、もし一刹那この菩提心をおこすより、萬法みな増上縁となる。おほよそ發心、得道、みな刹那生滅するによるものなり。もし刹那生滅せずは、前刹那の惡さるべからず。前刹那の惡いまださらざれば、後刹那の善いま現生すべからず。この刹那の量は、ただ如來ひとりあきらかにしらせたまふ。一刹那心、能起一語、一刹那語、能説一字(一刹那の心、能く一語を起し、一刹那の語、能く一字を説く)も、ひとり如來のみなり。餘聖不能なり。」(12)
- 「佛言、
若無過去世(若し過去世無くんば)、
應無過去佛(應に過去佛無かるべし)。
若無過去佛(若し過去佛無くんば)、
無出家受具(出家受具無けん)。
あきらかにしるべし、三世にかならず諸佛ましますなり。しばらく過去の諸佛におきて、そのはじめありといふことなかれ、そのはじめなしといふことなかれ。もし始終の有無を邪計せば、さらに佛法の習學にあらず。過去の諸佛を供養したてまつり、出家し、隨順したてまつるがごとき、かならず諸佛となるなり。供佛の功徳によりて作佛するなり。いまだかつて一佛をも供養したてまつらざる衆生、なにによりてか作佛することあらん。無因作佛あるべからず。」(13)
- 「龍樹祖師云、如外道人、破世間因果、則無今世後世。破出世因果、則無三寶、四諦、四沙門果(龍樹祖師云く、外道の人の如く、世間の因果を破せば、則ち今世後世無けん。出世の因果を破せば、則ち三寶、四諦、四沙門果無けん)。
あきらかにしるべし、世間出世の因果を破するは外道なるべし。今世なしといふは、かたちはこのところにあれども、性はひさしくさとりに歸せり、性すなはち心なり、心は身とひとしからざるゆゑに。かくのごとく解する、すなはち外道なり。あるいはいはく、人死するとき、かならず性海に歸す、佛法を修習せざれども、自然に覺海に歸すれば、さらに生死の輪轉なし。このゆゑに後世なしといふ。これ斷見の外道なり。かたちたとひ比丘にあひにたりとも、かくのごとくの邪解あらんともがら、さらに佛弟子にあらず。まさしくこれ外道なり。おほよそ因果を撥無するより、今世後世なしとはあやまるなり。因果を撥無することは、眞の知識に參學せざるによりてなり。眞知識に久參するがごときは、撥無因果等の邪解あるべからず。龍樹祖師の慈誨、深く信仰したてまつり、頂戴したてまつるべし。」(14)
- 「夾山圜悟禪師克勤和尚、頌古に云く、
魚行水濁、鳥飛毛落(魚行けば水濁り、鳥飛べば毛落つ)
、
至鑑難逃、太虚寥廓(至鑑逃れ難く、太虚寥廓たり)。
一往迢迢五百生(一往迢迢たり五百生)、
只縁因果大修行(只因果に縁つて大修行す)。
疾雷破山風震海(疾雷、山を破り、風、海を震はす)、
百錬精金色不改(百錬の精金、色改まらず)。
この頌なほ撥無因果のおもむきあり、さらに常見のおもむきあり。
杭州徑山大慧禪師宗杲和尚、頌に云、
不落不昧、石頭土塊(不落不昧、石頭土塊)、
陌路相逢、銀山粉碎(陌路に相逢ふて、銀山粉碎す)。
拍手呵呵笑一場(拍手呵呵笑ひ一場)。
明州有箇&(かん) 布袋(明州に箇の&(かん) 布袋有り)。
これらをいまの宋朝のともがら、作家の祖師とおもへり。しかあれども、宗杲が見解、いまだ佛法の施權のむねにおよばず、ややもすれば自然見解のおもむきあり。
おほよそこの因縁に、頌古、拈古のともがら三十餘人あり。一人としても、不落因果是れ撥無因果なりと疑ふものなし。あはれむべし。このともがら、因果をあきらめず、いたづらに紛紜のなかに一生をむなしくせり。佛法參學には、第一因果をあきらむるなり。因果を撥無するがごときは、おそらくは猛利の邪見をおこして、斷善根とならんことを。
おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造惡のものは墮し、修善のものはのぼる、毫釐もたがはざるなり。もし因果亡じ、むなしからんがごときは、諸佛の出世あるべからず、祖師の西來あるべからず、おほよそ衆生の見佛聞法あるべからざるなり。因果の道理は、孔子、老子等のあきらむるところにあらず。ただ佛佛祖祖、あきらめつたへましますところなり。澆季の學者、薄福にして正師にあはず、正法をきかず、このゆゑに因果をあきらめざるなり。撥無因果すれば、このとがによりて、@@(もうもう)蕩蕩として殃禍をうくるなり。撥無因果のほかに餘惡いまだつくらずといふとも、まづこの見毒はなはだしきなり。
しかあればすなはち、參學のともがら、菩提心をさきとして、佛祖の洪恩を報ずべくは、すみやかに諸因諸果をあきらむべし。」(15)
- 「鳩摩羅多尊者は、如來より第十九代の附法なり。如來まのあたり名字を記しまします。ただ釋尊一佛の法をあきらめ正傳せるのみにあらず、かねて三世の諸佛の法をも曉了せり。闍夜多尊者、いまの問をまうけしよりのち、鳩摩羅多尊者にしたがひて、如來の正法を修習し、つひに第二十代の祖師となれり。これもまた、世尊はるかに第二十祖は闍夜多なるべしと記しましませり。しかあればすなはち、佛法の批判、もともかくのごとくの祖師の所判のごとく習學すべし。いまのよに因果をしらず、業報をあきらめず、三世をしらず、善惡をわきまへざる邪見のともがらに群すべからず。」(16)
- 「世尊一日、外道來詣佛所問佛、不問有言、不問無言
(世尊一日、外道、佛の所に來詣りて佛に問ひたてまつらく、有言を問はず、無言を問はず)。
世尊據坐良久(世尊、據坐良久したまふ)。
外道禮拜讃歎云、善哉世尊、大慈大悲、開我迷雲、令我得入(外道、禮拜し讃歎して云く、善哉世尊、大慈大悲、我が迷雲を開き、我れをして得入せしめたまへり)。
乃作禮而去(乃ち作禮して去りぬ)。
外道去了、阿難尋白佛言、外道以何所得、而言得入、稱讃而去
(外道去り了りて、阿難、尋いで佛に白して言さく、外道何の所得を以てか、而も得入すと言ひ、稱讃して去るや)。
世尊云、如世間良馬、見鞭影而行(世間の良馬の、鞭影を見て行くが如し)。
祖師西來よりのち、いまにいたるまで、諸善知識おほくこの因縁を擧して參學のともがらにしめすに、あるいは年載をかさね、あるいは日月をかさねて、ままに開明し、佛法に信入するものあり。これを外道問佛話と稱ず。しるべし、世尊に聖默・聖説の二種の施設まします。これによりて得入するもの、みな如世間良馬見鞭影而行なり。聖默・聖説にあらざる施設によりて得入するも、またかくのごとし。」(17)
- 「第十四祖龍樹祖師言、佛弟子中有一比丘、得第四禪、生増上慢、謂得四果。初得初禪、謂得須陀@(おん)。得第二禪時、謂是斯陀含果、得第三禪時、謂是阿那含果、得第四禪時、謂是阿羅漢。恃是自高、不復求進。命欲盡時、見有四禪中陰相來、便生邪見、謂無涅槃、佛爲欺我。惡邪見故、失四禪中陰、便見阿毘泥梨中陰相、命終即生阿毘泥梨中(第十四祖龍樹祖師言く、佛弟子の中に一の比丘有りき、第四禪を得て、増上慢を生じ、四果を得たりと謂へり。初め初禪を得ては、須陀@(おん)を得たりと謂へり。第二禪を得し時、是れを斯陀含果と謂ひ、第三禪を得し時、是れを阿那含果と謂ひ、第四禪を得し時、是れを阿羅漢と謂へり。是れを恃んで自ら高ぶり、復た進まんことを求めず。命盡きなんとする時、四禪の中陰の相有りて來るを見て、便ち邪見を生じ、涅槃無し、佛、爲に我を欺くと謂へり。惡邪見の故に、四禪の中陰を失ひ、便ち阿毘泥梨の中陰の相を見、命終して即ち阿毘泥梨中に生ぜり)。
諸比丘問佛、阿蘭若比丘、命終生何處(諸の比丘、佛に問ひたてまつらく、阿蘭若比丘、命終して何れの處にか生ぜし)。
佛言、是人生阿毘泥梨中(是の人は阿毘泥梨中に生ぜり)。
諸比丘大驚、坐禪持戒便至爾耶(諸の比丘大きに驚き、坐禪持戒して便ち爾るに至るやといふ)。
佛如前答言、彼皆因増上慢。得四禪時、謂得四果。臨命終時、見四禪中陰相、便生邪見、謂無涅槃、我是羅漢、今還復生、佛爲虚誑。是時即見阿毘泥梨中陰相、命終即生阿毘泥梨中(佛、前の如く答へて言はく、彼は皆な増上慢に因る。四禪を得し時、四果を得たりと謂へり。臨命終の時、四禪の中陰の相を見て、便ち邪見を生じて謂へらく、涅槃無し、我れは是れ羅漢なり、今還つて復た生ず、佛は虚誑せりと。是の時即ち阿毘泥梨の中陰の相を見、命終して即ち阿毘泥梨の中に生ぜり)。
是時佛説偈言(是の時に佛、偈を説いて言はく)、
多聞、持戒、禪(多聞、持戒、禪も)、
未得漏盡法(未だ漏盡の法を得ず)。
雖有此功徳(此の功徳有りと雖も)、
此事難可信(此の事信ずべきこと難し)。
墮獄由謗佛(墮獄は謗佛に由る)、
非關第四禪(第四禪は關るに非ず)。
この比丘を稱じて四禪比丘といふ、または無聞比丘と稱ず。四禪をえたるを四果と僻計せることをいましめ、また謗佛の邪見をいましむ。人天大會みなしれり。如來在世より今日にいたるまで、西天東地ともに是にあらざるを是と執せるをいましむとして、四禪をえて四果とおもふがごとしとあざける。
この比丘の不是、しばらく略して擧するに三種あり。第一には、みづから四禪と四果とを分別するにおよばざる無聞の身ながら、いたづらに師をはなれて、むなしく阿蘭若に獨處す。さいはひにこれ如來在世なり、つねに佛所に詣して、常恆に見佛聞法せば、かくのごとくのあやまりあるべからず。しかあるに、阿蘭若に獨處して佛所に詣せず、つねに見佛聞法せざるによりてかくのごとし。たとひ佛所に詣せずといふとも、諸大阿羅漢の處にいたりて、教訓を請ずべし。いたづらに獨處する、増上慢のあやまりなり。第二には、初禪をえて初果とおもひ、二禪をえて第二果とおもひ、三禪をえて第三果とおもひ、四禪をえて第四果とおもふ、第二のあやまりなり。初二三四禪の相と、初二三四果の相と、比類に及ばず。たとふることあらんや。これ無聞のとがによれり。師につかへず、くらきによれるとがなり。」(18)
- 「如來在世有外道、名論力。自謂論議無與等者、其力最大。故云論力。受五百梨昌募、撰五百明難、來難世尊。來至佛所、而問佛云、爲一究竟道、爲衆多究竟道
(如來在世に外道有り、論力と名づく。自ら論議與に等しき者無く、其の力最大なりと謂へり。故に論力と云ふ。五百梨昌の募を受けて、五百の明難を撰じ、來つて世尊を難ず。佛の所に來至りて、佛に問ひたてまつりて云く、一究竟道とやせん、衆多究竟道とやせん)。
佛言、唯一究竟道(唯一究竟道なり)。
論力云、我等諸師、各説有究竟道。以外道中、各各自謂是、毀@(し)他人法、互相是非故、有多道
(我等が諸師は、各究竟道有りと説く。外道の中に、各各自ら是なりと謂うて、他人の法を毀@(し)して、互ひに相是非するを以ての故に多道有り)。
世尊其時、已化鹿頭、成無學果、在佛邊立
(世尊其の時、已に鹿頭を化して、無學果を成ぜしめて、佛の邊に在りて立てり)。
佛問論力、衆多道中、誰爲第一
(佛、論力に問ひたまはく、衆多の道の中に、誰をか第一と爲す)。
論力云、鹿頭第一(鹿頭第一なり)。
佛言、其若第一、云何捨其道、爲我弟子入我道中
(其れ若し第一ならんには、云何ぞ其の道を捨てて、我が弟子となりて我が道の中に入るや)。
論力見已慚愧低頭、歸依入道
(論力、見已りて、慚愧し低頭して、歸依し道に入れり)。
是時佛説義品偈言(是の時に佛、義品の偈を説いて言はく)、
各各謂究竟、而各自愛著(各各究竟なりと謂ひて、而も各自ら愛著し)、
各自是非彼、是皆非究竟(各自ら是として彼を非なりとす、是れ皆な究竟に非ず)。
是人入論衆、辯明義理時(是の人論衆に入りて、義理を辯明する時)、
各各相是非、勝負懷憂苦(各各相是非し、勝負して憂苦を懷く)。
勝者墮慢坑、負者墮憂獄(勝者は慢坑に墮し、負者は憂獄に墮す)、
是故有智者、不墮此二法(是の故に有智の者は、此の二法に墮せず)。
論力汝當知、我諸弟子法(論力、汝當に知るべし、我が諸の弟子の法は)、
無虚亦無實、汝欲何所求(虚も無く亦た實も無し、汝、何れの所をか求めんと欲ふ)。
汝欲壞我論、終已無此處(汝、我が論を壞せんと欲はば、終に已に此の處無し)、
一切智難明、適足自毀壞(一切智も明らめ難し、適自ら毀壞するに足らんのみ)。
いま世尊の金言かくのごとし。東土愚闇の衆生、みだりに佛教に違背して、佛道とひとしきみちありといふことなかれ。すなはち謗佛謗法となるべきなり。西天の鹿頭ならびに論力、乃至長爪梵志、先尼梵志等は、博學のいたり、東土にむかしよりいまだなし、孔老さらに及ぶべからざるなり。これらみなみづからが道をすてて佛道に歸依す、いま孔老の俗人をもて佛法に比類せんは、きかんものもつみあるべし。いはんや阿羅漢、辟支佛も、みなつひに菩薩となる。一人としても小乘にしてをはるものなし。いかでかいまだ佛道にいらざる孔老を諸佛にひとしといはん。大邪見なるべし。
おほよそ如來世尊、はるかに一切を超越しましますこと、すなはち諸佛如來、諸大菩薩、梵天帝釋、みなともにほめたてまつり、しりたてまつるところなり。西天二十八祖、唐土六祖、ともにしれるところなり。おほよそ參學力あるもの、みなともにしれり。いま澆運のともがら、宋朝愚闇のともがらの三教一致の狂言、用ゐるべからず、不學のいたりなり。」(19)
- (「一百八法明門」のうちの67番目)
「慧力是れ法明門なり、二邊を離るるが故に。」(20)
(注)
- (1)「出家功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、281頁。
- (2)同上、283頁。 @=毛偏の掬(きく)
- (3)同上、285頁。
- (4)「袈裟功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、306頁。
- (5)「袈裟功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、306頁。
- (6)「袈裟功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、308頁。
- (7)「袈裟功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、308頁。
- (8)「袈裟功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、309頁。@=疊に毛(じょう)。
- (9)「袈裟功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、321頁。
- (10)同上、328頁。
- (11)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、332頁。
@=扁は、火が3つ、つくりは、「欠」、(くつ)。
- (12)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、335頁。@=魚偏に發(ぱつ)
- (13)「供養諸仏」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、343頁。
- (14)「深信因果」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、391頁。
- (15)同上、393頁。
- (16)「三時業」同上、396頁。
- (17)「四馬」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、413頁。
- (18)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、419頁。
@=さんずいに亘(おん)。
- (19)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、437頁。@= 此の下に言(し)。
- (20)「一百八法明門」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、444頁。
[一つを取る説]目次
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