もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
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仏教学・禅学の批判
仏道は坐のみではない=十二巻「正法眼蔵」
- 坐禅のみが道元の仏道で、そのことを信じて坐禅するのみ、という解釈がある。それに反する言葉がある。
生活上すべての場所、時が仏道である。
坐のみではない
十二巻本「正法眼蔵」
- (諸法実相を究尽する。坐していない時にも、小功徳を愛する)
「この因縁、むかしは先師の室にして夜話をきく、のちには智論の文にむかうてこれを檢校す。傳法祖師の示誨、あきらかにして遺落せず。この文、智度論第十にあり。諸佛かならず諸法實相を大師としましますこと、あきらけし。釋尊また諸佛の常法を證しまします。
いはゆる諸法實相を大師とするといふは、佛法僧三寶を供養恭敬したてまつるなり。諸佛は無量阿僧祇劫そこばくの功徳善根を積集して、さらにその報をもとめず、ただ功徳を恭敬して供養しましますなり。佛果菩提のくらゐにいたりてなほ小功徳を愛し、盲比丘のために衽針しまします。佛果の功徳をあきらめんとおもはば、いまの因縁、まさしく消息なり。
しかあればすなはち、佛果菩提の功徳、諸法實相の道理、いまのよにある凡夫のおもふがごとくにはあらざるなり。いまの凡夫のおもふところは、造惡の諸法實相ならんとおもふ、有所得のみ佛果菩提ならんとおもふ。かくのごとくの邪見は、たとひ八萬劫をしるといふとも、いまだ本劫本見、末劫末見をのがれず、いかでか唯佛與佛の究盡しましますところの諸法實相を究盡することあらん。ゆえいかむ、となれば、唯佛與佛の究盡しましますところ、これ諸法實相なるがゆゑなり。」(1)
- (初二三四禅定を得て、初二三四果を得たという誤り。坐禅が無上菩提ではない。)
「この比丘を稱じて四禪比丘といふ、または無聞比丘と稱ず。四禪をえたるを四果と僻計せることをいましめ、また謗佛の邪見をいましむ。人天大會みなしれり。如來在世より今日にいたるまで、西天東地ともに是にあらざるを是と執せるをいましむとして、四禪をえて四果とおもふがごとしとあざける。
この比丘の不是、しばらく略して擧するに三種あり。第一には、みづから四禪と四果とを分別するにおよばざる無聞の身ながら、いたづらに師をはなれて、むなしく阿蘭若に獨處す。さいはひにこれ如來在世なり、つねに佛所に詣して、常恆に見佛聞法せば、かくのごとくのあやまりあるべからず。しかあるに、阿蘭若に獨處して佛所に詣せず、つねに見佛聞法せざるによりてかくのごとし。たとひ佛所に詣せずといふとも、諸大阿羅漢の處にいたりて、教訓を請ずべし。いたづらに獨處する、増上慢のあやまりなり。第二には、初禪をえて初果とおもひ、二禪をえて第二果とおもひ、三禪をえて第三果とおもひ、四禪をえて第四果とおもふ、第二のあやまりなり。初二三四禪の相と、初二三四果の相と、比類に及ばず。たとふることあらんや。これ無聞のとがによれり。師につかへず、くらきによれるとがなり。」(2)
- (四禅を得ても、四果ではない。四果は仏果ではない。)
「それ佛法をしれるは、かくのごとくみづからが非を覺知し、はやくそのあやまりをなげすつ。しらざるともがらは、一生むなしく愚蒙のなかにあり。生より生を受くるも、またかくのごとくなるべし。
この優婆@(きく)多の弟子は、四禪をえて四果とおもふといへども、さらに我非羅漢の智あり。無聞比丘も、臨命終のとき、四禪の中陰みゆることあらんに、我非羅漢としらば、謗佛の罪あるべからず。いはんや四禪をえてのちひさし、なんぞ四果にあらざるとかへりみしらざらん。すでに四果にあらずとしらば、なんぞ改めざらん。いたづらに僻計にとどこほり、むなしく邪見にしづめり。
第三には、命終の時おほきなる誤りあり、そのとがふかくしてつひに阿鼻地獄におちぬるなり。たとひなんぢ一生のあひだ、四禪を四果とおもひきたれりとも、臨命終の時、四禪の中陰みゆることあらば、一生の誤りを懺悔して、四果にはあらざりとおもふべし。いかでか佛われを欺誑して、涅槃なきに涅槃ありと施設せさせたまふとおもふべき。これ無聞のとがなり。このつみすでに謗佛なり。これによりて、阿鼻の中陰現じて、命終して阿鼻地獄におちぬ。たとひ四果の聖者なりとも、いかでか如來におよばん。
舍利弗は久しくこれ四果の聖者なり。三千大千世界所有の智惠をあつめて、如來をのぞきたてまつりてほかを一分とし、舍利弗の智惠を十六分にせる一分と、三千大千世界所有の智惠とを格量するに、舍利弗の十六分之一分に及ばざるなり。しかあれども、如來未曾説の法をときましますをききて、前後の佛説ことにして、われを欺誑しましますとおもはず。波旬無此事(波旬に此事無し)とほめたてまつる。如來は福増をわたし、舍利弗は福増をわたさず。四果と佛果と、はるかにことなること、かくのごとし。たとひ舍利弗及びもろもろの弟子のごとくならん、十方界にみちみてたらん、ともに佛智を測量せんことうべからず。孔老にかくのごとくの功徳いまだなし。佛法を習學せんもの、たれか孔老を測度せざらん。孔老を習學するもの、佛法を測量することいまだなし。いま大宋國のともがら、おほく孔老と佛道と一致の道理をたつ。僻見もともふかきものなり。しもにまさに廣説すべし。」(3)
- (百八の法明門がある。坐していない時の工夫も多い。縁起も、禅も、智恵も、慈悲行もある。道元は、これを学び、人々に説け、という。坐だけではない。学解ではない。自分だけ坐し、縁起を理解したくらいで、仏ではない、慢心するな。)
「これすなはち一百八法明門なり。一切の一生所繋の菩薩、都史多天より閻浮提に下生せんとするとき、かならずこの一百八法明門を、都史多天の衆のために敷揚して、諸天を化するは、諸佛の常法なり。
護明菩薩とは、釋迦牟尼佛、一生補處として第四天にましますときの名なり。李附馬、天聖廣燈録を撰するに、この一百八法明門の名字をのせたり。參學のともがら、あきらめしれるはすくなく、しらざるは稻麻竹葦のごとし。いま初心晩學のともがらのためにこれを撰す。師子の座にのぼり、人天の師となれらんともがら、審細參學すべし。この都史多天に一生所繋として住せざれば、さらに諸佛にあらざるなり。行者みだりに我慢することなかれ、一生所繋の菩薩は中有なし。」(4)
全文は、ここに収録。
(E)煩悩の捨棄2=12巻眼蔵
-
(八つの覚がある。坐していない時の工夫も多い。苦の滅、煩悩の捨棄、禅、智恵、解脱、慈悲行もある。道元は、これを学び、無上菩提に至り、人々のために説け、という。坐だけではない。信だけではない、面授だけではない、縁起の学解だけではない。)
「これ八大人覺なり。一一各具八、すなはち六十四あるべし。ひろくするときは無量なるべし、略すれば六十四なり。
大師釋尊、最後之説、大乘之所教誨。二月十五日夜半の極唱、これよりのち、さらに説法しましまさず、つひに般涅槃しまします。
佛言、汝等比丘、常當一心勤求出道。一切世間動不動法、皆是敗壞不安之相。汝等且止、勿得復語。時將欲過、我欲滅度、是我最後之所教誨
(佛言はく、汝等比丘、常に當に一心に勤めて出道を求むべし。一切世間の動不動の法は、皆な是れ敗壞不安の相なり。汝等且く止みね、復た語ふこと得ること勿れ。時將に過ぎなんとす、我れ滅度せんとす。是れ我が最後の教誨する所なり)。
このゆゑに、如來の弟子は、かならずこれを習學したてまつる。これを修習せず、しらざらんは佛弟子にあらず。これ如來の正法眼藏涅槃妙心なり。しかあるに、いましらざるものはおほく、見聞せることあるものはすくなきは、魔@(にょう)によりてしらざるなり。また宿殖善根すくなきもの、きかず、みず。むかし正法、像法のあひだは、佛弟子みなこれをしれり、修習し參學しき。いまは千比丘のなかに、一兩この八大人覺しれる者なし。あはれむべし、澆季の陵夷、たとふるにものなし。如來の正法、いま大千に流布して、白法いまだ滅せざらんとき、いそぎ習學すべきなり、緩怠なることなかれ。
佛法にあふたてまつること、無量劫にかたし。人身をうること、またかたし。たとひ人身をうくといへども、三洲の人身よし。そのなかに、南洲の人身すぐれたり。見佛聞法、出家得道するゆゑなり。如來の般涅槃よりさきに涅槃にいり、さきだちて死せるともがらは、この八大人覺をきかず、ならはず。いまわれら見聞したてまつり、習學したてまつる、宿殖善根のちからなり。いま習學して生生に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれをとかんこと、釋迦牟尼佛にひとしくしてことなることなからん。」(5)
全文は、ここに収録。
(E)煩悩の捨棄2=12巻眼蔵
- (十二巻本「正法眼蔵」では、「因果」「三時業」を学ぶことが強調されている。無目的の坐だけでは、これが達成されない。)
関連する文は「縁起・因果」の項に収録。
(注)
- (1)「供養諸仏」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、361頁。
- (2)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、419頁。
- (3)同上、424頁。@=毛偏の掬(きく)
- (4)「一百八法明門」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、450頁。
- (5)「八大人覚」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、456頁。
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