もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
言語、思量を用いず=十二巻「正法眼蔵」
言語、思量を用いず
「正法眼蔵」
- 「いはく、人ありて、この生に、あるいは善にもあれ、あるいは惡にもあれ、造作しをはれりといへども、あるいは第三生、あるいは第四生、乃至百千生のあひだにも、善惡の業を感ずるを、順後次受業となづく。菩薩の三祇劫の功徳、おほく順後次受業なり。かくのごとくの道理しらざるがごときは、行者おほく疑心をいだく。いまの闍夜多尊者の在家のときのごとし。もし鳩摩羅多尊者にあはずは、そのうたがひ、とけがたからん。行者もし思惟それ善なれば、惡すなはち滅す。それ惡思惟すれば、善すみやかに滅するなり。」(1)
- 「この人いけるほど、つねに惡をつくり、さらに一善を修せざるのみにあらず、命終のとき、天趣の中有の現前せるをみて、順後次受をしらず、われ一生のあひだ惡をつくれりといへども、天趣にむまれんとす。はかりしりぬ、さらに善惡なかりけり。かくのごとく善惡を撥無する邪見力のゆゑに、天趣の中有たちまちに隱歿して、地獄の中有すみやかに現前し、いのちをはりて地獄におつ。これは邪見のゆゑに、天趣の中有かくるるなり。
しかあればすなはち、行者かならず邪見なることなかれ。いかなるか邪見、いかなるか正見と、かたちをつくすまで學習すべし。
まづ因果を撥無し、佛法を毀謗し、三世および解脱を撥無する、ともにこれ邪見なり。まさにしるべし、今生のわが身、ふたつなしみつなし。いたづらに邪見におちて、むなしく惡業を感得せん、をしからざらんや。惡をつくりながら惡にあらずとおもひ、惡の報あるべからずと邪思惟するによりて、惡報の感得せざるにはあらず。」(2)
- 「世尊一日、外道來詣佛所問佛、不問有言、不問無言(世尊一日、外道、佛の所に來詣りて佛に問ひたてまつらく、有言を問はず、無言を問はず)。
世尊據坐良久(世尊、據坐良久したまふ)。
外道禮拜讃歎云、善哉世尊、大慈大悲、開我迷雲、令我得入(外道、禮拜し讃歎して云く、善哉世尊、大慈大悲、我が迷雲を開き、我れをして得入せしめたまへり)。
乃作禮而去(乃ち作禮して去りぬ)。
外道去了、阿難尋白佛言、外道以何所得、而言得入、稱讃而去(外道去り了りて、阿難、尋いで佛に白して言さく、外道何の所得を以てか、而も得入すと言ひ、稱讃して去るや)。
世尊云、如世間良馬、見鞭影而行(世間の良馬の、鞭影を見て行くが如し)。
祖師西來よりのち、いまにいたるまで、諸善知識おほくこの因縁を擧して參學のともがらにしめすに、あるいは年載をかさね、あるいは日月をかさねて、ままに開明し、佛法に信入するものあり。これを外道問佛話と稱ず。しるべし、世尊に聖默聖説の二種の施設まします。これによりて得入するもの、みな如世間良馬見鞭影而行なり。聖默聖説にあらざる施設によりて得入するも、またかくのごとし。」(3)
- (百八法明門)
「八正道」
- 正見是れ法明門なり、漏盡聖道を得るが故に。
- 正分別是れ法明門なり、一切の分別と無分別とを斷ずるが故に。
- 正語是れ法明門なり、一切の名字、音聲、語言は、響きの如しと知るが故に)。
- 正命是れ法明門なり、一切の惡道を除滅するが故に。
- 正行是れ法明門なり、彼岸に至るが故に。
- 正念是れ法明門なり、一切法を思念せざるが故に。
- 正定是れ法明門なり、無散亂三昧を得るが故に。(4)
- 「八者不戲論。證離分別、名不戲論。究盡實相、乃不戲論(八つには不戲論。證して分別を離るるを、不戲論と名づく。實相を究盡す、乃ち不戲論なり)。
佛言、汝等比丘、若種種戲論、其心則亂。雖復出家猶未得脱。是故比丘、當急捨離亂心戲論。汝等若欲得寂滅樂者、唯當善滅戲論之患。是名不戲論(佛言はく、汝等比丘、若し種種の戲論あらば、其の心則ち亂る。復た出家すと雖も猶ほ未だ得脱せず。是の故に比丘、當に急ぎて亂心と戲論とを捨離すべし。汝等若し寂滅の樂を得んと欲はば、唯當に善く戲論の患を滅すべし。是れを不戲論と名づく)。」(5)
(注)
- (1)「三時業」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、405頁。
- (2)同上、408頁。
- (3)「四馬」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、413頁。
- (4)「一百八法明門」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、444頁。
- (5)「八大人覚」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、456頁。
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