もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
信=十二巻「正法眼蔵」
(A)信
「正法眼蔵」
- 「世尊すでに醉婆羅門に出家受戒を聽許し、得道最初の下種とせしめまします。あきらかにしりぬ、むかしよりいまだ出家の功徳なからん衆生、ながく佛果菩提うべからず。この婆羅門、わづかに醉酒のゆゑに、しばらく微心をおこして剃頭受戒し、比丘となれり。酒醉さめざるあひだ、いくばくにあらざれども、この功徳を保護して、得道の善根を増長すべきむね、これ世尊誠諦の金言なり、如來出世の本懷なり。一切衆生あきらかに已今當の中に信受奉行したてまつるべし。まことにその發心得道、さだめて刹那よりするものなり。この婆羅門しばらくの出家の功徳、なほかくのごとし。いかにいはんやいま人間一生の壽者命者をめぐらして出家受戒せん功徳、さらに醉婆羅門よりも劣ならめやは。」(1)
- 「戲女のむかしは信心にあらず、戲笑のために比丘尼の衣を著せり。おそらくは輕法の罪あるべしといへども、この衣をそのみに著せしちから、二世に佛法にあふ。比丘尼衣とは袈裟なり。戲笑著袈裟のちからによりて、第二生迦葉佛のときにあふたてまつる。出家受戒し、比丘尼となれり。破戒によりて墮獄受罪すといへども、功徳くちずしてつひに釋迦牟尼佛にあひたてまつり、見佛聞法、發心修習して、ながく三界をはなれて大阿羅漢となれり、六通三明を具足せり、かならず無上道なるべし。
しかあればすなはち、はじめより一向無上菩提のために、清淨の信心をこらして袈裟を信受せん。その功徳の増長、かの戲女の功徳よりもすみやかならん。いはんやまた、無上菩提のために菩提心をおこし出家受戒せん、その功徳無量なるべし。人身にあらざればこの功徳を成就することまれなり、西天東土、出家在家の菩薩、祖師おほしといふとも、龍樹祖師におよばず。醉婆羅門、戲女等の因縁、もはら龍樹祖師これを擧して衆生の出家受戒をすすむ、龍樹祖師すなはち世尊金口の所記なり。」(2)
- 「鎭州臨濟院義玄禪師曰、夫出家者、須辨得平常眞正見解、辨佛辨魔、辨眞辨僞、辨凡辨聖。若如是辨得、名眞出家。若魔佛不辨、正是出一家入一家、喚作造業衆生。未得名爲眞正出家(鎭州臨濟院義玄禪師曰く、夫れ出家は、須らく平常眞正の見解を辨得し、辨佛辨魔、辨眞辨僞、辨凡辨聖すべし。若し是の如く辨得せば、眞の出家と名づく。若し魔佛辨ぜざれば、正に是れ一家を出でて一家に入るなり、喚んで造業の衆生と作す。未だ名づけて眞正の出家と爲すこと得ず)。
いはゆる平常眞正見解といふは、深信因果、深信三寶等なり。辨佛といふは、ほとけの因中果上の功徳を念ずることあきらかなるなり。眞僞凡聖をあきらかに辨肯するなり。もし魔佛をあきらめざれば、學道を沮壞し、學道を退轉するなり。魔事を覺知してその事にしたがはざれば、辨道不退なり。これを眞正出家の法とす。いたづらに魔事を佛法とおもふものおほし、近世の非なり。學者、はやく魔をしり佛をあきらめ、修證すべし。」(3)
- 「おほよそ、佛佛祖祖相傳の袈裟の功徳、あきらかにして信受しやすし。正傳まさしく相承せり。本樣まのあたりつたはれり、いまに現在せり。受持しあひ嗣法していまにいたる。受持せる祖師、ともにこれ證契傳法の師資なり。」(4)
- 「しかあればすなはち、佛祖正傳の作袈裟の法によりて作法すべし。ひとりこれ正傳なるがゆゑに。凡聖人天龍神、みなひさしく證知しきたれるところなり。この法の流布にむまれあひて、ひとたび袈裟を身體におほひ、刹那須臾も受持せん、すなはちこれ決定成無上菩提の護身符子ならん。一句一偈を信(身)心にそめん、長劫光明の種子として、つひに無上菩提にいたる。一法一善を身心にそめん、亦復如是なるべし。心念も刹那生滅し無所住なり、身體も刹那生滅し無所住なりといへども、所修の功徳、かならず熟脱のときあり。袈裟また作にあらず無作にあらず、有所住にあらず無所住にあらず、唯佛與佛の究盡するところなりといへども、受持する行者、その所得の功徳、かならず成就するなり、かならず究竟するなり。もし宿善なきものは、一生二生乃至無量生を經歴すといふとも、袈裟をみるべからず、袈裟を著すべからず、袈裟を信受すべからず、袈裟をあきらめしるべからず。いま震旦國日本國をみるに、袈裟をひとたび身體に著することうるものあり、えざるものあり。貴賎によらず、愚智によらず。はかりしりぬ、宿善によれりといふこと。」(5)
- 「糞掃に十種あり、四種あり。
いはゆる火燒、牛嚼、鼠噛、死人衣等。五印度人、如此等衣、棄之巷野。事同糞掃、名糞掃衣。行者取之、浣洗縫治、用以供身(火燒、牛嚼、鼠噛、死人衣等なり。五印度の人、此の如き等の衣、之を巷野に棄つ。事、糞掃に同じ、糞掃衣と名づく。行者之を取つて、浣洗縫治して、用以て身に供ず)。
そのなかに絹類あり、布類あり。絹布の見をなげすてて、糞掃を參學すべきなり。
糞掃衣は、むかし阿耨達池にして浣洗せしに、龍王讃歎、雨花禮拜しき。
小乘教師また化絲の説あり、よところなかるべし、大乘人わらふべし。いづれか化絲にあらざらん。なんぢ化をきくみみを信ずとも、化をみる目をうたがふ。
しるべし、糞掃をひろふなかに、絹に相似なる布あらん、布に相似なる絹あらん。土俗萬差にして造化はかりがたし、肉眼のよくしるところにあらず。かくのごときのものをえたらん、絹布と論ずべからず、糞掃と稱ずべし。たとひ人天の糞掃と生長せるありとも、有情ならじ、糞掃なるべし。たとひ松菊の糞掃と生長せるありとも、非情ならじ、糞掃なるべし。糞掃の絹布にあらず、金銀珠玉にあらざる道理を信受するとき、糞掃現成するなり。絹布の見解いまだ脱落せざれば、糞掃也未夢見在なり。」(6)
- 「諸佛の袈裟の體色量の有量無量、有相無相、あきらめ參學すべし。西天東地、古往今來の祖師、みな參學正傳せるところなり。祖祖正傳のあきらかにしてうたがふところなきを見聞しながら、いたづらにこの祖師に正傳せざらんは、その意樂ゆるしがたからん。愚癡のいたり、不信のゆゑなるべし。實をすてて虚をもとめ、本をすてて末をねがふものなり。これ如來を輕忽したてまつるならん。菩提心をおこさんともがら、かならず祖師の正傳を傳受すべし。われらあひがたき佛法にあひたてまつるのみにあらず、佛袈裟正傳の法孫としてこれを見聞し、學習し、受持することをえたり。すなはちこれ如來をみたてまつるなり。佛説法をきくなり、佛光明にてらさるるなり、佛受用を受用するなり。佛心を單傳するなり、佛髓をえたるなり。まのあたり釋迦牟尼佛の袈裟におほはれたてまつるなり。釋迦牟尼佛まのあたりわれに袈裟をさづけましますなり。ほとけにしたがふたてまつりて、この袈裟はうけたてまつれり。」(7)
- 「その衣財をえんこと、また清淨を善なりとす。いはゆる糞掃衣を最上清淨とす。三世の諸佛、ともにこれを清淨としまします。そのほか、信心檀那の所施の衣、また清淨なり。あるいは淨財をもていちにしてかふ、また清淨なり。作衣の日限ありといへども、いま末法澆季なり、遠方邊邦なり。信心のもよほすところ、裁縫をえて受持せんにはしかじ。」(8)
- 「おほよそ壯士の一彈指のあひだに、六十五の刹那ありて五蘊生滅すれども、凡夫かつて不覺不知なり。怛刹那の量よりは、凡夫もこれをしれり。一日一夜をふるあひだに、六十四億九万九千九百八十の刹那ありて、五蘊ともに生滅す。しかあれども、凡夫かつて覺知せず。覺知せざるがゆゑに菩提心をおこさず。佛法をしらず、佛法を信ぜざるものは、刹那生滅の道理を信ぜざるなり。もし如來の正法眼藏涅槃妙心をあきらむるがごときは、かならずこの刹那生滅の道理を信ずるなり。いまわれら如來の説教にあふたてまつりて、曉了するににたれども、わづかに怛刹那よりこれをしり、その道理しかあるべしと信受するのみなり。世尊所説の一切の法、あきらめずしらざることも、刹那量をしらざるがごとし。學者みだりに貢高することなかれ。極少をしらざるのみにあらず、極大をもまたしらざるなり。もし如來の道力によるときは、衆生また三千界をみる。おほよそ本有より中有にいたり、中有より當本有にいたる、みな一刹那一刹那にうつりゆくなり。かくのごとくして、わがこころにあらず、業にひかれて流轉生死すること、一刹那もとどまらざるなり。かくのごとく流轉生死する身心をもて、たちまちに自未得度先度他の菩提心をおこすべきなり。たとひ發菩提心のみちに身心ををしむとも、生老病死して、つひに我有なるべからず。」(9)
- 「第八勝供養。勝有三。一專設種種供養。二純淨信心、信佛徳重、理合供養。三囘向心。求佛心中而設供養
(第八に勝供養。勝に三有り。一には專ら種種の供養を設く。二には純淨の信心もて、佛徳の重きを信ずれば、理、供養に合ふ。三には囘向心。求佛心中にして而も供養を設く)。」(10)
- 「禪苑清規曰、敬佛法僧否(佛法僧を敬ふや否や)。一百二十門第一
あきらかにしりぬ、西天東土、佛祖正傳するところは、恭敬佛法僧なり。歸依せざれば恭敬せず、恭敬せざれば歸依すべからず。この歸依佛法僧の功徳、かならず感應道交するとき成就するなり。たとひ天上人間、地獄鬼畜なりといへども、感應道交すれば、かならず歸依したてまつるなり。すでに歸依したてまつるがごときは、世世生生、在在處處に増長し、かならず積功累徳し、阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり。おのづから惡友にひかれ、魔障にあふて、しばらく斷善根となり、一闡提となれども、つひには續善根し、その功徳増長するなり。歸依三寶の功徳、つひに不朽なり。
その歸依三寶とは、まさに淨信をもはらにして、あるいは如來現在世にもあれ、あるいは如來滅後にもあれ、合掌し低頭して、口にとなへていはく、
我某甲、今身より佛身にいたるまで、
歸依佛、歸依法、歸依僧。
歸依佛兩足尊、歸依法離欲尊、歸依僧衆中尊。
歸依佛竟、歸依法竟、歸依僧竟。
はるかに佛果菩提をこころざして、かくのごとく僧那を始發するなり。しかあればすなはち、身心いまも刹那刹那に生滅すといへども、法身かならず長養して、菩提を成就するなり。
いはゆる歸依とは、歸は歸投なり、依は依伏なり。このゆゑに歸依といふ。歸依の相は、たとへば子の父に歸するがごとし。依伏は、たとへば民の王に依するがごとし。いはゆる救濟の言なり。佛はこれ大師なるがゆゑに歸依す、法は良藥なるがゆゑに歸依す、僧は勝友なるがゆゑに歸依す。
問、何故、偏歸此三(何が故にか偏に此の三に歸するや)。
答、以此三種畢竟歸處、能令衆生出離生死、證大菩提故歸(此の三種は畢竟歸處にして、能く衆生をして生死を出離し、大菩提を證せしむるを以ての故に歸す)。」(11)
- 「世尊在世に、二十六億の餓龍、ともに佛所に詣し、みなことごとくあめのごとくなみだをふらして、まうしてまうさく、
唯願哀愍、救濟於我。大悲世尊、我等憶念過去世時、於佛法中雖得出家、備造如是種種惡業。以惡業故、經無量身在三惡道。亦以餘報故、生在龍中受極大苦
(唯願はくは哀愍して、我れを救濟したまへ。大悲世尊、我等過去世の時を憶念するに、佛法の中に於て出家することを得と雖も、備さに是の如くの種種の惡業を造りき。惡業を以ての故に、無量身を經て三惡道に在りき。亦た餘の報を以ての故に、生れて龍の中に在りて極大苦を受く)。
佛告諸龍、汝等今當盡受三歸、一心修善。以此縁故、於賢劫中値最後佛名曰樓至。於彼佛世、罪得除滅
(佛、諸龍に告げたまはく、汝等今當に盡く三歸を受け、一心に善を修すべし。此の縁を以ての故に、賢劫の中に於て最後佛の名を樓至と曰ふに値ひたてまつり、彼の佛の世に於て、罪、除滅することを得べし)。
時諸龍等聞是語已、皆悉至心、盡其形壽、各受三歸
(時に諸龍等、是の語を聞き已りて、皆な悉く至心に、其の形壽を盡すまで、各三歸を受けたり)。
ほとけみづから諸龍を救濟しましますに、餘法なし、餘術なし。ただ三歸をさづけまします。過去世に出家せしとき、かつて三歸をうけたりといへども、業報によりて餓龍となれるとき、餘法のこれをすくふべきなし。このゆゑに三歸をさづけまします。しるべし、三歸の功徳、それ最尊最上、甚深不可思議なりといふこと。世尊すでに證明しまします、衆生まさに信受すべし。十方の諸佛の各號を稱念せしめましまさず、ただ三歸をさづけまします。佛意の甚深なる、たれかこれを測量せん。いまの衆生、いたづらに各各の一佛の名號を稱念せんよりは、すみやかに三歸をうけたてまつるべし。愚闇にして大功徳をむなしくすることなかれ。」(12)
- 「世尊一日、外道來詣佛所問佛、不問有言、不問無言
(世尊一日、外道、佛の所に來詣りて佛に問ひたてまつらく、有言を問はず、無言を問はず)。
世尊據坐良久
(世尊、據坐良久したまふ)。
外道禮拜讃歎云、善哉世尊、大慈大悲、開我迷雲、令我得入
(外道、禮拜し讃歎して云く、善哉世尊、大慈大悲、我が迷雲を開き、我れをして得入せしめたまへり)。
乃作禮而去(乃ち作禮して去りぬ)。
外道去了、阿難尋白佛言、外道以何所得、而言得入、稱讃而去
(外道去り了りて、阿難、尋いで佛に白して言さく、外道何の所得を以てか、而も得入すと言ひ、稱讃して去るや)。
世尊云、如世間良馬、見鞭影而行
(世間の良馬の、鞭影を見て行くが如し)。
祖師西來よりのち、いまにいたるまで、諸善知識おほくこの因縁を擧して參學のともがらにしめすに、あるいは年載をかさね、あるいは日月をかさねて、ままに開明し、佛法に信入するものあり。これを外道問佛話と稱ず。しるべし、世尊に聖默聖説の二種の施設まします。これによりて得入するもの、みな如世間良馬見鞭影而行なり。聖默聖説にあらざる施設によりて得入するも、またかくのごとし。」(13)
- 「一百八法明門者何(一百八法明門とは何ぞや)。
正信是れ法明門なり、堅牢の心を破せざるが故に。
淨心是れ法明門なり、濁穢なきが故に。
歡喜是れ法明門なり、安穩心の故に。
愛樂是れ法明門なり、心をして清淨ならしむるが故に。
(1番目、中略)
信解是れ法明門なり、第一義を決了するが故に。(37番目、中略)
信根是れ法明門なり、他の語に隨はざるが故に。(57番目)
信力是れ法明門なり、諸の魔の力に過ぐるが故に。(62番目)
正信是れ法明門なり、最勝の佛法を得るが故に。(84番目)
」(14)
- 「いまのともがら、あきらかに信ずべし、佛法の振旦に正傳せることは、ただひとへに二祖の參學力なり。初祖たとひ西來せりとも、二祖をえずは佛法つたはれざらん。二祖もし佛法をつたへずは、東地いまに佛法なからん。おほよそ二祖は餘輩に群すべからず。
傳燈録云、僧神光者、曠達之士也。久居伊洛、博覽群書、善談玄理(傳燈録云く、僧神光といふものあり、曠達の士也。久しく伊洛に居して群書を博覽せり、善く玄理を談ず)。
むかし二祖の群書を博覽すると、いまの人の書卷をみると、はるかにことなるべし。得法傳衣ののちも、むかしわれ孔老之教、禮術風規とおもふしは誤りなりとしめすことばなし。しるべし、二祖すでに孔老は佛法にあらずと通達せり。いまの遠孫、なにとしてか祖父に違背して佛法と一致なりといふや。まさにしるべし、これ邪説なり。二祖の遠孫にあらずは、正受等が説、たれかもちゐん。二祖の兒孫たるべくは、三教一致といふことなかれ。」(15)
(注)
- (1)「出家功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、270頁。
- (2)同上、272頁。
- (3)同上、286頁。
- (4)「袈裟功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、306頁。
- (5)同上、306頁。
- (6)同上、308頁。
- (7)同上、310頁。
- (8)同上、322頁。
- (9)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、336頁。
- (10)「供養諸仏」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、369頁。
- (11)「帰依仏法僧宝」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、372頁。
- (12)「帰依仏法僧宝」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、377頁。
- (13)「四馬」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、413頁。
- (14)「一百八法明門」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、442-445頁。
- (15)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、435頁。
(B)生死即涅槃
- 「諸經かくのごときのところおほし、如來世尊調御丈夫またしかあり。四種の法をもて、一切衆生を調伏して、必定不虚なり。いはゆる生を爲説するにすなはち佛語をうくるあり、生、老を爲説するに佛語をうくるあり、生、老、病を爲説するに佛語をうくるあり、生、老、病、死を爲説するに佛語をうくるあり。のちの三をきくもの、いまだはじめの一をはなれず。世間の調馬の、觸毛をはなれて觸皮肉骨あらざるがごとし。生老病死を爲説すといふは、如來世尊の生老病死を爲説しまします、衆生をして生老病死をはなれしめんがためにあらず。生老病死すなはち道ととかず、生老病死すなはち道なりと解せしめんがためにとくにあらず。この生老病死を爲説するによりて、一切衆生をして阿耨多羅三藐三菩提の法をえしめんがためなり。これ如來世尊、調伏衆生、必定不虚、是故號佛調御丈夫なり。」(1)
(注)
- (1)「四馬」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、418頁。
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