もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
正師、得法の師、善知識=十二巻「正法眼蔵」
正師、善知識、善友
「正法眼蔵」
- 「如來般涅槃時、迦葉菩薩、白佛言、世尊、如來具足知諸根力、定知善星當斷善根。以何因縁、聽其出家(如來般涅槃したまひし時、迦葉菩薩、佛に白して言さく、世尊、如來は諸の根を知る力を具足したまふ、定んで善星當に善根を斷ずべきを知りたまひしならん。何の因縁を以てか、其の出家を聽したまひしや)。
佛言、善男子、我於往昔、初出家時、吾弟難陀、從弟阿難、調達多、子羅@羅、如是等輩、皆悉隨我出家修道。我若不聽善星出家、其人次當王得紹王位、其力自在、當壞佛法。以是因縁、我便聽其出家修道(佛言はく、善男子、我れ往昔に於て、初めて出家せし時、吾が弟難陀、從弟阿難、調達多、子羅@羅、是の如き等の輩、皆な悉く我に隨つて出家修道せり。我れ若し善星が出家を聽さずは、其の人次に當に王として王位を紹ぐことを得て、其の力自在にして、當に佛法を壞るべし。是の因縁を以て、我れ便ち其の出家修道を聽しき)。
善男子、善星比丘、若不出家、亦斷善根、於無量世、都無利益。令出家已、雖斷善根、能受持戒、供養恭敬耆舊、長宿、有徳之人、修習初禪乃至四禪。是名善因。如是善因、能生善法。善法既生、能修習道。既修習道、當得阿耨多羅三藐三菩提。是故我聽善星出家。善男子、若我不聽善星比丘出家受戒、則不得稱我爲如來具足十力
(善男子、善星比丘若し出家せざるも、亦た善根を斷じ、無量世に於て都て利益無けん。出家せしめ已りぬれば、善根を斷ずと雖も、能く戒を受持し、耆舊、長宿、有徳の人を供養し恭敬し、初禪乃至四禪を修習す。是れを善因と名づく。是の如くの善因は、能く善法を生ず。善法既に生じぬれば、能く道を修習す。既に道を修習しぬれば、當に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。是の故に我れ善星が出家を聽しき。善男子、若し我れ善星比丘が出家受戒を聽さずは、則ち我れを稱して如來具足十力と爲すこと得じ)。
善男子、佛觀衆生、具足善法及不善法。是人雖具如是二法、不久能斷一切善根、具不善根。何以故、如是衆生、不親善友、不聽正法、不善思惟、不如法行。以是因縁、能斷善根、具不善根
(善男子、佛、衆生を觀じたまふに、善法と及び不善法とを具足す。是の人是の如くの二法を具すと雖も、久しからずして能く一切善根を斷じて不善根を具せん。何を以ての故に、是の如くの衆生は、善友に親しまず、正法を聽かず、善思惟せず、如法に行せず。是の因縁を以て、能く善根を斷じて不善根を具す)。
しるべし、如來世尊、あきらかに衆生の斷善根となるべきをしらせたまふといへども、善因をさづくるとして出家をゆるさせたまふ、大慈大悲なり。斷善根となること、善友にちかづかず、正法をきかず、善思惟せず、如法に行ぜざるによれり。いま學者、かならず善友に親近すべし、善友とは、諸佛ましますととくなり、罪福ありとをしふるなり。因果を撥無せざるを善友とし、善知識とす。この人の所説、これ正法なり。この道理を思惟する、善思惟なり。かくのごとく行ずる、如法行なるべし。
しかあればすなはち、衆生は親疎をえらばず、ただ出家受戒をすすむべし。のちの退不退をかへりみざれ、修不修をおそるることなかれ。これまさに釋尊の正法なるべし。」(1)
- 「この佛衣佛法の功徳、その傳佛正法の祖師にあらざれば、餘輩いまだあきらめず、しらず。諸佛のあとを欣求すべくは、まさにこれを欣樂すべし。たとひ百千萬代ののちも、この正傳を正傳とすべし。これ佛法なるべし、證驗まさにあらたならん。水を乳に入るるに相似すべからず。皇太子の帝位に即位するがごとし。かの合水の乳なりとも、乳をもちゐん時は、この乳のほかにさらに乳なからんには、これをもちゐるべし。たとひ水と合せずとも、あぶらをもちゐるべからず、うるしをもちゐるべからず、さけをもちゐるべからず。この正傳もまたかくのごとくならん。たとひ凡師の庸流なりとも、正傳あらんは用乳のよろしきときなるべし。いはんや佛佛祖祖の正傳は、皇太子の即位のごとくなるなり。俗なほいはく、先王の法服にあらざれば服せず。佛子いづくんぞ佛衣にあらざらんを著せん。後漢孝明皇帝、永平十年よりのち、西天東地に往還する出家在家、くびすをつぎてたえずといへども、西天にして佛佛祖祖正傳の祖師にあふといはず。如來より面授相承の系譜なし。ただ經論師にしたがうて、梵本の經教を傳來せるなり。佛法正嫡の祖師にあふといはず、佛袈裟相傳の祖師ありとかたらず。あきらかにしりぬ、佛法の@奥にいらざりけりといふことを。かくのごときのひと、佛祖正傳のむね、あきらめざるなり。」(2)
- 「おほよそ、佛佛祖祖相傳の袈裟の功徳、あきらかにして信受しやすし。正傳まさしく相承せり。本樣まのあたりつたはれり、いまに現在せり。受持しあひ嗣法していまにいたる。受持せる祖師、ともにこれ證契傳法の師資なり。」(3)
- 「もし菩提心をおこさん人、いそぎ袈裟を受持頂戴すべし。この好世にあふて佛種をうゑざらん、かなしむべし。南州の人身をうけて、釋迦牟尼佛の法にあふたてまつり、佛法嫡嫡の祖師にむまれあひ、單傳直指の袈裟をうけたてまつりぬべきを、むなしくすごさん、かなしむべし。
いま袈裟正傳は、ひとり祖師正傳これ正嫡なり、餘師の肩をひとしくすべきにあらず。相承なき師にしたがふて袈裟を受持する、なほ功徳甚深なり。いはんや嫡嫡面授しきたれる正師に受持せん、まさしき如來の法子法孫ならん。まさに如來の皮肉骨髓を正傳せるなるべし。おほよそ袈裟は、三世十方の諸佛正傳しきたれること、いまだ斷絶せず。三世十方の諸佛菩薩、聲聞縁覺、おなじく護持しきたれるところなり。」(4)
- 「菩薩の初心のとき、菩提心を退轉すること、おほくは正師にあはざるによる。正師にあはざれば正法をきかず、正法をきかざればおそらくは因果を撥無し、解脱を撥無し、三寶を撥無し、三世等の諸法を撥無す。いたづらに現在の五欲に貪著して、前途菩提の功徳を失す。
あるいは天魔波旬等、行者をさまたげんがために、佛形に化し、父母師匠、乃至親族諸天等のかたちを現じて、きたりちかづきて、菩薩にむかひてこしらへすすめていはく、佛道長遠、久受諸苦、もともうれふべし。しかじ、まづわれ生死を解脱し、のちに衆生をわたさんには。行者このかたらひをききて、菩提心を退し、菩薩の行を退す。まさにしるべし、かくのごとくの説すなはちこれ魔説なり、菩薩しりてしたがふことなかれ。もはら自未得度先度他の行願を退轉せざるべし。自未得度先度他の行願にそむかんがごときは、これ魔説としるべし、外道説としるべし、惡友説としるべし。さらにしたがふことなかれ。」(5)
- 「龍樹祖師云、如外道人、破世間因果、則無今世後世。破出世因果、則無三寶、四諦、四沙門果(龍樹祖師云く、外道の人の如く、世間の因果を破せば、則ち今世後世無けん。出世の因果を破せば、則ち三寶、四諦、四沙門果無けん)。
あきらかにしるべし、世間出世の因果を破するは外道なるべし。今世なしといふは、かたちはこのところにあれども、性はひさしくさとりに歸せり、性すなはち心なり、心は身とひとしからざるゆゑに。かくのごとく解する、すなはち外道なり。あるいはいはく、人死するとき、かならず性海に歸す、佛法を修習せざれども、自然に覺海に歸すれば、さらに生死の輪轉なし。このゆゑに後世なしといふ。これ斷見の外道なり。かたちたとひ比丘にあひにたりとも、かくのごとくの邪解あらんともがら、さらに佛弟子にあらず。まさしくこれ外道なり。おほよそ因果を撥無するより、今世後世なしとはあやまるなり。因果を撥無することは、眞の知識に參學せざるによりてなり。眞知識に久參するがごときは、撥無因果等の邪解あるべからず。龍樹祖師の慈誨、深く信仰したてまつり、頂戴したてまつるべし。」(6)
- 「おほよそこの因縁に、頌古、拈古のともがら三十餘人あり。一人としても、不落因果是れ撥無因果なりと疑ふものなし。あはれむべし。このともがら、因果をあきらめず、いたづらに紛紜のなかに一生をむなしくせり。佛法參學には、第一因果をあきらむるなり。因果を撥無するがごときは、おそらくは猛利の邪見おこして、斷善根とならんことを。
おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造惡のものは墮し、修善のものはのぼる、毫釐もたがはざるなり。もし因果亡じ、むなしからんがごときは、諸佛の出世あるべからず、祖師の西來あるべからず、おほよそ衆生の見佛聞法あるべからざるなり。因果の道理は、孔子、老子等のあきらむるところにあらず。ただ佛佛祖祖、あきらめつたへましますところなり。澆季の學者、薄福にして正師にあはず、正法をきかず、このゆゑに因果をあきらめざるなり。撥無因果すれば、このとがによりて、@@(もうもう)蕩蕩として殃禍をうくるなり。撥無因果のほかに餘惡いまだつくらずといふとも、まづこの見毒はなはだしきなり。
しかあればすなはち、參學のともがら、菩提心をさきとして、佛祖の洪恩を報ずべくは、すみやかに諸因諸果をあきらむべし。」(7)
- 「龍樹祖師曰、爲人説句、如快馬見鞭影、即入正路(人の爲に句を説くに、快馬の鞭影を見て、即ち正路に入るが如し)。
あらゆる機縁、あるいは生不生の法をきき、三乘一乘の法をきく、しばしば邪路におもむかんとすれども、鞭影しきりにみゆるがごときは、すなはち正路にいるなり。もし師にしたがひ、人にあひぬるがごときは、ところとして説句にあらざることなし、ときとして鞭影をみずといふことなきなり。即坐に鞭影をみるもの、三阿僧祇をへて鞭影をみるものあり、無量劫を經て鞭影をみ、正路にいることをうるなり。」(8)
- 「雜阿含經曰、佛告比丘、有四種馬、一者見鞭影、即便驚悚隨御者意。二者觸毛、便驚悚隨御者意。三者觸肉、然後乃驚。四者徹骨、然後方覺。初馬如聞他聚落無常、即能生厭。次馬如聞己聚落無常、即能生厭。三馬如聞己親無常、即能生厭。四馬猶如己身病苦、方能生厭
(雜阿含經に曰く、佛、比丘に告ぐ、四種の馬有り、一には鞭影を見て、即便ち驚悚して御者の意に隨ふ。二には毛に觸るるに、便ち驚悚して、御者の意に隨ふ。三には肉に觸れて、然して後に乃ち驚く。四には骨に徹して、然る後に方に覺る。初めの馬は、他の聚落の無常を聞きて、即ち能く厭を生ずるが如し。次の馬は、己が聚落の無常を聞きて、即ち能く厭を生ずるが如し。三の馬は、己が親の無常を聞きて、即ち能く厭を生ずるが如し。四の馬は、猶ほ己が身の病苦によりて、方に能く厭を生ずるが如し)。
これ阿含の四馬なり。佛法を參學するとき、かならず學するところなり。眞善知識として人中天上に出現し、ほとけのつかひとして祖師なるは、かならずこれを參學しきたりて、學者のために傳授するなり。しらざるは人天の善知識にあらず。學者もし厚殖善根の衆生にして、佛道ちかきものは、かならずこれをきくことをうるなり。佛道とほきものは、きかず、しらず。
しかあればすなはち、師匠いそぎとかんことをおもふべし、弟子いそぎきかんとこひねがふべし。」(9)
- 「いま生厭といふは、
佛以一音演説法(佛、一音を以て法を演説したまふに)、
衆生隨類各得解(衆生、類に隨つて各解を得)。
或有恐怖或歡喜(或いは恐怖する有り、或いは歡喜し)、
或生厭離或斷疑(或いは厭離を生じ、或いは疑ひを斷ず)。
なり。
大經曰、佛言、復次善男子、如調馬者、凡有四種。一者觸毛、二者觸皮、三者觸肉、四者觸骨。隨其所觸、稱御者意。如來亦爾、以四種法、調伏衆生。一爲説生、便受佛語。如觸其毛隨御者意。二説生老、便受佛語。如觸毛皮、隨御者意。三者説生及以老病、便受佛語。如觸毛皮肉隨御者意。四者説生及老病死、便受佛語。如觸毛皮肉骨、隨御者意。
(大經に曰く、佛言はく、復た次に善男子、調馬者の如き、凡さ四種有り。一つには觸毛、二つには觸皮、三つには觸肉、四つには觸骨なり。其の觸るる所に隨つて、御者の意に稱ふ。如來も亦た爾なり、四種の法を以て、衆生を調伏したまふ。一つには爲に生を説きたまふに、便ち佛語を受く。其の毛に觸るれば御者の意に隨ふが如し。二つには生、老を説きたまふに、便ち佛語を受く。毛、皮に觸るれば御者の意に隨ふが如し。三つには生及以び老、病を説きたまふに便ち佛語を受く。毛、皮、肉に觸るれば御者の意に隨ふが如し。四つには生及び老、病、死を説きたまふに、便ち佛語を受く。毛、皮、肉、骨に觸るれば御者の意に隨ふが如し)。
善男子、御者調馬、無有決定。如來世尊、調伏衆生、必定不虚。是故號佛調御丈夫(善男子、御者の馬を調ふること、決定有ること無し。如來世尊、衆生を調伏したまふこと、必定して虚しからず。是の故に佛を調御丈夫と號く)。
これを涅槃經の四馬となづく。學者ならはざるなし、諸佛ときたまはざるおはしまさず。ほとけにしたがひたてまつりてこれをきく、ほとけをみたてまつり、供養したてまつるごとには、かならず聽聞し、佛法を傳授するごとには、衆生のためにこれをとくこと、歴劫におこたらず。つひに佛果にいたりて、はじめ初發心のときのごとく、菩薩聲聞、人天大會のためにこれをとく。このゆゑに、佛法僧寶種不斷なり。
かくのごとくなるがゆゑに、諸佛の所説と菩薩の所説と、はるかにことなり。しるべし、調馬師の法におほよそ四種あり。いはゆる觸毛、觸皮、觸肉、觸骨なり。これなにものを觸毛せしむるとみえざれども、傳法の大士おもはくは、鞭なるべしと解す。しかあれども、かならずしも調馬の法に鞭をもちゐるもあり、鞭をもちゐざるもあり。調馬かならず鞭のみにはかぎるべからず。たてるたけ八尺なる、これを龍馬とす。このむまととのふること、人間にすくなし。また千里馬といふむまあり、一日のうちに千里をゆく。このむま五百里をゆくあひだ、血汗をながす、五百里すぎぬれば、清涼にしてはやし、このむまにのる人すくなし。ととのふる法、しれるものすくなし。このむま、神丹國にはなし、外國にあり。このむま、おのおのしきりに鞭を加すとみえず。
しかあれども、古徳いはく、調馬かならず鞭を加す。鞭にあらざればむまととのほらず。これ調馬の法なり。いま觸毛皮肉骨の四法あり、毛をのぞきて皮に觸することあるべからず。毛、皮をのぞきて肉、骨に觸すべからず。かるがゆゑにしりぬ、これ鞭を加すべきなり。いまここにとかざるは文の不足なり。
諸經かくのごときのところおほし、如來世尊調御丈夫またしかあり。四種の法をもて、一切衆生を調伏して、必定不虚なり。いはゆる生を爲説するにすなはち佛語をうくるあり、生、老を爲説するに佛語をうくるあり、生、老、病を爲説するに佛語をうくるあり、生、老、病、死を爲説するに佛語をうくるあり。のちの三をきくもの、いまだはじめの一をはなれず。世間の調馬の、觸毛をはなれて觸皮肉骨あらざるがごとし。生老病死を爲説すといふは、如來世尊の生老病死を爲説しまします、衆生をして生老病死をはなれしめんがためにあらず。生老病死すなはち道ととかず、生老病死すなはち道なりと解せしめんがためにとくにあらず。この生老病死を爲説するによりて、一切衆生をして阿耨多羅三藐三菩提の法をえしめんがためなり。これ如來世尊、調伏衆生、必定不虚、是故號佛調御丈夫なり。」(10)
- 「この比丘を稱じて四禪比丘といふ、または無聞比丘と稱ず。四禪をえたるを四果と僻計せることをいましめ、また謗佛の邪見をいましむ。人天大會みなしれり。如來在世より今日にいたるまで、西天東地ともに是にあらざるを是と執せるをいましむとして、四禪をえて四果とおもふがごとしとあざける。
この比丘の不是、しばらく略して擧するに三種あり。第一には、みづから四禪と四果とを分別するにおよばざる無聞の身ながら、いたづらに師をはなれて、むなしく阿蘭若に獨處す。さいはひにこれ如來在世なり、つねに佛所に詣して、常恆に見佛聞法せば、かくのごとくのあやまりあるべからず。しかあるに、阿蘭若に獨處して佛所に詣せず、つねに見佛聞法せざるによりてかくのごとし。たとひ佛所に詣せずといふとも、諸大阿羅漢の處にいたりて、教訓を請ずべし。いたづらに獨處する、増上慢のあやまりなり。第二には、初禪をえて初果とおもひ、二禪をえて第二果とおもひ、三禪をえて第三果とおもひ、四禪をえて第四果とおもふ、第二のあやまりなり。初二三四禪の相と、初二三四果の相と、比類に及ばず。たとふることあらんや。これ無聞のとがによれり。師につかへず、くらきによれるとがなり。」(11)
- 「いまこの説によらば、いよいよ佛法と孔老とことなるべし。すでにこれ菩薩なり、佛果にひとしかるべからず。また和光應迹の功徳は、ひとり三世諸佛菩薩の法なり。俗人凡夫の所能にあらず、實業の凡夫、いかでか應迹に自在あらん。孔老いまだ應迹の説なし、いはんや孔老は、先因をしらず、當果をとかず。わづかに一世の忠をもて、君につかへ家ををさむる術をむねとせり、さらに後世の説なし。すでにこれ斷見の流類なるべし。莊老をきらふに、小乘なほしらず、いはんや大乘をやといふは上古の明師なり。三教一致といふは智圓、正受なり、後代澆季愚闇の凡夫なり。なんぢなんの勝出あればか、上古の先徳の所説をさみして、みだりに孔老と佛法とひとしかるべしといふ。なんだちが所見、すべて佛法の通塞を論ずるにたらず。負笈して明師に參學すべし、智圓、正受、なんぢら大小兩乘すべていまだしらざるなり。四禪をえて四果とおもふよりもくらし。悲しむべし、澆風のあふぐところ、かくのごとくの魔子おほかることを。」(12)
- 「七者修智惠。起聞思修證爲智惠(七つには修智惠。聞思修證を起すを智惠と爲す)。
佛言、汝等比丘、若有智惠則無貪著、常自省察不令有失。是則於我法中能得解脱。若不爾者、既非道人、又非白衣、無所名也。實智惠者則是度老病死海堅牢船也、亦是無明黒暗大明燈也、一切病者之良藥也、伐煩惱樹之利斧也。是故汝等當以聞思修慧、而自増益。若人有智惠之照、雖是肉眼、而是明眼人也。是爲智惠(佛言はく、汝等比丘、若し智惠有れば則ち貪著無し、常に自ら省察して失有らしめず。是れ則ち我が法の中に於て能く解脱を得。若し爾らずは、既に道人に非ず、又白衣に非ず、名づくる所なし。實智惠は則ち是れ老病死海を度る堅牢の船なり、亦た是れ無明黒暗の大明燈なり、一切病者の良藥なり、煩惱の樹を伐る利斧なり。是の故に汝等當に聞思修慧を以て而も自ら増益すべし。若し人智惠の照あらば、是れ肉眼なりと雖も、而も是れ明眼の人なり。是れを智惠と爲す)。
(中略)
これすなはち一百八法明門なり。一切の一生所繋の菩薩、都史多天より閻浮提に下生せんとするとき、かならずこの一百八法明門を、都史多天の衆のために敷揚して、諸天を化するは、諸佛の常法なり。
護明菩薩とは、釋迦牟尼佛、一生補處として第四天にましますときの名なり。李附馬、天聖廣燈録を撰するに、この一百八法明門の名字をのせたり。參學のともがら、あきらめしれるはすくなく、しらざるは稻麻竹葦のごとし。いま初心晩學のともがらのためにこれを撰す。師子の座にのぼり、人天の師となれらんともがら、審細參學すべし。この都史多天に一生所繋として住せざれば、さらに諸佛にあらざるなり。行者みだりに我慢することなかれ、一生所繋の菩薩は中有なし。」(13)
(注)
- (1)「出家功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、287頁。@=目偏に侯(ご)
- (2)「袈裟功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、303頁。@= 門構に困(こん)
- (3)同上、306頁。
- (4)同上、318頁。
- (5)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、340頁。
- (6)「深信因果」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、391頁。
- (7)「深信因果」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、392頁。
@=さんずいに莽(もう)
- (8)「四馬」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、414頁。
- (9)「四馬」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、414頁。
- (10)「四馬」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、414頁。
- (11)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、419頁。
- (12)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、428頁。
- (13)「一百八法明門」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、450頁および456頁。
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