もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
無常を観ずる=十二巻「正法眼蔵」
無常を観ずる
十二巻本「正法眼蔵」
- 「第四優婆@多尊者、有長者子、名曰提多伽。來禮尊者、志求出家
(第四優婆@多尊者、長者子有り、名を提多伽と曰ふ。來りて尊者を禮し、出家を志求せり)。
尊者曰、汝身出家耶、心出家
(汝、身の出家なりや、心の出家なりや)。
答曰、我來出家、非爲身心
(我れ來りて出家する、身心の爲にあらず)。
尊者曰、不爲身心、復誰出家
(身心の爲にあらずは、復た誰か出家する)。
答曰、夫出家者、無我我所故、即心不生滅、心不生滅故、即是常道。諸佛亦常心無形相、其躰亦然
(夫れ出家は、我と我所と無きが故に、即ち心、生滅せず。心、生滅せざる故に、即ち是れ常道なり。諸佛も亦た常に心、形相無く、其の躰も亦た然り)。
尊者曰、汝當大悟心自通達。宜依佛法僧紹髏ケ種
(汝當に大悟して心、自ら通達すべし。宜しく佛法僧に依りて聖種を紹驍キべし)。
即與出家受具
(即ち與に出家受具せしめたり)。
それ諸佛の法にあふたてまつりて出家するは、最第一の勝果報なり。その法すなはち我のためにあらず、我所のためにあらず。身心のためにあらず、身心の出家するにあらず。出家の我我所にあらざる道理かくのごとし。我我所にあらざれば諸佛の法なるべし。ただこれ諸佛の常法なり。諸佛の常法なるがゆゑに、我我所にあらず、身心にあらざるなり。三界のかたをひとしくするところにあらず。かくのごとくなるがゆゑに、出家これ最上の法なり。頓にあらず、漸にあらず。常にあらず、無常にあらず。來にあらず、去にあらず。住にあらず、作にあらず。廣にあらず、狹にあらず。大にあらず、小にあらず、無作にあらず。佛法單傳の祖師、かならず出家受戒せずといふことなし。いまの提多伽、はじめて優婆@多尊者にあふたてまつりて出家をもとむる道理かくのごとし。出家受具し、優婆@多に參學し、つひに第五祖師となれり。」(1)
- 「おほよそ壯士の一彈指のあひだに、六十五の刹那ありて五蘊生滅すれども、凡夫かつて不覺不知なり。怛刹那の量よりは、凡夫もこれをしれり。一日一夜をふるあひだに、六十四億九万九千九百八十の刹那ありて、五蘊ともに生滅す。しかあれども、凡夫かつて覺知せず。覺知せざるがゆゑに菩提心をおこさず。佛法をしらず、佛法を信ぜざるものは、刹那生滅の道理を信ぜざるなり。もし如來の正法眼藏涅槃妙心をあきらむるがごときは、かならずこの刹那生滅の道理を信ずるなり。いまわれら如來の説教にあふたてまつりて、曉了するににたれども、わづかに怛刹那よりこれをしり、その道理しかあるべしと信受するのみなり。世尊所説の一切の法、あきらめずしらざることも、刹那量をしらざるがごとし。學者みだりに貢高することなかれ。極少をしらざるのみにあらず、極大をもまたしらざるなり。もし如來の道力によるときは、衆生また三千界をみる。おほよそ本有より中有にいたり、中有より當本有にいたる、みな一刹那一刹那にうつりゆくなり。かくのごとくして、わがこころにあらず、業にひかれて流轉生死すること、一刹那もとどまらざるなり。かくのごとく流轉生死する身心をもて、たちまちに自未得度先度他の菩提心をおこすべきなり。たとひ發菩提心のみちに身心ををしむとも、生老病死して、つひに我有なるべからず。」(2)
- 「衆生の壽行生滅してとどまらず、すみやかなること、
世尊在世有一比丘、來詣佛所、頂禮雙足、却住一面、白世尊言、衆生壽行、云何速疾生滅
(世尊在世に一比丘有り、佛の所に來詣りて、雙足を頂禮し、却つて一面に住して、世尊に白して言さく、衆生の壽行、云何が速疾に生滅する)。
佛言、我能宣説、汝不能知
(我れ能く宣説するも、汝知ること能はじ)。
比丘言、頗有譬喩能顯示不
(頗る譬喩の能く顯示しつべき有りや不や)。
佛言、有、今爲汝説。譬如四善射夫、各執弓箭、相背攅立、欲射四方、有一捷夫、來語之、曰汝等今可一時放箭、我能遍接、倶令不墮。於意云何、此捷疾不
(佛言く、有り、今汝が爲に説かん。譬へば四の善射夫、各弓箭を執り、相背きて攅り立ちて、四方を射んと欲んに、一の捷夫有りて、來りて之に語げて、汝等今一時に箭を放つべし、我れ能く遍く接りて、倶に墮せざらしめんと曰はんが如し。意に於て云何、此れは捷疾なりや不や)。
比丘白佛、其疾、世尊
(比丘、佛に白さく、其だ疾し、世尊)。
佛言、彼人捷疾、不及地行夜叉。地行夜叉捷疾、不及空行夜叉。空行夜叉捷疾、不及四天王天捷疾。彼天捷疾、不及日月二輪捷疾。日月二輪捷疾、不及堅行天子捷疾。此是導引日月輪車者。此等諸天、展轉捷疾。壽行生滅、捷疾於彼。刹那流轉、無有暫停
(佛言く、彼の人の捷疾なること、地行夜叉に及ばず。地行夜叉の捷疾なること、空行夜叉に及ばず。空行夜叉の捷疾なること、四天王天の捷疾なるに及ばず。彼の天の捷疾なること、日月二輪の捷疾なるに及ばず。日月二輪の捷疾なること、堅行天子の捷疾なるに及ばず。此れは是れ日月の輪車を導引する者なり。此等の諸天、展轉して捷疾なり。壽行の生滅は、彼よりも捷疾なり。刹那に流轉し、暫くも停ること有ること無し)。
われらが壽行生滅、刹那流轉捷疾なること、かくのごとし。念念のあひだ、行者この道理をわするることなかれ。この刹那生滅、流轉捷疾にありながら、もし自未得度先度他の一念をおこすごときは、久遠の壽量、たちまちに現在前するなり。三世十方の諸佛、ならびに七佛世尊、および西天二十八祖、東地六祖、乃至傳佛正法眼藏涅槃妙心の祖師、みなともに菩提心を保任せり、いまだ菩提心をおこさざるは祖師にあらず。」(3)
- 「一生補處菩薩、まさに閻浮提にくだらんとするとき、覩史多天の諸天のために、最後の教をほどこすにいはく、菩提心是法明門、不斷三寶故
(菩提心は是れ法明門なり、三寶を斷ぜざるが故に)。
あきらかにしりぬ、三寶の不斷は菩提心のちからなりといふことを。菩提心をおこしてのち、かたく守護し、退轉なかるべし。
佛言、云何菩薩守護一事。謂、菩提心。菩薩摩訶薩、常勤守護是菩提心、猶如世人守護一子。亦如瞎者護餘一目。如行曠野守護導者。菩薩守護菩提心、亦復如是。因護如是菩提心故、得阿耨多羅三藐三菩提。因得阿耨多羅三藐三菩提故、常樂我淨具足而有。即是無上大般涅槃。是故菩薩守護一法
(佛言はく、云何が菩薩一事を守護せん。謂く、菩提心なり。菩薩摩訶薩、常に勤めて是の菩提心を守護すること、猶ほ世人の一子を守護するが如し。亦た瞎者の餘の一目を護るが如し。曠野を行くに、導者を守護するが如し。菩薩の菩提心を守護することも、亦た復た是の如し。是の如くの菩提心を護るに因るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得。阿耨多羅三藐三菩提を得るに因るが故に、常樂我淨具足して有り。即ち是れ無上大般涅槃なり。是の故に菩薩は一法を守護すべし)。
菩提心をまぼらんこと、佛語あきらかにかくのごとし。守護して退轉なからしむるゆゑは、世間の常法にいはく、たとひ生ずれども熟せざるもの三種あり。いはく、魚子、菴羅果、發心菩薩なり。おほよそ退大のものおほきがゆゑに、われも退大とならんことを、かねてよりおそるるなり。このゆゑに菩提心を守護するなり。
菩薩の初心のとき、菩提心を退轉すること、おほくは正師にあはざるによる。正師にあはざれば正法をきかず、正法をきかざればおそらくは因果を撥無し、解脱を撥無し、三寶を撥無し、三世等の諸法を撥無す。いたづらに現在の五欲に貪著して、前途菩提の功徳を失す。
あるいは天魔波旬等、行者をさまたげんがために、佛形に化し、父母師匠、乃至親族諸天等のかたちを現じて、きたりちかづきて、菩薩にむかひてこしらへすすめていはく、佛道長遠、久受諸苦、もともうれふべし。しかじ、まづわれ生死を解脱し、のちに衆生をわたさんには。行者このかたらひをききて、菩提心を退し、菩薩の行を退す。まさにしるべし、かくのごとくの説すなはちこれ魔説なり、菩薩しりてしたがふことなかれ。もはら自未得度先度他の行願を退轉せざるべし。自未得度先度他の行願にそむかんがごときは、これ魔説としるべし、外道説としるべし、惡友説としるべし。さらにしたがふことなかれ。
魔有四種。一煩惱魔、二五衆魔、三死魔、四天子魔(魔に四種有り。一には煩惱魔、二には五衆魔、三には死魔、四には天子魔)。
煩惱魔者、所謂百八煩惱等、分別八萬四千諸煩惱(煩惱魔とは、所謂る百八煩惱等、分別するに八萬四千の諸の煩惱なり)。
五衆魔者、是煩惱和合因縁、得是身。四大及四大造色、眼根等色、是名色衆。百八煩惱等諸受和合、名爲受衆。大小無量所有想、分別和合、名爲想衆。因好醜心發、能起貪欲瞋恚等心、相應不相應法、名爲行衆。六情六塵和合故生六識、是六識分別和合無量無邊心、是名識衆
(五衆魔とは、是れ煩惱和合の因縁にして、是の身を得。四大及び四大の造色、眼根等の色、是れを色衆と名づく。百八煩惱等の諸受和合せるを、名づけて受衆と爲す。大小無量の所有の想、分別和合せるを、名づけて想衆と爲す。好醜の心發るに因つて、能く貪欲瞋恚等の心、相應不相應の法を起すを、名づけて行衆と爲す。六情六塵和合するが故に六識を生ず、是の六識分別和合すれば無量無邊の心あり、是れを識衆と名づく)。
死魔者、無常因縁故、破相續五衆壽命、盡離三法識熱壽故、名爲死魔
(死魔とは、無常因縁の故に、相續せる五衆の壽命を破り、三法なる識熱壽を盡離するが故に、名づけて死魔と爲す)。
天子魔者、欲界主、深著世樂、用有所得故生邪見、憎嫉一切賢聖、涅槃道法。是名天子魔
(天子魔とは、欲界の主として、深く世樂に著し、有所得を用ての故に邪見を生じ、一切賢聖、涅槃の道法を憎嫉す。是れを天子魔と名づく)。
魔是天竺語、秦言能奪命者。雖死魔實能奪命、餘者亦能作奪命因縁、亦奪智惠命。是故名殺者
(魔は是れ天竺の語、秦には能奪命者と言ふ。死魔は實に能く命を奪ふと雖も、餘の者も亦た能く奪命の因縁を作し、亦た智惠の命を奪ふ。是の故に殺者と名づく)。
問曰、一五衆魔接三種魔、何以故別説四
(一の五衆魔に三種の魔を接す、何を以ての故に別にして四と説くや)。
答曰、實是一魔、分別其義故有四
(實に是れ一魔なり、其の義を分別するが故に四有り)。
上來これ龍樹祖師の施設なり、行者しりて勤學すべし。いたづらに魔@(にょう)をかうぶりて、菩提心を退轉せざれ、これ守護菩提心なり。」(4)
- 「
無常觀是れ法明門なり、三界の慾を觀ずるが故に。
苦觀是れ法明門なり、一切の願を斷ずるが故に。
無我觀是れ法明門なり、我に染著せざるが故に。」(5)
(注)
- (1)「出家功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、283頁。@=毛偏の掬(きく)
- (2)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、336頁。
- (3)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、337頁。(2)の続き。
- (4)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、339頁。@=女偏に尭(にょう)
- (5)「一百八法明門」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、450頁。
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