もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
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仏教学・禅学の批判
悟道してもさらに修行して「ほとけ」になるー十二巻「正法眼蔵」
道元禅師は悟道を強調する。道元禅師が引用するように、初期仏教でも同じである。だが、悟道、解脱すれば、それだけでいいとは、インド仏教でも、道元禅師でも言わない。中国では、見性したら仏になったという思想に変質した。それで、見性さえすれば成就として慢心し、人々を救わない口実とし、堕落した。
現代の禅は、変質した中国禅の影響(堕落、後退している)を受けている。
自分の悟道だけで、他者を救済しないのは、ほとけではない。救済の悲願と救済の能力に欠ける。それは仏ではない。さらに、慈悲の願いと能力を得る修行が必要である。それが、大乗仏教である。道元の仏道である。これは、大乗仏教と道元の「階位」の思想を検討すれば、明確である。
特に大乗仏教、道元禅師は、悟道の後、衆生を救いながらの向上を強調した。
ここでは、悟道のそのはるか先の、「ほとけ」になるまでの「ほとけ」「仏果」をさしていると思われる語を集める。
阿耨多羅三藐三菩提の一部は、悟道によって、証得されるとするので、悟道と仏果とを区別しにくいが、一応、後者と思われるものをここに集める。
(B)仏になる
「正法眼蔵」
- 「しかあればすなはち、佛祖正傳の作袈裟の法によりて作法すべし。ひとりこれ正傳なるがゆゑに。凡聖人天龍神、みなひさしく證知しきたれるところなり。この法の流布にむまれあひて、ひとたび袈裟を身體におほひ、刹那須臾も受持せん、すなはちこれ決定成無上菩提の護身符子ならん。一句一偈を身心にそめん、長劫光明の種子として、つひに無上菩提にいたる。一法一善を身心にそめん、亦復如是なるべし。心念も刹那生滅し無所住なり、身體も刹那生滅し無所住なりといへども、所修の功徳、かならず熟脱のときあり。袈裟また作にあらず無作にあらず、有所住にあらず無所住にあらず、唯佛與佛の究盡するところなりといへども、受持する行者、その所得の功徳、かならず成就するなり、かならず究竟するなり。もし宿善なきものは、一生二生乃至無量生を經歴すといふとも、袈裟をみるべからず、袈裟を著すべからず、袈裟を信受すべからず、袈裟をあきらめしるべからず。いま震旦國日本國をみるに、袈裟をひとたび身體に著することうるものあり、えざるものあり。貴賎によらず、愚智によらず。はかりしりぬ、宿善によれりといふこと。」(1)
- 「佛言、
若無過去世(若し過去世無くんば)、
應無過去佛(應に過去佛無かるべし)。
若無過去佛(若し過去佛無くんば)、
無出家受具(出家受具無けん)。
あきらかにしるべし、三世にかならず諸佛ましますなり。しばらく過去の諸佛におきて、そのはじめありといふことなかれ、そのはじめなしといふことなかれ。もし始終の有無を邪計せば、さらに佛法の習學にあらず。過去の諸佛を供養したてまつり、出家し、隨順したてまつるがごとき、かならず諸佛となるなり。供佛の功徳によりて作佛するなり。いまだかつて一佛をも供養したてまつらざる衆生、なにによりてか作佛することあらん。無因作佛あるべからず。」(2)
- 「これひとり龍樹祖師菩薩の所説といふとも、歸命したてまつるべし。いかにいはんや大師釋迦牟尼佛説を、龍樹祖師、正傳擧揚しましますところなり。われらいま佛道の寶山にのぼり、佛道の寶海にいりて、さいはひにたからをとれる、もともよろこぶべし。曠劫の供佛のちからなるべし。必得作佛うたがふべからず、決定せるものなり。
釋迦牟尼佛の所説、かくのごとし。」(3)
- (得道とほとけの両方に関わる文)
「この因縁、むかしは先師の室にして夜話をきく、のちには智論の文にむかうてこれを檢校す。傳法祖師の示誨、あきらかにして遺落せず。この文、智度論第十にあり。諸佛かならず諸法實相を大師としましますこと、あきらけし。釋尊また諸佛の常法を證しまします。
いはゆる諸法實相を大師とするといふは、佛法僧三寶を供養恭敬したてまつるなり。諸佛は無量阿僧祇劫そこばくの功徳善根を積集して、さらにその報をもとめず。ただ功徳を恭敬して供養しましますなり。佛果菩提のくらゐにいたりてなほ小功徳を愛し、盲比丘のために衽針しまします。佛果の功徳をあきらめんとおもはば、いまの因縁、まさしく消息なり。
しかあればすなはち、佛果菩提の功徳、諸法實相の道理、いまのよにある凡夫のおもふがごとくにはあらざるなり。いまの凡夫のおもふところは、造惡の諸法實相ならんとおもふ、有所得のみ佛果菩提ならんとおもふ。かくのごとくの邪見は、たとひ八萬劫をしるといふとも、いまだ本劫、本見、末劫、末見をのがれず。いかでか唯佛與佛の究盡しましますところの諸法實相を究盡することあらん。ゆゑいかんとなれば、唯佛與佛の究盡しましますところ、これ諸法實相なるがゆゑなり。」(4)
- 「禪苑清規曰、敬佛法僧否(佛法僧を敬ふや否や)。一百二十門第一
あきらかにしりぬ、西天東土、佛祖正傳するところは、恭敬佛法僧なり。歸依せざれば恭敬せず、恭敬せざれば歸依すべからず。この歸依佛法僧の功徳、かならず感應道交するとき成就するなり。たとひ天上人間、地獄鬼畜なりといへども、感應道交すれば、かならず歸依したてまつるなり。すでに歸依したてまつるがごときは、
世世生生、在在處處に増長し、かならず積功累徳し、阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり。おのづから惡友にひかれ、魔障にあふて、しばらく斷善根となり、一闡提となれども、つひには續善根し、その功徳増長するなり。歸依三寶の功徳、つひに不朽なり。
その歸依三寶とは、まさに淨信をもはらにして、あるいは如來現在世にもあれ、あるいは如來滅後にもあれ、合掌し低頭して、口にとなへていはく、
我某甲、今身より佛身にいたるまで、
歸依佛、歸依法、歸依僧。
歸依佛兩足尊、歸依法離欲尊、歸依僧衆中尊。
歸依佛竟、歸依法竟、歸依僧竟。
はるかに佛果菩提をこころざして、かくのごとく僧那を始發するなり。しかあればすなはち、身心いまも刹那刹那に生滅すといへども、法身かならず長養して、菩提を成就するなり。」(5)
- 「いはゆる歸依とは、歸は歸投なり、依は依伏なり。このゆゑに歸依といふ。歸依の相は、たとへば子の父に歸するがごとし。依伏は、たとへば民の王に依するがごとし。いはゆる救濟の言なり。佛はこれ大師なるがゆゑに歸依す、法は良藥なるがゆゑに歸依す、僧は勝友なるがゆゑに歸依す。
問、何故、偏歸此三(何が故にか偏に此の三に歸するや)。
答、以此三種畢竟歸處、能令衆生出離生死、證大菩提故歸(此の三種は畢竟歸處にして、能く衆生をして生死を出離し、大菩提を證せしむるを以ての故に歸す)。」(6)
- (悟道、得道、見性しても、ほとけではない)
「禪苑清規一百二十問云、發悟菩提心否(菩提心を發悟せりや否や)。
あきらかにしるべし、佛祖の學道、かならず菩提心を發悟するをさきとせりといふこと。これすなはち佛祖の常法なり。發悟すといふは、曉了なり。これ大覺にはあらず。たとひ十地を頓證せるも、なほこれ菩薩なり。西天二十八祖、唐土六祖等、および諸大祖師は、これ菩薩なり。ほとけにあらず、聲聞辟支佛等にあらず。いまのよにある參學のともがら、菩薩なり、聲聞にあらずといふこと、あきらめしれるともがら一人もなし。ただみだりに衲僧、衲子と自稱して、その眞實をしらざるによりて、みだりがはしくせり。あはれむべし、澆季祖道癈せること。
しかあればすなはち、たとひ在家にもあれ、たとひ出家にもあれ、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、苦にありといふとも、樂にありといふとも、はやく自未得度先度他の心をおこすべし。衆生界は有邊無邊にあらざれども、先度一切衆生の心をおこすなり。これすなはち菩提心なり。」(7)
(注)
- (1)「「出家功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、306頁。
- (2)「供養諸仏」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、343頁。
- (3)「供養諸仏」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、356頁。
- (4)「供養諸仏」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、360頁。
- (5)「帰依仏法僧宝」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、372頁。
- (6)同上、373頁。
- (7)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、338頁。
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