もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
中国仏教の否定=十二巻「正法眼蔵」
中国の禅以外の仏教、講座仏教などの批判。また、中国禅の堕落(インド大乗の精神を失った部分)の批判も含む。
中国仏教の否定
「正法眼蔵」
- 「梁陳隋唐宋あひつたはれて數百歳のあひだ、大小兩乘の學者、おほく講經の業をなげすてて、究竟にあらずとしりて、すすみて佛祖正傳の法を習學せんとするとき、かならず從來の弊衣を脱落して、佛祖正傳の袈裟を受持するなり。まさしくこれ捨邪歸正なり。
如來の正法は、西天すなはち法本なり。古今の人師、おほく凡夫の情量局量の小見をたつ。佛界衆生界、それ有邊無邊にあらざるがゆゑに、大小乘の教行人理、いまの凡夫の局量にいるべからず。しかあるに、いたづらに西天を本とせず、震旦國にして、あらたに局量の小見を今案して佛法とせる、道理しかあるべからず。
しかあればすなはち、いま發心のともがら、袈裟を受持すべくは、正傳の袈裟を受持すべし。今案の新作袈裟を受持すべからず。正傳の袈裟といふは、少林曹溪正傳しきたれる、如來の嫡嫡相承なり。一代も虧闕なし。その法子法孫の著しきたれる、これ正傳袈裟なり。唐土の新作は正傳にあらず。いま古今に、西天よりきたれる僧徒の所著の袈裟、みな佛祖正傳の袈裟のごとく著せり。一人としても、いま震旦新作の律學のともがらの所製の袈裟のごとくなるなし。くらきともがら、律學の袈裟を信ず、あきらかなるものは抛却するなり。」(1)
- 「復次、有小因大果、小縁大報。如求佛道、讃一偈、一稱南無佛、燒一捻香、必得作佛。何況聞知諸法實相、不生不滅、不不生不不滅、而行因縁業、亦不失
(復た次に、小因大果、小縁大報といふこと有り。佛道を求むるが如き、一偈を讃め、一たび南無佛を稱じ、一捻香を燒く、必ず作佛することを得ん。何に況んや諸法實相、不生不滅、不不生不不滅を聞知して、而も因縁の業を行ぜん、また失せじ)。
世尊の所説、かくのごとくあきらかなるを、龍樹祖師したしく正傳しましますなり。誠諦の金言、正傳の相承あり。たとひ龍樹祖師の所説なりとも、餘師の説に比すべからず。世尊の所示を正傳流布しましますにあふことをえたり、もともよろこぶべし。これらの聖教を、みだりに東土の凡師の虚説に比量することなかれ。」(2)
- 「世尊在世に、二十六億の餓龍、ともに佛所に詣し、みなことごとくあめのごとくなみだをふらして、まうしてまうさく、
唯願哀愍、救濟於我。大悲世尊、我等憶念過去世時、於佛法中雖得出家、備造如是種種惡業。以惡業故、經無量身在三惡道。亦以餘報故、生在龍中受極大苦
(唯願はくは哀愍して、我れを救濟したまへ。大悲世尊、我等過去世の時を憶念するに、佛法の中に於て出家することを得と雖も、備さに是の如くの種種の惡業を造りき。惡業を以ての故に、無量身を經て三惡道に在りき。亦た餘の報を以ての故に、生れて龍の中に在りて極大苦を受く)。
佛告諸龍、汝等今當盡受三歸、一心修善。以此縁故、於賢劫中値最後佛名曰樓至。於彼佛世、罪得除滅
(佛、諸龍に告げたまはく、汝等今當に盡く三歸を受け、一心に善を修すべし。此の縁を以ての故に、賢劫の中に於て最後佛の名を樓至と曰ふに値ひたてまつり、彼の佛の世に於て、罪、除滅することを得べし)。
時諸龍等聞是語已、皆悉至心、盡其形壽、各受三歸
(時に諸龍等、是の語を聞き已りて、皆な悉く至心に、其の形壽を盡すまで、各三歸を受けたり)。
ほとけみづから諸龍を救濟しましますに、餘法なし、餘術なし。ただ三歸をさづけまします。過去世に出家せしとき、かつて三歸をうけたりといへども、業報によりて餓龍となれるとき、餘法のこれをすくふべきなし。このゆゑに三歸をさづけまします。しるべし、三歸の功徳、それ最尊最上、甚深不可思議なりといふこと。世尊すでに證明しまします、衆生まさに信受すべし。十方の諸佛の各號を稱念せしめましまさず、ただ三歸をさづけまします。佛意の甚深なる、たれかこれを測量せん。いまの衆生、いたづらに各各の一佛の名號を稱念せんよりは、すみやかに三歸をうけたてまつるべし。愚闇にして大功徳をむなしくすることなかれ。」(3)
- 「いま生厭といふは、
佛以一音演説法(佛、一音を以て法を演説したまふに)、
衆生隨類各得解(衆生、類に隨つて各解を得)。
或有恐怖或歡喜(或いは恐怖する有り、或いは歡喜し)、
或生厭離或斷疑(或いは厭離を生じ、或いは疑ひを斷ず)。
なり。
大經曰、佛言、復次善男子、如調馬者、凡有四種。一者觸毛、二者觸皮、三者觸肉、四者觸骨。隨其所觸、稱御者意。如來亦爾、以四種法、調伏衆生。一爲説生、便受佛語。如觸其毛隨御者意。二説生老、便受佛語。如觸毛皮、隨御者意。三者説生及以老病、便受佛語。如觸毛皮肉隨御者意。四者説生及老病死、便受佛語。如觸毛皮肉骨、隨御者意。
(大經に曰く、佛言はく、復た次に善男子、調馬者の如き、凡さ四種有り。一つには觸毛、二つには觸皮、三つには觸肉、四つには觸骨なり。其の觸るる所に隨つて、御者の意に稱ふ。如來も亦た爾なり、四種の法を以て、衆生を調伏したまふ。一つには爲に生を説きたまふに、便ち佛語を受く。其の毛に觸るれば御者の意に隨ふが如し。二つには生、老を説きたまふに、便ち佛語を受く。毛、皮に觸るれば御者の意に隨ふが如し。三つには生及以び老、病を説きたまふに便ち佛語を受く。毛、皮、肉に觸るれば御者の意に隨ふが如し。四つには生及び老、病、死を説きたまふに、便ち佛語を受く。毛、皮、肉、骨に觸るれば御者の意に隨ふが如し)。
善男子、御者調馬、無有決定。如來世尊、調伏衆生、必定不虚。是故號佛調御丈夫(善男子、御者の馬を調ふること、決定有ること無し。如來世尊、衆生を調伏したまふこと、必定して虚しからず。是の故に佛を調御丈夫と號く)。
これを涅槃經の四馬となづく。學者ならはざるなし、諸佛ときたまはざるおはしまさず。ほとけにしたがひたてまつりてこれをきく、ほとけをみたてまつり、供養したてまつるごとには、かならず聽聞し、佛法を傳授するごとには、衆生のためにこれをとくこと、歴劫におこたらず。つひに佛果にいたりて、はじめ初發心のときのごとく、菩薩聲聞、人天大會のためにこれをとく。このゆゑに、佛法僧寶種不斷なり。
かくのごとくなるがゆゑに、諸佛の所説と菩薩の所説と、はるかにことなり。しるべし、調馬師の法におほよそ四種あり。いはゆる觸毛、觸皮、觸肉、觸骨なり。これなにものを觸毛せしむるとみえざれども、傳法の大士おもはくは、鞭なるべしと解す。しかあれども、かならずしも調馬の法に鞭をもちゐるもあり、鞭をもちゐざるもあり。調馬かならず鞭のみにはかぎるべからず。たてるたけ八尺なる、これを龍馬とす。このむまととのふること、人間にすくなし。また千里馬といふむまあり、一日のうちに千里をゆく。このむま五百里をゆくあひだ、血汗をながす、五百里すぎぬれば、清涼にしてはやし、このむまにのる人すくなし。ととのふる法、しれるものすくなし。このむま、神丹國にはなし、外國にあり。このむま、おのおのしきりに鞭を加すとみえず。
しかあれども、古徳いはく、調馬かならず鞭を加す。鞭にあらざればむまととのほらず。これ調馬の法なり。いま觸毛皮肉骨の四法あり、毛をのぞきて皮に觸することあるべからず。毛、皮をのぞきて肉、骨に觸すべからず。かるがゆゑにしりぬ、これ鞭を加すべきなり。いまここにとかざるは文の不足なり。
諸經かくのごときのところおほし、如來世尊調御丈夫またしかあり。四種の法をもて、一切衆生を調伏して、必定不虚なり。いはゆる生を爲説するにすなはち佛語をうくるあり、生、老を爲説するに佛語をうくるあり、生、老、病を爲説するに佛語をうくるあり、生、老、病、死を爲説するに佛語をうくるあり。のちの三をきくもの、いまだはじめの一をはなれず。世間の調馬の、觸毛をはなれて觸皮肉骨あらざるがごとし。生老病死を爲説すといふは、如來世尊の生老病死を爲説しまします、衆生をして生老病死をはなれしめんがためにあらず。生老病死すなはち道ととかず、生老病死すなはち道なりと解せしめんがためにとくにあらず。この生老病死を爲説するによりて、一切衆生をして阿耨多羅三藐三菩提の法をえしめんがためなり。これ如來世尊、調伏衆生、必定不虚、是故號佛調御丈夫なり。」(4)
(注)
- (1)「袈裟功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、305頁。
- (2)「供養諸仏」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、358頁。
- (3)「帰依仏法僧宝」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、377頁。
- (4)「四馬」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、415頁。
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