もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
中国の禅の肯定=十二巻「正法眼蔵」
中国の禅の肯定
十二巻本「正法眼蔵」
- 「南嶽懷讓禪師、一日自歎曰、夫出家者、爲無生法、天上人間、無有勝者
(南嶽懷讓禪師、一日自ら歎じて曰く、夫れ出家は、無生法の爲にす、天上人間、勝る者有ること無し)。
いはく、無生法とは如來の正法なり、このゆゑに天上人間にすぐれたり。天上といふは、欲界に六天あり、色界に十八天あり、無色界に四種、ともに出家の道におよぶことなし。
盤山寶積禪師曰、禪徳、可中學道、似地フ山、不知山之孤峻。如石含玉、不知玉之無瑕。若如是者、是名出家
(盤山寶積禪師曰く、禪徳、可中學道は、地の山をフげて、山の孤峻を知らざるに似たり。石の玉を含んで、玉の瑕無きを知らざるが如し。若し是の如くならば、是れを出家と名づく)。
佛祖の正法かならずしも知不知にかかはれず、出家は佛祖の正法なるがゆゑに、その功徳あきらかなり。
鎭州臨濟院義玄禪師曰、夫出家者、須辨得平常眞正見解、辨佛辨魔、辨眞辨僞、辨凡辨聖。若如是辨得、名眞出家。若魔佛不辨、正是出一家入一家、喚作造業衆生。未得名爲眞正出家
(鎭州臨濟院義玄禪師曰く、夫れ出家は、須らく平常眞正の見解を辨得し、辨佛辨魔、辨眞辨僞、辨凡辨聖すべし。若し是の如く辨得せば、眞の出家と名づく。若し魔佛辨ぜざれば、正に是れ一家を出でて一家に入るなり、喚んで造業の衆生と作す。未だ名づけて眞正の出家と爲すこと得ず)。
いはゆる平常眞正見解といふは、深信因果、深信三寶等なり。辨佛といふは、ほとけの因中果上の功徳を念ずることあきらかなるなり。眞僞凡聖をあきらかに辨肯するなり。もし魔佛をあきらめざれば、學道を沮壞し、學道を退轉するなり。魔事を覺知してその事にしたがはざれば、辨道不退なり。これを眞正出家の法とす。いたづらに魔事を佛法とおもふものおほし、近世の非なり。學者、はやく魔をしり佛をあきらめ、修證すべし。」(1)
- 「その出家行法に四種あり。いはゆる四依なり。
一、盡形壽樹下坐。
二、盡形壽著糞掃衣。
三、盡形壽乞食。
四、盡形壽有病服陳棄藥。
共行此法、方名出家、方名爲僧。若不行此、不名爲僧。是故名出家行法(共に此の法を行ぜば、方に出家と名づけ、方に名づけて僧と爲す。若し此を行ぜずは、名づけて僧と爲さず。是の故に出家行法と名づく)。
いま西天東地、佛祖正傳するところ、これ出家行法なり。一生不離叢林なればすなはちこの四依の行法そなはれり、これを行四衣と稱ず。これに違して五依を建立せん、しるべし、邪法なり。たれか信受せん、たれか忍聽せん。佛祖正傳するところ、これ正法なり。これによりて出家する、人間最上最尊の慶幸なり。このゆゑに、西天竺國にすなはち難陀、阿難、調達、阿那律、摩訶男、拔提、ともにこれ師子頬王のむまご、刹利種姓のもとも尊貴なるなり、はやく出家せり。後代の勝躅なるべし。いま刹利にあらざらんともがら、そのみ、をしむべからず。王子にあらざらんともがら、なにのをしむところかあらん。閻浮提最第一の尊貴より、三界最第一の尊貴に歸するはすなはち出家なり。自餘の諸小國王、諸離車衆、いたづらにをしむべからざるををしみ、ほこるべからざるにほこり、とどまるべからざるにとどまりて出家せざらん、たれかつたなしとせざらん、たれか至愚なりとせざらん。」(2)
- 「梁陳隋唐宋あひつたはれて數百歳のあひだ、大小兩乘の學者、おほく講經の業をなげすてて、究竟にあらずとしりて、すすみて佛祖正傳の法を習學せんとするとき、かならず從來の弊衣を脱落して、佛祖正傳の袈裟を受持するなり。まさしくこれ捨邪歸正なり。
如來の正法は、西天すなはち法本なり。古今の人師、おほく凡夫の情量局量の小見をたつ。佛界衆生界、それ有邊無邊にあらざるがゆゑに、大小乘の教行人理、いまの凡夫の局量にいるべからず。しかあるに、いたづらに西天を本とせず、震旦國にして、あらたに局量の小見を今案して佛法とせる、道理しかあるべからず。
しかあればすなはち、いま發心のともがら、袈裟を受持すべくは、正傳の袈裟を受持すべし。今案の新作袈裟を受持すべからず。正傳の袈裟といふは、少林曹溪正傳しきたれる、如來の嫡嫡相承なり。一代も虧闕なし。その法子法孫の著しきたれる、これ正傳袈裟なり。唐土の新作は正傳にあらず。いま古今に、西天よりきたれる僧徒の所著の袈裟、みな佛祖正傳の袈裟のごとく著せり。一人としても、いま震旦新作の律學のともがらの所製の袈裟のごとくなるなし。くらきともがら、律學の袈裟を信ず、あきらかなるものは抛却するなり。」(3)
- 「われらが壽行生滅、刹那流轉捷疾なること、かくのごとし。念念のあひだ、行者この道理をわするることなかれ。この刹那生滅、流轉捷疾にありながら、もし自未得度先度他の一念をおこすごときは、久遠の壽量、たちまちに現在前するなり。三世十方の諸佛、ならびに七佛世尊、および西天二十八祖、東地六祖、乃至傳佛正法眼藏涅槃妙心の祖師、みなともに菩提心を保任せり、いまだ菩提心をおこさざるは祖師にあらず。」(4)
- 「永嘉眞覺大師玄覺和尚は、曹谿の上足なり。もとはこれ天台の法華宗を習學せり。左谿玄朗大師と同室なり。涅槃經を披閲せるところに、金光その室にみつ。ふかく無生の悟を得たり。すすみて曹谿に詣し、證をもて六祖に告す。六祖つひに印可す。のちに證道歌をつくるにいはく、
豁達空、撥因果(空に豁達し、因果を撥へば)、
@@(もうもう)蕩蕩招殃禍(@@(もうもう)蕩蕩として殃禍を招く)。
あきらかにしるべし、撥無因果は招殃禍なるべし。往代は古徳ともに因果をあきらめたり、近世には晩進みな因果にまどへり。いまのよなりといふとも、菩提心いさぎよくして、佛法のために佛法を習學せんともがらは、古徳のごとく因果をあきらむべきなり。因なし、果なしといふは、すなはちこれ外道なり。」(5)
- 「いまのともがら、あきらかに信ずべし、佛法の振旦に正傳せることは、ただひとへに二祖の參學力なり。初祖たとひ西來せりとも、二祖をえずは佛法つたはれざらん。二祖もし佛法をつたへずは、東地いまに佛法なからん。おほよそ二祖は餘輩に群すべからず。
傳燈録云、僧神光者、曠達之士也。久居伊洛、博覽群書、善談玄理(傳燈録云く、僧神光といふものあり、曠達の士也。久しく伊洛に居して群書を博覽せり、善く玄理を談ず)。
むかし二祖の群書を博覽すると、いまの人の書卷をみると、はるかにことなるべし。得法傳衣ののちも、むかしわれ孔老之教、禮術風規とおもふしは誤りなりとしめすことばなし。しるべし、二祖すでに孔老は佛法にあらずと通達せり。いまの遠孫、なにとしてか祖父に違背して佛法と一致なりといふや。まさにしるべし、これ邪説なり。二祖の遠孫にあらずは、正受等が説、たれかもちゐん。二祖の兒孫たるべくは、三教一致といふことなかれ。」(6)
- 「これすなはち一百八法明門なり。一切の一生所繋の菩薩、都史多天より閻浮提に下生せんとするとき、かならずこの一百八法明門を、都史多天の衆のために敷揚して、諸天を化するは、諸佛の常法なり。
護明菩薩とは、釋迦牟尼佛、一生補處として第四天にましますときの名なり。李附馬、天聖廣燈録を撰するに、この一百八法明門の名字をのせたり。參學のともがら、あきらめしれるはすくなく、しらざるは稻麻竹葦のごとし。いま初心晩學のともがらのためにこれを撰す。師子の座にのぼり、人天の師となれらんともがら、審細參學すべし。この都史多天に一生所繋として住せざれば、さらに諸佛にあらざるなり。行者みだりに我慢することなかれ、一生所繋の菩薩は中有なし。」(7)
- 「長沙景岑は南泉の願禪師の上足なり。久しく參學のほまれあり。ままに道得是あれども、いまの因縁は渾無理會得なり。ちかくは永嘉の語を會せず、つぎに鳩摩羅多の慈誨をあきらめず。はるかに世尊の所説、ゆめにもいまだみざるがごとし。佛祖の道處すべてつたはれずは、たれかなんぢを尊崇せん。
業障とは三障のなかの一障なり。いはゆる三障とは、業障、報障、煩惱障なり。業障とは五無間業をなづく。皓月が問、このこころなしといふとも、先來いひきたること、かくのごとし。皓月が問は、業不亡の道理によりて順後業のきたれるにむかふてとふところなり。長沙のあやまりは、如何是本來空と問するとき、業障是とこたふる、おほきなる僻見なり。業障なにとしてか本來空ならん。つくらずは業障ならじ。つくられば本來空にあらず。つくるはこれつくらぬなり。業障の當躰をうごさかずながら空なりといふは、すでにこれ外道の見なり。業障本來空なりとして放逸に造業せん、衆生さらに解脱の期あるべからず。解脱のひなくは、諸佛の出世あるべからず。諸佛の出世なくは、祖師西來すべからず。祖師西來せずは、南泉あるべからず。南泉なくは、たれかなんぢが參學眼を換却せん。また如何是業障と問するとき、さらに本來空是と答する、ふるくの縛馬答に相似なりといふとも、おもはくはなんぢ未了得の短才をもて久學の供奉に相對するがゆゑに、かくのごとくの狂言を發するなるべし。
のち偈にいはく、涅槃償債義、一性更無殊。
なんぢがいふ一性は什麼性なるぞ。三性のなかにいづれなりとかせん。おもふらくは、なんぢ性をしらず。涅槃償債義とはいかに。なんじがいふ涅槃はいづれの涅槃なりとかせん。聲聞の涅槃なりとやせん、支佛の涅槃なりとやせん、諸佛の涅槃なりとやせん。たとひいづれなりとも、償債義にひとしかるべからず。なんぢが道處さらに佛祖の道處にあらず。更買草鞋行脚(更に草鞋を買ひて行脚)すべし。師子尊者、二祖大師等、惡人のために害せられん、なんぞうたがふにたらん。最後身にあらず、無中有の身にあらず、なんぞ順後次受業のうくべきなからん。すでに後報のうくべきが熟するあらば、いまのうたがふところにあらざらん。あきらかにしりぬ、長沙いまだ三時業をあきらめずといふこと。參學のともがら、この三時業をあきらめんこと、鳩摩羅多尊者のごとくなるべし。すでにこれ祖宗の業なり、癈怠すべからず。」(8)
(注)
- (1)「出家功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、285頁。
- (2)同上、290頁。
- (3)「袈裟功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、305頁。
- (4)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、337頁。
- (5)「深信因果」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、391頁。
@=さんずいに莽(もう)
- (6)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、435頁。
- (7)「一百八法明門」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、450頁。
- (8)「三時業」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、409頁。
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