もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
[一つを取る説]目次
[捨てられた言葉]目次
仏教学・禅学の批判
煩悩の捨棄(1)=十二巻「正法眼蔵」
大乗仏教では、煩悩によって、苦が起こるので、煩悩を捨棄すべきことを言う。道元にもそれがある。
唯識説では、六煩悩(貪、瞋、癡、慢、疑、悪見)をいい、悪見は、顛倒の見であり、五つに分類される。薩伽耶見(我見)、辺執見、邪見、見取、戒禁取である。これが、十の根本煩悩である。その他、随煩悩がある。
- 一個のファイルに収録できませんので、2つに分けています。
- 「悪をなさず」は、別項参照。
煩悩の捨棄
「正法眼蔵」
- 「釋迦牟尼佛五百大願のなかの第一百三十七願、我未來、成正覺已、或有諸人、於我法中欲出家者、願無障礙。所謂羸劣、失念、狂亂、@(きょう)慢、無有畏懼、癡無智惠、多諸結使、其心散亂、若不爾者、不成正覺
(我れ未來に正覺を成じ已らんに、或し諸人有りて、我が法中に於て出家せんと欲はん者、願、障礙無けん。所謂羸劣、失念、狂亂、@(きょう)慢にして、畏懼有ること無く、癡にして智惠無く、諸の結使多く、其の心散亂せらんにも、若し爾らざれば、正覺を成ぜじ)。
(中略)
しるべし、いま出家する善男子善女人、みな世尊の往昔の大願力にたすけられて、さはりなく出家受戒することをえたり。如來すでに誓願して出家せしめまします、あきらかにしりぬ、最尊最上の大功徳なりといふことを。」(1)
- 「第四優婆@多尊者、有長者子、名曰提多伽。來禮尊者、志求出家(第四優婆@多尊者、長者子有り、名を提多伽と曰ふ。來りて尊者を禮し、出家を志求せり)。
尊者曰、汝身出家耶、心出家(汝、身の出家なりや、心の出家なりや)。
答曰、我來出家、非爲身心(我れ來りて出家する、身心の爲にあらず)。
尊者曰、不爲身心、復誰出家(身心の爲にあらずは、復た誰か出家する)。
答曰、夫出家者、無我我所故、即心不生滅、心不生滅故、即是常道。諸佛亦常心無形相、其躰亦然(夫れ出家は、我と我所と無きが故に、即ち心、生滅せず。心、生滅せざる故に、即ち是れ常道なり。諸佛も亦た常に心、形相無く、其の躰も亦た然り)。
尊者曰、汝當大悟心自通達。宜依佛法僧紹髏ケ種(汝當に大悟して心、自ら通達すべし。宜しく佛法僧に依りて聖種を紹驍キべし)。
即與出家受具(即ち與に出家受具せしめたり)。
それ諸佛の法にあふたてまつりて出家するは、最第一の勝果報なり。その法すなはち我のためにあらず、我所のためにあらず。身心のためにあらず、身心の出家するにあらず。出家の我我所にあらざる道理かくのごとし。我我所にあらざれば諸佛の法なるべし。ただこれ諸佛の常法なり。諸佛の常法なるがゆゑに、我我所にあらず、身心にあらざるなり。三界のかたをひとしくするところにあらず。かくのごとくなるがゆゑに、出家これ最上の法なり。頓にあらず、漸にあらず。常にあらず、無常にあらず。來にあらず、去にあらず。住にあらず、作にあらず。廣にあらず、狹にあらず。大にあらず、小にあらず、無作にあらず。佛法單傳の祖師、かならず出家受戒せずといふことなし。いまの提多伽、はじめて優婆@多尊者にあふたてまつりて出家をもとむる道理かくのごとし。出家受具し、優婆@多に參學し、つひに第五祖師となれり。」(2)
- 「袈裟はふるくより解脱服と稱ず、業障、煩惱障、報障等、みな解脱すべきなり。龍もし一縷をうれば三熱をまぬかる、牛もし一角にふるればその罪おのづから消滅す。諸佛成道のとき、かならず袈裟を著す。しるべし、最尊最上の功徳なりといふこと。」(3)
- 「諸佛の袈裟の體色量の有量無量、有相無相、あきらめ參學すべし。西天東地、古往今來の祖師、みな參學正傳せるところなり。祖祖正傳のあきらかにしてうたがふところなきを見聞しながら、いたづらにこの祖師に正傳せざらんは、その意樂ゆるしがたからん。愚癡のいたり、不信のゆゑなるべし。實をすてて虚をもとめ、本をすてて末をねがふものなり。これ如來を輕忽したてまつるならん。菩提心をおこさんともがら、かならず祖師の正傳を傳受すべし。われらあひがたき佛法にあひたてまつるのみにあらず、佛袈裟正傳の法孫としてこれを見聞し、學習し、受持することをえたり。すなはちこれ如來をみたてまつるなり。佛説法をきくなり、佛光明にてらさるるなり、佛受用を受用するなり。佛心を單傳するなり、佛髓をえたるなり。まのあたり釋迦牟尼佛の袈裟におほはれたてまつるなり。釋迦牟尼佛まのあたりわれに袈裟をさづけましますなり。ほとけにしたがふたてまつりて、この袈裟はうけたてまつれり。」(4)
- 「世尊告智光比丘言、法衣得十勝利(世尊、智光比丘に告げて言はく、法衣は十勝利を得)。
一者、能覆其身、遠離羞耻、具足慚愧、修行善法。
(一つには、能く其の身を覆うて、羞耻を遠離し、慚愧を具足して、善法を修行す。)
二者、遠離寒熱及以蚊蟲惡獸毒蟲、安穩修道。
(二つには、寒熱及以び蚊蟲惡獸毒蟲を遠離して、安穩に修道す。)
三者、示現沙門出家相貌、見者歡喜、遠離邪心。
(三つには、沙門出家の相貌を示現し、見る者歡喜して、邪心を遠離す。)
四者、袈裟即是人天寶幢之相、尊重敬禮、得生梵天。
(四つには、袈裟は即ち是れ人天の寶幢の相なり、尊重し敬禮すれば、梵天に生ずることを得。)
五者、著袈裟時、生寶幢想、能滅衆罪、生諸福徳。
(五つには、著袈裟の時、寶幢の想を生ぜば、能く衆罪を滅し、諸の福徳を生ず。)
六者、本制袈裟、染令壞色、離五欲想、不生貪愛。
(六つには、本制の袈裟は、染めて壞色ならしむ、五欲の想を離れ、貪愛を生ぜず。)
七者、袈裟是佛淨衣、永斷煩惱、作良田故。
(七つには、袈裟は是れ佛の淨衣なり、永く煩惱を斷じて、良田と作るが故に。)
八者、身著袈裟、罪業消除、十善業道、念念増長。
(八つには、身に袈裟を著せば、罪業消除し、十善業道、念念に増長す。)
九者、袈裟猶如良田、能善増長菩薩道故。
(九つには、袈裟は猶ほ良田の如し、能善く菩薩の道を増長するが故に。)
十者、袈裟猶如甲冑、煩惱毒箭、不能害故。
(十には、袈裟は猶ほ甲冑の如し、煩惱の毒箭、害すること能はざるが故に。)
智光當知、以是因縁、三世諸佛、縁覺聲聞、清淨出家、身著袈裟、三聖同坐解脱寶牀。執智慧劔、破煩惱魔、共入一味諸涅槃界
(智光當に知るべし、是の因縁を以て、三世の諸佛、縁覺聲聞、清淨の出家、身に袈裟を著して、三聖同じく解脱の寶牀に坐す。智慧の劔を執り、煩惱の魔を破り、共に一味の諸の涅槃界に入る)。
爾時世尊、而説偈言(爾の時に世尊、而も偈を説いて言く)、
智光比丘應善聽(智光比丘應に善く聽くべし)、
大福田衣十勝利(大福田衣に十勝利あり)。
世間衣服増欲染(世間の衣服は欲染を増す)
、
如來法服不如是(如來の法服は是の如くならず)。
法服能遮世羞耻(法服は能く世の羞耻を遮り)、
慚愧圓滿生福田(慚愧圓滿して福田を生ず)。
遠離寒熱及毒蟲(寒熱及び毒蟲を遠離して)、
道心堅固得究竟(道心堅固にして究竟を得)。
示現出家離貪欲(出家を示現して貪欲を離れ)、
斷除五見正修行(五見を斷除して正修行す)。
瞻禮袈裟寶幢相(袈裟寶幢の相を瞻禮し)、
恭敬生於梵王福(恭敬すれば梵王の福を生ず)。
佛子披衣生塔想(佛子披衣しては塔想を生ずべし)、
生福滅罪感人天(福を生じ罪を滅し人天を感ず)。
肅容致敬眞沙門(肅容致敬すれば眞の沙門なり)、
所爲諸不染塵俗(所爲諸の塵俗に不染なり)。
諸佛稱讃爲良田(諸佛稱讃して良田と爲したまふ)、
利樂郡生此爲最(郡生を利樂するには此れを最れたりと爲す)。
袈裟神力不思議(袈裟の神力不思議なり)、
能令修植菩提行(能く菩提の行を修植せしむ)。
道芽増長如春苗(道の芽の増長することは春の苗の如く)、
菩提妙果類秋實(菩提の妙果は秋の實に類たり)。
堅固金剛眞甲冑(堅固金剛の眞甲冑なり)、
煩惱毒箭不能害(煩惱の毒箭も害すること能はず)。
我今略讃十勝利(我今略して十勝利を讃む)、
歴劫廣説無有邊(歴劫に廣説すとも邊あること無けん)。
若有龍身披一縷(若し龍有りて身に一縷を披せば)、
得脱金翅鳥王食(金翅鳥王の食を脱るることを得ん)。
若人渡海持此衣(若し人海を渡らんに、此の衣を持せば)、
不怖龍魚諸鬼難(龍魚諸鬼の難を怖れじ)。
雷電霹靂天之怒(雷電霹靂して天の怒りあらんにも)、
披袈裟者無恐畏(袈裟を披たる者は恐畏無けん)。
白衣若能親捧持(白衣若し能く親しく捧持せば)、
一切惡鬼無能近(一切の惡鬼能く近づくこと無けん)。
若能發心求出家(若し能く發心して出家を求め)、
厭離世間修佛道(世間を厭離して佛道を修せば)、
十方魔宮皆振動(十方の魔宮皆な振動し)、
是人速證法王身(是の人速やかに法王の身を證せん)。
この十勝利、ひろく佛道のもろもろの功徳を具足せり。長行偈頌にあらゆる功徳、あきらかに參學すべし。披閲してすみやかにさしおくことなかれ。句句にむかひて久參すべし。この勝利は、ただ袈裟の功徳なり、行者の猛利恆修のちからにあらず。
佛言、袈裟神力不思議。
いたづらに凡夫賢聖のはかりしるところにあらず。
おほよそ速證法王身のとき、かならず袈裟を著せり。袈裟を著せざるものの法王身を證せること、むかしよりいまだあらざるところなり。その最第一清淨の衣財は、これ糞掃衣なり。その功徳、あまねく大乘小乘の經律論のなかにあきらかなり。廣學諮問すべし。その餘の衣財、またかねあきらむべし。佛佛祖祖、かならずあきらめ、正傳しましますところなり、餘類のおよぶべきにあらず。
」(5)
- 「菩薩の初心のとき、菩提心を退轉すること、おほくは正師にあはざるによる。正師にあはざれば正法をきかず、正法をきかざればおそらくは因果を撥無し、解脱を撥無し、三寶を撥無し、三世等の諸法を撥無す。いたづらに現在の五欲に貪著して、前途菩提の功徳を失す。」(6)
- 「自未得度先度他の行願にそむかんがごときは、これ魔説としるべし、外道説としるべし、惡友説としるべし。さらにしたがふことなかれ。
魔有四種。一煩惱魔、二五衆魔、三死魔、四天子魔
(魔に四種有り。一には煩惱魔、二には五衆魔、三には死魔、四には天子魔)。
煩惱魔者、所謂百八煩惱等、分別八萬四千諸煩惱
(煩惱魔とは、所謂る百八煩惱等、分別するに八萬四千の諸の煩惱なり)。
五衆魔者、是煩惱和合因縁、得是身。四大及四大造色、眼根等色、是名色衆。百八煩惱等諸受和合、名爲受衆。大小無量所有想、分別和合、名爲想衆。因好醜心發、能起貪欲瞋恚等心、相應不相應法、名爲行衆。六情六塵和合故生六識、是六識分別和合無量無邊心、是名識衆
(五衆魔とは、是れ煩惱和合の因縁にして、是の身を得。四大及び四大の造色、眼根等の色、是れを色衆と名づく。百八煩惱等の諸受和合せるを、名づけて受衆と爲す。大小無量の所有の想、分別和合せるを、名づけて想衆と爲す。好醜の心發るに因つて、能く貪欲瞋恚等の心、相應不相應の法を起すを、名づけて行衆と爲す。六情六塵和合するが故に六識を生ず、是の六識分別和合すれば無量無邊の心あり、是れを識衆と名づく)。
死魔者、無常因縁故、破相續五衆壽命、盡離三法識熱壽故、名爲死魔
(死魔とは、無常因縁の故に、相續せる五衆の壽命を破り、三法なる識熱壽を盡離するが故に、名づけて死魔と爲す)。
天子魔者、欲界主、深著世樂、用有所得故生邪見、憎嫉一切賢聖、涅槃道法。是名天子魔
(天子魔とは、欲界の主として、深く世樂に著し、有所得を用ての故に邪見を生じ、一切賢聖、涅槃の道法を憎嫉す。是れを天子魔と名づく)。
魔是天竺語、秦言能奪命者。雖死魔實能奪命、餘者亦能作奪命因縁、亦奪智惠命。是故名殺者
(魔は是れ天竺の語、秦には能奪命者と言ふ。死魔は實に能く命を奪ふと雖も、餘の者も亦た能く奪命の因縁を作し、亦た智惠の命を奪ふ。是の故に殺者と名づく)。
問曰、一五衆魔接三種魔、何以故別説四
(一の五衆魔に三種の魔を接す、何を以ての故に別にして四と説くや)。
答曰、實是一魔、分別其義故有四
(實に是れ一魔なり、其の義を分別するが故に四有り)。
上來これ龍樹祖師の施設なり、行者しりて勤學すべし。いたづらに魔@(にょう)をかうぶりて、菩提心を退轉せざれ、これ守護菩提心なり。」(7)
- 「この因縁、むかしは先師の室にして夜話をきく、のちには智論の文にむかうてこれを檢校す。傳法祖師の示誨、あきらかにして遺落せず。この文、智度論第十にあり。諸佛かならず諸法實相を大師としましますこと、あきらけし。釋尊また諸佛の常法を證しまします。
いはゆる諸法實相を大師とするといふは、佛法僧三寶を供養恭敬したてまつるなり。諸佛は無量阿僧祇劫そこばくの功徳善根を積集して、さらにその報をもとめず、ただ功徳を恭敬して供養しましますなり。佛果菩提のくらゐにいたりてなほ小功徳を愛し、盲比丘のために衽針しまします。佛果の功徳をあきらめんとおもはば、いまの因縁、まさしく消息なり。
しかあればすなはち、佛果菩提の功徳、諸法實相の道理、いまのよにある凡夫のおもふがごとくにはあらざるなり。いまの凡夫のおもふところは、造惡の諸法實相ならんとおもふ、有所得のみ佛果菩提ならんとおもふ。かくのごとくの邪見は、たとひ八萬劫をしるといふとも、いまだ本劫本見、末劫末見をのがれず、いかでか唯佛與佛の究盡しましますところの諸法實相を究盡することあらん。ゆえいかむ、となれば、唯佛與佛の究盡しましますところ、これ諸法實相なるがゆゑなり。」(8)
- 「第九無染供養。無染有二。一心無染、離一切過。二財物無染、離非法過
(第九に無染供養。無染に二有り。一には心無染、一切の過を離る。二には財物無染、非法の過を離る)。」(9)
- 「世尊言、
衆人怖所逼、多歸依諸山(衆人所逼を怖れて、多く諸山)、
園苑及叢林、孤樹制多等(園苑及び叢林、孤樹制多等に歸依す)、
此歸依非勝、此歸依非尊(此の歸依は勝に非ず、此の歸依は尊に非ず)、
不因此歸依、能解脱衆苦(此の歸依に因りては、能く衆苦を解脱せず)。
諸有歸依佛、及歸依法僧(諸の佛に歸依し、及び法僧に歸依すること有るは)、
於四聖諦中、恆以慧觀察(四聖諦の中に於て、恆に慧を以て觀察し)、
知苦知苦集、知永超衆苦(苦を知り苦の集を知り、永く衆苦を超えんことを知り)、
知八支聖道、趣安穩涅槃(八支の聖道を知り、安穩涅槃に趣く)。
此歸依最勝、此歸依最尊(此の歸依は最勝なり、此の歸依は最尊なり)、
必因此歸依、能解脱衆苦(必ず此の歸依に因つて、能く衆苦を解脱す)。
世尊あきらかに一切衆生のためにしめしまします。衆生いたづらに所逼をおそれて、山神、鬼神等に歸依し、あるいは外道の制多に歸依することなかれ。かれはその歸依によりて衆苦を解脱することなし。おほよそ外道の邪教にしたがうて、
牛戒、鹿戒、羅刹戒、鬼戒、@(あ)戒、聾戒、狗戒、鷄戒、雉戒。以灰塗身、長髪爲相、以羊祠時、先呪後殺、四月事火、七日服風。百千億華供養諸天、諸所欲願、因此成就。如是等法、能爲解脱因者、無有是處。智者處不讃、唐苦無善報
(牛戒、鹿戒、羅刹戒、鬼戒、@(あ)戒、聾戒、狗戒、鷄戒、雉戒あり。灰を以て身に塗り、長髪もて相を爲し、羊を以て時を祠り、先に呪して後に殺す。四月火に事へ、七日風に服し、百千億の華もて諸天に供養し、諸の欲ふ所の願、此れに因りて成就すといふ。是の如き等の法、能く解脱の因なりと爲さば、是の處有ること無けん。智者の讃めざる所なり、唐しく苦しんで善報無し)。
かくのごとくなるがゆゑに、いたづらに邪道に歸せざらんこと、あきらかに甄究すべし。たとひこれらの戒にことなる法なりとも、その道理、もし孤樹、制多等の道理に符合せらば、歸依することなかれ。人身うることかたし、佛法あふことまれなり。いたづらに鬼神の眷屬として一生をわたり、むなしく邪見の流類として多生をすごさん、かなしむべし。はやく佛法僧三寶に歸依したてまつりて、衆苦を解脱するのみにあらず、菩提を成就すべし。
希有經云、教化四天下及六欲天、皆得四果、不如一人受三歸功徳
(四天下及び六欲天を教化して、皆な四果を得しむとも、一人の三歸を受くる功徳には如かじ)。
四天下とは、東西南北州なり。そのなかに、北州は三乘の化いたらざるところ。かしこの一切衆生を教化して阿羅漢となさん、まことにはなはだ希有なりとすべし。たとひその益ありとも、一人ををしへて三歸をうけしめん功徳にはおよぶべからず。また六天は、得道の衆生まれなりとするところなり。かれをして四果をえしむとも、一人の受三歸の功徳のおほくふかきにおよぶべからず。」(10)
- 「増一阿含經云、有@(とう)利天子、五衰相現、當生猪中。愁憂之聲、聞於天帝(増一阿含經に云く、@(とう)利天子有り、五衰の相現じて、當に猪の中に生ずべし。愁憂の聲、天帝聞えき)。
天帝聞之、喚來告曰、汝可歸依三寶(天帝之を聞きて、喚び來りて告げて曰く、汝、三寶に歸依すべし)。
即時如教、便免生猪(即時に教の如くせしに、便ち猪に生ずることを免れたり)。
佛説偈言(佛、偈を説いて言はく)、
諸有歸依佛(諸有、佛に歸依せば)、
不墜三惡道(三惡道に墜ちざらん)。
盡漏處人天(漏を盡くして人天に處し)、
便當至涅槃(便ち當に涅槃に至るべし)。
受三歸已、生長者家、還得出家、成於無學(三歸を受け已りて、長者の家に生じて、還た出家することを得て、無學を成ぜり)。
おほよそ歸依三寶の功徳、はかりはかるべきにあらず、無量無邊なり。」(11)
- 「この一段の因縁、天聖廣燈録にあり。しかあるに、參學のともがら、因果の道理をあきらめず、いたづらに撥無因果のあやまりあり。あはれむべし、澆風一扇して祖道陵替せり。不落因果はまさしくこれ撥無因果なり、これによりて惡趣に墮す。不昧因果はあきらかにこれ深信因果なり、これによりて聞くもの惡趣を脱す。あやしむべきにあらず、疑ふべきにあらず。近代參禪學道と稱ずるともがら、おほく因果を撥無せり。なにによりてか因果を撥無せりと知る、いはゆる不落と不昧と一等にしてことならずとおもへり、これによりて因果を撥無せりと知るなり。
第十九祖鳩摩羅多尊者曰、且善惡之報、有三時焉。凡人但見仁夭暴壽、逆吉義凶、便謂亡因果虚罪福。殊不知、影響相隨、毫釐靡@(たがう)。縱經百千萬劫、亦不磨滅(第十九祖鳩摩羅多尊者曰く、且く善惡の報に三時有り。凡そ人、但だ仁は夭に暴は壽く、逆は吉く義は凶なりとのみ見て、便ち因果を亡じ、罪福虚しと謂へり。殊に知らず、影響相隨ひて毫釐も@(たがう)ふこと靡きを。縱ひ百千萬劫を經とも、亦た磨滅せず)。
あきらかにしりぬ、曩祖いまだ因果を撥無せずといふことを。いまの晩進、いまだ祖宗の慈誨をあきらめざるは稽古のおろそかなるなり。稽古おろそかにしてみだりに人天の善知識と自稱するは、人天の大賊なり、學者の怨家なり。汝ち前後のともがら、亡因果のおもむきを以て、後學晩進のために語ることなかれ。これは邪説なり、さらに佛祖の法にあらず。汝等が疎學によりて、この邪見に墮せり。」(12)
- 「近代宋朝の參禪のともがら、もともくらきところ、ただ不落因果を邪見の説としらざるにあり。あはれむべし、如來の正法の流通するところ、祖祖正傳せるにあひながら、撥無因果の邪儻とならん。參學のともがら、まさにいそぎて因果の道理をあきらむべし。今百丈の不昧因果の道理は、因果にくらからずとなり。しかあれば、修因感果のむね、あきらかなり。佛佛祖祖の道なるべし。おほよそ佛法いまだあきらめざらんとき、みだりに人天のために演説することなかれ。」(13)
- 「龍樹祖師云、如外道人、破世間因果、則無今世後世。破出世因果、則無三寶、四諦、四沙門果(龍樹祖師云く、外道の人の如く、世間の因果を破せば、則ち今世後世無けん。出世の因果を破せば、則ち三寶、四諦、四沙門果無けん)。
あきらかにしるべし、世間出世の因果を破するは外道なるべし。今世なしといふは、かたちはこのところにあれども、性はひさしくさとりに歸せり、性すなはち心なり、心は身とひとしからざるゆゑに。かくのごとく解する、すなはち外道なり。あるいはいはく、人死するとき、かならず性海に歸す、佛法を修習せざれども、自然に覺海に歸すれば、さらに生死の輪轉なし。このゆゑに後世なしといふ。これ斷見の外道なり。かたちたとひ比丘にあひにたりとも、かくのごとくの邪解あらんともがら、さらに佛弟子にあらず。まさしくこれ外道なり。おほよそ因果を撥無するより、今世後世なしとはあやまるなり。因果を撥無することは、眞の知識に參學せざるによりてなり。眞知識に久參するがごときは、撥無因果等の邪解あるべからず。龍樹祖師の慈誨、深く信仰したてまつり、頂戴したてまつるべし。」(14)
- 「宏智古佛、かみの因縁を頌古するにいはく、
一尺水、一丈波(一尺の水、一丈の波)、
五百生前不奈何(五百生前奈何ともせず)。
不落不昧商量也(不落不昧商量するや)、
依前撞入葛藤@(か)(依前として葛藤@(か)に撞入す)。
阿呵呵。會也麼(阿呵呵。會也麼)。
若是*(なんじ)洒洒落落(若し是れ*(なんじ)洒洒落落たらば)、
不妨我&&(たた)和和(妨げず我が&&(たた)和和なるを)。
神歌社舞自成曲(神歌社舞自ら曲を成し)、
拍手其間唱哩#(ら)(其の間に拍手して哩#(ら)を唱ふ)。
いま不落不昧商量也、依前撞入葛藤*(か)の句、すなはち不落と不昧と、おなじかるべしといふなり。
おほよそこの因縁、その理、いまだつくさず。そのゆゑいかんとなれば、脱野狐身は、いま現前せりといへども、野狐身をまぬかれてのち、すなはち人間に生ずといはず、天上に生ずといはず、および餘趣に生ずといはず。人の疑ふところなり。脱野狐身のすなはち、善趣にうまるべくは天上人間にうまるべし、惡趣にうまるべくは四惡趣等にうまるべきなり。脱野狐身ののち、むなしく生處なかるべからず。もし衆生死して性海に歸し、大我に歸すといふは、ともにこれ外道の見なり。」(15)
- 「おほよそこの因縁に、頌古、拈古のともがら三十餘人あり。一人としても、不落因果是れ撥無因果なりと疑ふものなし。あはれむべし。このともがら、因果をあきらめず、いたづらに紛紜のなかに一生をむなしくせり。佛法參學には、第一因果をあきらむるなり。因果を撥無するがごときは、おそらくは猛利の邪見おこして、斷善根とならんことを。
おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造惡のものは墮し、修善のものはのぼる、毫釐もたがはざるなり。もし因果亡じ、むなしからんがごときは、諸佛の出世あるべからず、祖師の西來あるべからず、おほよそ衆生の見佛聞法あるべからざるなり。因果の道理は、孔子、老子等のあきらむるところにあらず。ただ佛佛祖祖、あきらめつたへましますところなり。澆季の學者、薄福にして正師にあはず、正法をきかず、このゆゑに因果をあきらめざるなり。撥無因果すれば、このとがによりて、@@(もうもう)蕩蕩として殃禍をうくるなり。撥無因果のほかに餘惡いまだつくらずといふとも、まづこの見毒はなはだしきなり。
しかあればすなはち、參學のともがら、菩提心をさきとして、佛祖の洪恩を報ずべくは、すみやかに諸因諸果をあきらむべし。」(16)
- 「鳩摩羅多尊者は、如來より第十九代の附法なり。如來まのあたり名字を記しまします。ただ釋尊一佛の法をあきらめ正傳せるのみにあらず、かねて三世の諸佛の法をも曉了せり。闍夜多尊者、いまの問をまうけしよりのち、鳩摩羅多尊者にしたがひて、如來の正法を修習し、つひに第二十代の祖師となれり。これもまた、世尊はるかに第二十祖は闍夜多なるべしと記しましませり。しかあればすなはち、佛法の批判、もともかくのごとくの祖師の所判のごとく習學すべし。いまのよに因果をしらず、業報をあきらめず、三世をしらず、善惡をわきまへざる邪見のともがらに群すべからず。
いはゆる、善惡之報有三時焉といふは、
三時、
一者順現法受。二者順次生受。三順後次受。
これを三時といふ。
佛祖の道を修習するには、その最初より、三時の業報の理をならひあきらむるなり。しかあらざれば、おほくあやまりて邪見に墮するなり。ただ邪見に墮するのみにあらず、惡道におちて長時の苦をうく。續善根せざるあひだは、おほくの功徳をうしなひ、菩提の道ひさしくさはりあり、をしからざらめや。この三時の業は、善惡にわたるなり。」(17)
- 「かくのごとくなるを、惡業の順現報受業となづく。おほよそ恩をえては報をこころざすべし、他に恩しては報をもとむることなかれ。いまも恩ある人を逆害をくはへんとせん、その惡業かならずうくべきなり。衆生ながくいまの樵人のこころなかれ。林外にして告別するには、いかがしてこの恩を謝すべきといふといへども、やまのふもとに獵師にあふては二分の肉をむさぼる。貪欲にひかれて大恩所を害す。在家出家、ながくこの不知恩のこころなかれ。惡業力のきるところ、兩手を斷ずること、刀劒のきるよりもはやし。」(18)
- 「いはく、人ありて、この生に、あるいは善にもあれ、あるいは惡にもあれ、造作しをはれりといへども、あるいは第三生、あるいは第四生、乃至百千生のあひだにも、善惡の業を感ずるを、順後次受業となづく。菩薩の三祇劫の功徳、おほく順後次受業なり。かくのごとくの道理しらざるがごときは、行者おほく疑心をいだく。いまの闍夜多尊者の在家のときのごとし。もし鳩摩羅多尊者にあはずは、そのうたがひ、とけがたからん。行者もし思惟それ善なれば、惡すなはち滅す。それ惡思惟すれば、善すみやかに滅するなり。」(19)
- 「この人いけるほど、つねに惡をつくり、さらに一善を修せざるのみにあらず、命終のとき、天趣の中有の現前せるをみて、順後次受をしらず、われ一生のあひだ惡をつくれりといへども、天趣にむまれんとす。はかりしりぬ、さらに善惡なかりけり。かくのごとく善惡を撥無する邪見力のゆゑに、天趣の中有たちまちに隱歿して、地獄の中有すみやかに現前し、いのちをはりて地獄におつ。これは邪見のゆゑに、天趣の中有かくるるなり。
しかあればすなはち、行者かならず邪見なることなかれ。いかなるか邪見、いかなるか正見と、かたちをつくすまで學習すべし。
まづ因果を撥無し、佛法を毀謗し、三世および解脱を撥無する、ともにこれ邪見なり。まさにしるべし、今生のわが身、ふたつなしみつなし。いたづらに邪見におちて、むなしく惡業を感得せん、をしからざらんや。惡をつくりながら惡にあらずとおもひ、惡の報あるべからずと邪思惟するによりて、惡報の感得せざるにはあらず。」(20)
- 「長沙景岑は南泉の願禪師の上足なり。久しく參學のほまれあり。ままに道得是あれども、いまの因縁は渾無理會得なり。ちかくは永嘉の語を會せず、つぎに鳩摩羅多の慈誨をあきらめず。はるかに世尊の所説、ゆめにもいまだみざるがごとし。佛祖の道處すべてつたはれずは、たれかなんぢを尊崇せん。
業障とは三障のなかの一障なり。いはゆる三障とは、業障、報障、煩惱障なり。業障とは五無間業をなづく。皓月が問、このこころなしといふとも、先來いひきたること、かくのごとし。皓月が問は、業不亡の道理によりて順後業のきたれるにむかふてとふところなり。長沙のあやまりは、如何是本來空と問するとき、業障是とこたふる、おほきなる僻見なり。業障なにとしてか本來空ならん。つくらずは業障ならじ。つくられば本來空にあらず。つくるはこれつくらぬなり。業障の當躰をうごさかずながら空なりといふは、すでにこれ外道の見なり。業障本來空なりとして放逸に造業せん、衆生さらに解脱の期あるべからず。解脱のひなくは、諸佛の出世あるべからず。諸佛の出世なくは、祖師西來すべからず。祖師西來せずは、南泉あるべからず。南泉なくは、たれかなんぢが參學眼を換却せん。また如何是業障と問するとき、さらに本來空是と答する、ふるくの縛馬答に相似なりといふとも、おもはくはなんぢ未了得の短才をもて久學の供奉に相對するがゆゑに、かくのごとくの狂言を發するなるべし。
のち偈にいはく、涅槃償債義、一性更無殊。
なんぢがいふ一性は什麼性なるぞ。三性のなかにいづれなりとかせん。おもふらくは、なんぢ性をしらず。涅槃償債義とはいかに。なんじがいふ涅槃はいづれの涅槃なりとかせん。聲聞の涅槃なりとやせん、支佛の涅槃なりとやせん、諸佛の涅槃なりとやせん。たとひいづれなりとも、償債義にひとしかるべからず。なんぢが道處さらに佛祖の道處にあらず。更買草鞋行脚(更に草鞋を買ひて行脚)すべし。師子尊者、二祖大師等、惡人のために害せられん、なんぞうたがふにたらん。最後身にあらず、無中有の身にあらず、なんぞ順後次受業のうくべきなからん。すでに後報のうくべきが熟するあらば、いまのうたがふところにあらざらん。あきらかにしりぬ、長沙いまだ三時業をあきらめずといふこと。參學のともがら、この三時業をあきらめんこと、鳩摩羅多尊者のごとくなるべし。すでにこれ祖宗の業なり、癈怠すべからず。」(21)
- 「この比丘を稱じて四禪比丘といふ、または無聞比丘と稱ず。四禪をえたるを四果と僻計せることをいましめ、また謗佛の邪見をいましむ。人天大會みなしれり。如來在世より今日にいたるまで、西天東地ともに是にあらざるを是と執せるをいましむとして、四禪をえて四果とおもふがごとしとあざける。
この比丘の不是、しばらく略して擧するに三種あり。第一には、みづから四禪と四果とを分別するにおよばざる無聞の身ながら、いたづらに師をはなれて、むなしく阿蘭若に獨處す。さいはひにこれ如來在世なり、つねに佛所に詣して、常恆に見佛聞法せば、かくのごとくのあやまりあるべからず。しかあるに、阿蘭若に獨處して佛所に詣せず、つねに見佛聞法せざるによりてかくのごとし。たとひ佛所に詣せずといふとも、諸大阿羅漢の處にいたりて、教訓を請ずべし。いたづらに獨處する、増上慢のあやまりなり。第二には、初禪をえて初果とおもひ、二禪をえて第二果とおもひ、三禪をえて第三果とおもひ、四禪をえて第四果とおもふ、第二のあやまりなり。初二三四禪の相と、初二三四果の相と、比類に及ばず。たとふることあらんや。これ無聞のとがによれり。師につかへず、くらきによれるとがなり。」(22)
- 「いまこの説によらば、いよいよ佛法と孔老とことなるべし。すでにこれ菩薩なり、佛果にひとしかるべからず。また和光應迹の功徳は、ひとり三世諸佛菩薩の法なり。俗人凡夫の所能にあらず、實業の凡夫、いかでか應迹に自在あらん。孔老いまだ應迹の説なし、いはんや孔老は、先因をしらず、當果をとかず。わづかに一世の忠をもて、君につかへ家ををさむる術をむねとせり、さらに後世の説なし。すでにこれ斷見の流類なるべし。莊老をきらふに、小乘なほしらず、いはんや大乘をやといふは上古の明師なり。三教一致といふは智圓、正受なり、後代澆季愚闇の凡夫なり。なんぢなんの勝出あればか、上古の先徳の所説をさみして、みだりに孔老と佛法とひとしかるべしといふ。なんだちが所見、すべて佛法の通塞を論ずるにたらず。負笈して明師に參學すべし、智圓、正受、なんぢら大小兩乘すべていまだしらざるなり。四禪をえて四果とおもふよりもくらし。悲しむべし、澆風のあふぐところ、かくのごとくの魔子おほかることを。」(23)
- 「莊子云、貴賎苦樂、是非得失、皆是自然。
この見、すでに西國の自然見の外道の流類なり、貴賎苦樂、是非得失、みなこれ善惡業の感ずるところなり。滿業、引業をしらず、過世、未世をあきらめざるがゆゑに現在にくらし、いかでか佛法にひとしからん。
あるがいはく、諸佛如來ひろく法界を證するゆゑに、微塵法界、みな諸佛如來の所證なり。しかあれば、依正二報ともに如來の所證となりぬるがゆゑに、山河大地、日月星辰、四倒三毒、みな如來の所證なり。山河をみるは如來をみるなり、三毒四倒佛法にあらずといふことなし。微塵をみるは法界をみるにひとし。造次顛沛、みな三菩提なり。これを大解脱といふ。これを單傳直指の祖道となづく。
かくのごとくいふともがら、大宋國に稻麻竹葦のごとく、朝野に遍滿せり。しかあれども、このともがら、たれ人の兒孫といふことあきらかならず、おほよそ佛祖の道をしらざるなり。たとひ諸佛の所證となるとも、山河大地たちまちに凡夫の所見なかるべきにあらず、諸佛の所證となる道理をならはず、きかざるなり。なんぢ微塵をみるは法界をみるにひとしといふ、民の王にひとしといはんがごとし。またなんぞ法界をみて微塵にひとしといはざる。もしこのともがらの所見を佛祖の大道とせば、諸佛出世すべからず、祖師出現すべからず、衆生得道すべからざるなり。たとひ生即無生と體達すとも、この道理にあらず。」(24)
- 「いま世尊の金言かくのごとし。東土愚闇の衆生、みだりに佛教に違背して、佛道とひとしきみちありといふことなかれ。すなはち謗佛謗法となるべきなり。西天の鹿頭ならびに論力、乃至長爪梵志、先尼梵志等は、博學のいたり、東土にむかしよりいまだなし、孔老さらに及ぶべからざるなり。これらみなみづからが道をすてて佛道に歸依す、いま孔老の俗人をもて佛法に比類せんは、きかんものもつみあるべし。いはんや阿羅漢、辟支佛も、みなつひに菩薩となる。一人としても小乘にしてをはるものなし。いかでかいまだ佛道にいらざる孔老を諸佛にひとしといはん。大邪見なるべし。」(25)
- 「これすなはち一百八法明門なり。一切の一生所繋の菩薩、都史多天より閻浮提に下生せんとするとき、かならずこの一百八法明門を、都史多天の衆のために敷揚して、諸天を化するは、諸佛の常法なり。
護明菩薩とは、釋迦牟尼佛、一生補處として第四天にましますときの名なり。李附馬、天聖廣燈録を撰するに、この一百八法明門の名字をのせたり。參學のともがら、あきらめしれるはすくなく、しらざるは稻麻竹葦のごとし。いま初心晩學のともがらのためにこれを撰す。師子の座にのぼり、人天の師となれらんともがら、審細參學すべし。この都史多天に一生所繋として住せざれば、さらに諸佛にあらざるなり。行者みだりに我慢することなかれ、一生所繋の菩薩は中有なし。」(26)
- 「佛言はく、復た次に舍利弗、菩薩摩訶薩、若し出家の日に、即ち阿耨多羅三藐三菩提を成じ、即ち是の日に轉法輪し、轉法輪の時、無量阿僧祇の衆生、遠塵離垢し、諸法の中に於て、法眼淨を得、無量阿僧祇の衆生、一切法不受を得るが故に、諸漏の心、解脱を得、無量阿僧祇の衆生、阿耨多羅三藐三菩提に於て、不退轉を得んと欲はば、當に般若波羅蜜を學すべし。
いはゆる學般若菩薩とは祖祖なり。しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提は、かならず出家即日に成熟するなり。しかあれども、三阿僧祇劫に修證し、無量阿僧祇に修證するに、有邊無邊に染汚するにあらず。學人しるべし。」(27)
(注)
- (1)「出家功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、277頁。@=心偏の橋(きょう)
- (2)同上、283頁。@=毛偏の掬(きく)
- (3)「袈裟功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、302頁。
- (4)「袈裟功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、310頁。
- (5)「袈裟功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、324頁。
- (6)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、340頁。
- (7)同上、341頁。@=女偏に尭(にょう)。
- (8)「供養諸仏」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、360頁。
- (9)同上、369頁。
- (10)「帰依仏法僧宝」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、375頁。 @=病垂に亞(あ)。
- (11)「帰依仏法僧宝」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、377頁。
@=心偏に刀(とう)
- (12)「深信因果」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、387頁。
@=人偏に爾(なんじ)
- (13)「深信因果」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、390頁。
- (14)同上、391頁。
- (15)「深信因果」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、392頁。
@=人偏に爾(なんじ)、*=穴冠に果(か)、&=口偏に多(た)、#=口偏に羅(ら)。
- (16)「深信因果」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、392頁。
@=さんずいに莽(もう)
- (17)「三時業」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、395頁。
- (18)同上、399頁。
- (19)「三時業」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、405頁。
- (20)「三時業」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、408頁。
- (21)「三時業」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、409頁。
- (22)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、419頁。
- (23)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、428頁。
- (24)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、430頁。
- (25)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、438頁。
- (26)「一百八法明門」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、450頁。
- (27)「出家功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、281頁。
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