もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
禅定重視=十二巻「正法眼蔵」
(A)禅定
十二巻本「正法眼蔵」
- 「龍樹菩薩言、
問曰、若居家戒、得生天上、得菩薩道、亦得涅槃。復何用出家戒(問うて曰く、居家戒の若きは、天上に生ずることを得、菩薩の道を得、亦た涅槃を得。復た何ぞ出家戒を用ゐんや)。
答曰、雖倶得度、然有難易。居家生業、種種事務。若欲專心道法家業則癈、若專修家業道事則癈。不取不捨、能應行法、是名爲難。若出家、離俗絶諸忿亂、一向專心行道爲易(答へて曰く、倶に得度すと雖も、然も難易有り。居家は生業、種種の事務あり。若し道法に專心せんと欲へば、家業則ち癈す、若し家業を專修すれば道事則ち癈す。取せず捨せずして能く應に法を行ずべし、是れを名づけて難と爲す。若し出家なれば、俗を離れて諸の忿亂を絶し、一向專心に行道するを易と爲す)。
復次居家、@(かい)鬧多事多務。結使之根、衆罪之府、是爲甚難。若出家者、譬若有人出在空野無人之處、而一其心、無心無慮。内想既除、外事亦去。如偈説(復た次に居家は、@(かい)鬧にして多事多務なり。結使の根、衆罪の府なり、是れを甚難と爲す。出家の若きは、譬へば、人有りて、出でて空野無人の處に在りて、其の心を一にして、心無く慮無きが若し。内想既に除こほり、外事亦た去りぬ。偈に説くが如し)。
閑坐林樹間、寂然滅衆惡(林樹の間に閑坐すれば、寂然として衆惡を滅す)、
恬澹得一心、斯樂非天樂(恬澹として一心を得たり、斯の樂は天の樂に非ず)。
人求富貴利、名衣好牀褥(人は富貴の利、名衣、好牀褥を求む)、
斯樂非安穩、求利無厭足(斯の樂は安穩に非ず、利を求むれば厭足無し)。
衲衣行乞食、動止心常一(衲衣にして乞食を行ずれば、動止、心、常に一なり)、
自以智慧眼、觀知諸法實(自ら智慧の眼を以て、諸法の實を觀知す)。
種種法門中、皆以等觀入(種種の法門の中に、皆な以て等しく觀入す)、
解慧心寂然、三界無能及(解慧の心寂然として、三界に能く及ぶもの無し)。
以是故知、出家修戒行道、爲甚易(是れを以ての故に知りぬ、出家して戒を修し行道するを、甚易なりと爲す)。
復次出家修戒、得無量善律儀、一切具足滿。以是故、白衣等應當出家受具足戒
(復た次に出家して戒を修すれば、無量の善律儀を得、一切具足して滿ず。是れを以ての故に、白衣等應當に出家して具足戒を受くべし)。
復次佛法中、出家法第一難修
(復た次に佛法の中には、出家の法第一に修し難し)。
如閻浮*(か)提梵志問舍利弗、於佛法中、何者最難
(閻浮*(か)提梵志の舍利弗に問ひしが如き、佛法の中に、何者か最も難き)。
舍利弗答曰、出家爲難(出家を難しと爲す)。
又問、出家有何等難(出家には何等の難きことか有る)。
答曰、出家内樂爲難(出家は内樂を難しと爲す)。
既得内樂、復次何者爲難(既に内樂を得ぬれば、復た次に何者をか難しと爲す)。
修諸善法難(諸の善法を修すること難し)。
以是故應出家(是れを以ての故に、應に出家すべし)。
復次若人出家時、魔王驚愁言、此人諸結使欲薄、必得涅槃、墮僧寶數中(復た次に若し人出家せん時、魔王驚愁して言く、此の人は諸の結使薄らぎなんず、必ず涅槃を得て、僧寶の數中に墮すべし)。
復次佛法中出家人、雖破戒墮罪、罪畢得解脱、如優鉢羅華比丘尼本生經中説(復た次に佛法の中の出家人は、破戒して墮罪すと雖も、罪畢りぬれば解脱を得ること、優鉢羅華比丘尼本生經の中に説くが如し)。
佛在世時、此比丘尼、得六神通阿羅漢。入貴人舍、常讃出家法、語諸貴人婦女言、姉妹、可出家(佛在世の時、此の比丘尼、六神通阿羅漢を得たり。貴人の舍に入りて、常に出家の法を讃めて、諸の貴人婦女に語りて言く、姉妹、出家すべし)。
諸貴婦女言、我等少壯、容色盛美、持戒爲難、或當破戒(諸の貴婦女言く、我等少壯して、容色盛美なり、持戒を難しと爲す、或いは當に破戒すべし)。
比丘尼言、破戒便破、但出家(戒を破らば便ち破すべし、但だ出家すべし)。
問言、破戒當墮地獄、云何可破(戒を破らば當に地獄に墮すべし、云何が破すべき)。
答言、墮地獄便墮(地獄に墮さば便ち墮すべし)。
諸貴婦女笑之言、地獄受罪、云何可墮(諸貴婦女、之を笑つて言く、地獄にては罪を受く、云何が墮すべき)。
比丘尼言、我自憶念本宿命時、作戲女、著種種衣服而説舊語。或時著比丘尼衣、以爲戲笑。以是因縁故、迦葉佛時、作比丘尼。自恃貴姓端正、心生&(きょう)慢、而破禁戒。破禁戒罪故、墮地獄受種種罪。受畢竟値釋迦牟尼佛出家、得六神通阿羅漢道
(比丘尼言く、我れ自ら本宿命の時を憶念するに、戲女と作り、種種の衣服を著して舊語を説きき。或る時比丘尼衣を著して、以て戲笑を爲しき。是の因縁を以ての故に、迦葉佛の時、比丘尼と作りぬ。自ら貴姓端正なるを恃んで、心に&(きょう)慢を生じ、而も禁戒を破りつ。禁戒を破りし罪の故に、地獄に墮して種種の罪を受けき。受け畢竟りて釋迦牟尼佛に値ひたてまつりて出家し、六神通阿羅漢道を得たり)。
以是故知、出家受戒、雖復破戒、以戒因縁故、得阿羅漢道。若但作惡無戒因縁、不得道也。我乃昔時、世世墮地獄、從地獄出爲惡人。惡人死還入地獄、都無所得。今以此證知、出家受戒、雖復破戒、以是因縁、可得道果
(是れを以ての故に知りぬ、出家受戒せば、復た破戒すと雖も、戒の因縁を以ての故に、阿羅漢道を得。若し但だ惡を作して戒の因縁無からんには、道を得ざるなり。我れ乃ち昔時、世世に地獄に墮し、地獄より出でては惡人爲り。惡人死して還た地獄に入りて、都て所得無かりき。今此れを以て證知す、出家受戒せば、復た破戒すと雖も、是の因縁を以て、道果を得べしといふことを)。
復次如佛在祇桓、有一醉婆羅門。來到佛所、求作比丘。佛敕阿難、與剃頭著法衣。醉酒既醒、驚怪己身忽爲比丘、即便走去
(復た次に佛、祇桓に在ししが如き、一りの醉婆羅門有りき。佛の所に來到りて比丘と作らんことを求む。佛、阿難に敕して、剃頭を與へ法衣を著せしむ。醉酒既に醒めて、己が身の忽ちに比丘と爲れるを驚怪し、即便ち走り去りぬ)。
諸比丘問佛、何以聽此婆羅門作比丘
(諸比丘、佛に問ひたてまつらく、何を以てか此の婆羅門を聽して比丘と作したまひしや)。
佛言、此婆羅門、無量劫中、初無出家心、今因醉後、暫發微心。以此因縁故、後當出家得道
(佛言はく、此の婆羅門は、無量劫の中にも、初めより出家の心無し、今醉に因るが故に、暫く微心を發せり。此の因縁を以ての故に、後に當に出家得道すべし)。
如是種種因縁、出家之功徳無量。以是白衣雖有五戒、不如出家
(是の如くの種種の因縁ありて、出家の功徳無量なり。是れを以て白衣に五戒有りと雖も、出家には如かず)。
世尊すでに醉婆羅門に出家受戒を聽許し、得道最初の下種とせしめまします。あきらかにしりぬ、むかしよりいまだ出家の功徳なからん衆生、ながく佛果菩提うべからず。この婆羅門、わづかに醉酒のゆゑに、しばらく微心をおこして剃頭受戒し、比丘となれり。酒醉さめざるあひだ、いくばくにあらざれども、この功徳を保護して、得道の善根を増長すべきむね、これ世尊誠諦の金言なり、如來出世の本懷なり。一切衆生あきらかに已今當の中に信受奉行したてまつるべし。まことにその發心得道、さだめて刹那よりするものなり。この婆羅門しばらくの出家の功徳、なほかくのごとし。いかにいはんやいま人間一生の壽者命者をめぐらして出家受戒せん功徳、さらに醉婆羅門よりも劣ならめやは。」(1)
- 「如來般涅槃時、迦葉菩薩、白佛言、世尊、如來具足知諸根力、定知善星當斷善根。以何因縁、聽其出家
(如來般涅槃したまひし時、迦葉菩薩、佛に白して言さく、世尊、如來は諸の根を知る力を具足したまふ、定んで善星當に善根を斷ずべきを知りたまひしならん。何の因縁を以てか、其の出家を聽したまひしや)。
佛言、善男子、我於往昔、初出家時、吾弟難陀、從弟阿難、調達多、子羅@(ご)羅、如是等輩、皆悉隨我出家修道。我若不聽善星出家、其人次當王得紹王位、其力自在、當壞佛法。以是因縁、我便聽其出家修道
(佛言はく、善男子、我れ往昔に於て、初めて出家せし時、吾が弟難陀、從弟阿難、調達多、子羅@(ご)羅、是の如き等の輩、皆な悉く我に隨つて出家修道せり。我れ若し善星が出家を聽さずは、其の人次に當に王として王位を紹ぐことを得て、其の力自在にして、當に佛法を壞るべし。是の因縁を以て、我れ便ち其の出家修道を聽しき)。
善男子、善星比丘、若不出家、亦斷善根、於無量世、都無利益。令出家已、雖斷善根、能受持戒、供養恭敬耆舊、長宿、有徳之人、修習初禪乃至四禪。是名善因。如是善因、能生善法。善法既生、能修習道。既修習道、當得阿耨多羅三藐三菩提。是故我聽善星出家。善男子、若我不聽善星比丘出家受戒、則不得稱我爲如來具足十力
(善男子、善星比丘若し出家せざるも、亦た善根を斷じ、無量世に於て都て利益無けん。出家せしめ已りぬれば、善根を斷ずと雖も、能く戒を受持し、耆舊、長宿、有徳の人を供養し恭敬し、初禪乃至四禪を修習す。是れを善因と名づく。是の如くの善因は、能く善法を生ず。善法既に生じぬれば、能く道を修習す。既に道を修習しぬれば、當に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。是の故に我れ善星が出家を聽しき。善男子、若し我れ善星比丘が出家受戒を聽さずは、則ち我れを稱して如來具足十力と爲すこと得じ)。
善男子、佛觀衆生、具足善法及不善法。是人雖具如是二法、不久能斷一切善根、具不善根。何以故、如是衆生、不親善友、不聽正法、不善思惟、不如法行。以是因縁、能斷善根、具不善根
(善男子、佛、衆生を觀じたまふに、善法と及び不善法とを具足す。是の人是の如くの二法を具すと雖も、久しからずして能く一切善根を斷じて不善根を具せん。何を以ての故に、是の如くの衆生は、善友に親しまず、正法を聽かず、善思惟せず、如法に行せず。是の因縁を以て、能く善根を斷じて不善根を具す)。
しるべし、如來世尊、あきらかに衆生の斷善根となるべきをしらせたまふといへども、善因をさづくるとして出家をゆるさせたまふ、大慈大悲なり。斷善根となること、善友にちかづかず、正法をきかず、善思惟せず、如法に行ぜざるによれり。いま學者、かならず善友に親近すべし、善友とは、諸佛ましますととくなり、罪福ありとをしふるなり。因果を撥無せざるを善友とし、善知識とす。この人の所説、これ正法なり。この道理を思惟する、善思惟なり。かくのごとく行ずる、如法行なるべし。
しかあればすなはち、衆生は親疎をえらばず、ただ出家受戒をすすむべし。のちの退不退をかへりみざれ、修不修をおそるることなかれ。これまさに釋尊の正法なるべし。」(2)
- 「その出家行法に四種あり。いはゆる四依なり。
一、盡形壽樹下坐。
二、盡形壽著糞掃衣。
三、盡形壽乞食。
四、盡形壽有病服陳棄藥。
共行此法、方名出家、方名爲僧。若不行此、不名爲僧。是故名出家行法(共に此の法を行ぜば、方に出家と名づけ、方に名づけて僧と爲す。若し此を行ぜずは、名づけて僧と爲さず。是の故に出家行法と名づく)。
いま西天東地、佛祖正傳するところ、これ出家行法なり。一生不離叢林なればすなはちこの四依の行法そなはれり、これを行四衣と稱ず。これに違して五依を建立せん、しるべし、邪法なり。たれか信受せん、たれか忍聽せん。佛祖正傳するところ、これ正法なり。これによりて出家する、人間最上最尊の慶幸なり。このゆゑに、西天竺國にすなはち難陀、阿難、調達、阿那律、摩訶男、拔提、ともにこれ師子頬王のむまご、刹利種姓のもとも尊貴なるなり、はやく出家せり。後代の勝躅なるべし。いま刹利にあらざらんともがら、そのみ、をしむべからず。王子にあらざらんともがら、なにのをしむところかあらん。閻浮提最第一の尊貴より、三界最第一の尊貴に歸するはすなはち出家なり。自餘の諸小國王、諸離車衆、いたづらにをしむべからざるををしみ、ほこるべからざるにほこり、とどまるべからざるにとどまりて出家せざらん、たれかつたなしとせざらん、たれか至愚なりとせざらん。」(3)
- 「四禪比丘、みづからが僻見をまこととして、如來の欺誑しましますと思ふ、ながく佛道を違背したてまつるなり。愚癡のはなはだしき、六師等にひとしかるべし。
古徳云、大師在世、尚有僻計生見之人、況滅後無師、不得禪者
(大師在世すら、尚ほ僻計生見の人有り、況んや滅後師無く、禪を得ざる者をや)。
いま大師とは佛世尊なり。まことに世尊在世、出家受具せる、なほ無聞によりては僻計生見の誤りのがれがたし。いはんや如來滅後、後五百歳、邊地下賎の時處、誤りなからんや。四禪を發せるもの、なほかくのごとし。いはんや四禪を發するに及ばず、いたづらに貪名愛利にしづめらんもの、官途世路を貪るともがら、不足言なるべし。いま大宋國に寡聞愚鈍のともがら多し、かれらがいはく、佛法と老子、孔子の法と、一致にして異轍あらず。」(4)
- (三十七菩提分法)
「四念処」
- 「身念處是れ法明門なり、諸法寂静なるが故に。
- 受念處是れ法明門なり、一切の諸受を斷ずるが故に。
- 心念處是れ法明門なり、心を觀ずること幻化の如きが故に。
- 法念處是れ法明門なり、智惠無翳なるが故に。
「四正勤・四如意足」
- 四正懃是れ法明門なり、一切惡を斷じて諸の善を成ずるが故に。
- 四如意足是れ法明門なり、身心輕きが故に。
「五根」
- 信根是れ法明門なり、他の語に隨はざるが故に。
- 精進根是れ法明門なり、善く諸の智を得るが故に。
- 念根是れ法明門なり、善く諸の業を作すが故に。
- 定根是れ法明門なり、心清淨なるが故に。
- 慧根是れ法明門なり、諸法を現見するが故に。
「五力」
- 信力是れ法明門なり、諸の魔の力に過ぐるが故に。
- 精進力是れ法明門なり、不退轉なるが故に。
- 念力是れ法明門なり、他と共ならざるが故に。
- 定力是れ法明門なり、一切の念を斷ずるが故に。
- 慧力是れ法明門なり、二邊を離るるが故に。
「七覚支」
- 念覺分是れ法明門なり、諸法智の如くなるが故に。
- 法覺分是れ法明門なり、一切諸法を照明するが故に。
- 精進覺分是れ法明門なり、善く知覺するが故に。
- 喜覺分是れ法明門なり、諸の定を得るが故に。
- 除覺分是れ法明門なり、所作已に辨ずるが故に。
- 定覺分是れ法明門なり、一切法平等を知るが故に。
- 捨覺分是れ法明門なり、一切の生を厭離するが故に。
「八正道」
- 正見是れ法明門なり、漏盡聖道を得るが故に。
- 正分別是れ法明門なり、一切の分別と無分別とを斷ずるが故に。
- 正語是れ法明門なり、一切の名字、音聲、語言は、響きの如しと知るが故に)。
- 正命是れ法明門なり、一切の惡道を除滅するが故に。
- 正行是れ法明門なり、彼岸に至るが故に。
- 正念是れ法明門なり、一切法を思念せざるが故に。
- 正定是れ法明門なり、無散亂三昧を得るが故に。
」(5)
- (六度、六波羅蜜)
「
- 檀度是れ法明門なり、念念に相好を成就し、佛土を莊嚴し、慳貪の諸の衆生を教化するが故に。
- 戒度是れ法明門なり、惡道の諸難を遠離し、破戒の諸の衆生を教化するが故に)。
- 忍度是れ法明門なり、一切の嗔恚、我慢、諂曲、調戲を捨し、是の如きの諸の惡衆生を教化するが故に。
- 精進度是れ法明門なり、悉く一切の諸の善法を得て、懈怠の諸の衆生を教化するが故に。
- 禪度是れ法明門なり、一切の禪定及び諸の神通を成就し、散亂の諸の衆生を教化するが故に。
- 智度是れ法明門なり、無明の黒暗及び諸見に著することを斷じ、愚癡の諸の衆生を教化するが故に。」(6)
(注)
- (1)「出家功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、265頁。 @=心偏に貴(かい)。*=口偏に去(か)。 &=心偏の橋(きょう)
- (2)「出家功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、288頁。@=目偏に侯(ご)。
- (3)同上、290頁。
- (4)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、425頁。
- (5)「一百八法明門」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、443頁。(原文は、漢文であるが、読み下しにした。また、原文には、1から108までの、番号、および、赤字の区分はないが、便宜上加えた。)
- (6)「一百八法明門」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、445頁。(原文は、漢文であるが、読み下しにした。また、原文には、1から108までの、番号、および、赤字の区分はないが、便宜上加えた。)
(B)修行せよ
十二巻本「正法眼蔵」
- 「轉輪聖王は八萬歳以上のときにいでて四州を統領せり、七寶具足せり。そのとき、この四州みな淨土のごとし。輪王の快樂、ことばのつくすべきにあらず。あるいは三千界統領するもありといふ、金銀銅鐵輪の別ありて、一二三四州の統領あり。かならず身に十惡なし。この轉輪聖王、かくのごときの快樂にゆたかなれども、かうべにひとすぢの白髪おひぬれば、くらゐを太子にゆづりて、わがみ、すみやかに出家し、袈裟を著して山林にいり、修練し、命終すればかならず梵天にむまる。このみづからがかうべの白髪を銀凾にいれて、王宮にをさめたり。のちの輪王に相傳す。のちの輪王、また白髪おひぬれば先王に一如なり。轉輪聖王の出家ののち、餘命のひさしきこと、いまの人にたくらぶべからず。すでに輪王八萬上といふ、その身に三十二相を具せり、いまの人およぶべからず。しかあれども、白髪をみて無常をさとり、白業を修して功徳を成就せんがために、かならず出家修道するなり。いまの諸王、轉輪聖王におよぶべからず。いたづらに光陰を貪欲の中にすごして出家せざるは、來世くやしからん。いはんや小國邊地は、王者の名あれども王者の徳なし、貪じてとどまるべからず。出家修道せば、諸天よろこびまぼるべし、龍神うやまひ保護すべし。諸佛の佛眼あきらかに證明し、隨喜しましまさん。」(1)
- 「諸佛是大人也、大人之所覺知、所以稱八大人覺也。覺知此法、爲涅槃因(諸佛は是れ大人也。大人の覺知する所、所以に八大人覺と稱ず。此の法を覺知するを、涅槃の因と爲)。
我本師釋迦牟尼佛、入般涅槃夜、最後之所説也(我が本師釋迦牟尼佛、入般涅槃したまひし夜の、最後の所説也)。
一者少欲。於彼未得五欲法中、不廣追求、名爲少欲
(一つには少欲。彼の未得の五欲の法の中に於て、廣く追求せざるを、名づけて少欲と爲す)。
佛言、汝等比丘、當知、多欲之人、多求利故、苦惱亦多。少欲之人、無求無欲、則無此患。直爾少欲尚應修習、何況少欲能生諸功徳。少欲之人、則無諂曲以求人意、亦復不爲諸根所牽。行少欲者、心則坦然、無所憂畏、觸事有餘、常無不足。有少欲者、則有涅槃、是名少欲
(佛言はく、汝等比丘、當に知るべし、多欲の人は、多く利を求むるが故に苦惱も亦た多し。少欲の人は、求むること無く欲無ければ則ち此の患ひ無し。直爾の少欲なるすら尚ほ應に修習すべし、何に況んや少欲の能く諸の功徳を生ずるをや。少欲の人は、則ち諂曲して以て人の意を求むること無く、亦復諸根に牽かれず。少欲を行ずる者は、心則ち坦然として、憂畏する所無し、事に觸れて餘あり、常に足らざること無し。少欲有る者は則ち涅槃有り。是れを少欲と名づく)。
二者知足。已得法中、受取以限、稱曰知足
(二つには知足。已得の法の中に、受取するに限りを以てするを、稱じて知足と曰ふ)。
佛言、汝等比丘、若欲脱諸苦惱、當觀知足。知足之法、即是富樂安穩之處。知足之人、雖臥地上猶爲安樂。不知足者、雖處天堂亦不稱意。不知足者、雖富而貧。知足之人、雖貧而富。不知足者、常爲五欲所牽、爲知足者之所憐愍。是名知足
(佛言はく、汝等比丘、若し諸の苦惱を脱れんと欲はば、當に知足を觀ずべし。知足の法は、即ち是れ富樂安穩の處なり。知足の人は、地上に臥すと雖も猶ほ安樂なりと爲す。不知足の者は、天堂に處すと雖も亦た意に稱はず。不知足の者は、富めりと雖も而も貧し。知足の人は、貧しと雖も而も富めり。不知足の者は、常に五欲に牽かれて、知足の者に憐愍せらる。是れを知足と名づく)。
三者樂寂靜。離諸&(かい) 鬧、獨處空閑、名樂寂靜
(三つには樂寂靜。諸の&(かい) 鬧を離れ、空閑に獨處するを、樂寂靜と名づく)。
佛言、汝等比丘、欲求寂靜無爲安樂、當離&(かい)鬧獨處閑居。靜處之人、帝釋諸天、所共敬重。是故當捨己衆他衆、空閑獨處、思滅苦本。若樂衆者、則受衆惱。譬如大樹衆鳥集之、則有枯折之患。世間縛著沒於衆苦、辟如老象溺泥、不能自出。是名遠離
(佛言はく、汝等比丘、寂靜無爲の安樂を求めんと欲はば、當に&(かい)鬧を離れて獨り閑居に處すべし。靜處の人は、帝釋諸天、共に敬重する所なり。是の故に當に己衆他衆を捨して、空閑に獨處し、苦本を滅せんことを思ふべし。若し衆を樂はん者は、則ち衆惱を受く。譬へば、大樹の、衆鳥之に集まれば、則ち枯折の患有るが如し。世間の縛著は衆苦に沒す、辟へば老象の泥に溺れて、自ら出ること能はざるが如し。是れを遠離と名づく)。
四者懃精進。於諸善法、懃修無間、故云精進。精而不雜、進而不退
(四つには懃精進。諸の善法に於て、懃修すること無間なり、故に精進と云ふ。精にして雜ならず、進んで退かず)。
佛言、汝等比丘、若勤精進、則事無難者。是故汝等當勤精進。辟如小水常流、則能穿石。若行者之心數數懈癈、譬如鑽火未熱而息、雖欲得火、火難可得。是名精進
(佛言はく、汝等比丘、若し勤精進すれば、則ち事として難き者無し。是の故に汝等當に勤精進すべし。辟へば小水の常に流るれば、則ち能く石を穿つが如し。若し行者の心數數懈癈せんには、譬へば火を鑽るに未だ熱からざるに而も息めば、火を得んと欲ふと雖も、火を得べきこと難きが如し。是れを精進と名づく)。
五者不忘念。亦名守正念。守法不失、名爲正念。亦名不忘念
(五つには不忘念。亦た守正念と名づく。法を守つて失せざるを、名づけて正念と爲。亦た不忘念と名づく)。
佛言、汝等比丘、求善知識、求善護助、無如不忘念。若有不忘念者、諸煩惱賊則不能入。是故汝等、常當攝念在心。若失念者則失諸功徳。若念力堅強、雖入五欲賊中、不爲所害。譬如著鎧入陣、則無所畏。是名不忘念
(佛言はく、汝等比丘、善知識を求め、善護助を求むるは、不忘念に如くは無し。若し不忘念有る者は、諸の煩惱の賊則ち入ること能はず。是の故に汝等、常に念を攝めて心に在らしむべし。若し念を失せば則ち諸の功徳を失す。若し念力堅強なれば、五欲の賊の中に入ると雖も爲に害せられず。譬へば鎧を著て陣に入れば、則ち畏るる所無きが如し。是れを不忘念と名づく)。
六者修禪定。住法不亂、名曰禪定
(六つには修禪定。法に住して亂れず、名づけて禪定と曰ふ)。
佛言、汝等比丘、若攝心者、心則在定。心在定故、能知世間生滅法相。是故汝等、常當精勤修習諸定。若得定者、心則不散。譬如惜水之家、善治堤塘。行者亦爾、爲智惠水故、善修禪定、令不漏失。是名爲定
(佛言はく、汝等比丘、若し心を攝むれば、心則ち定に在り。心、定に在るが故に、能く世間生滅の法相を知る。是の故に汝等、常に當に精勤して諸の定を修習すべし。若し定を得ば、心則ち散ぜず。譬へば水を惜しむ家の、善く堤塘を治むるが如し。行者も亦た爾り、智惠の水の爲の故に、善く禪定を修して漏失せざらしむ。是れを名づけて定と爲す)。
七者修智惠。起聞思修證爲智惠
(七つには修智惠。聞思修證を起すを智惠と爲す)。
佛言、汝等比丘、若有智惠則無貪著、常自省察不令有失。是則於我法中能得解脱。若不爾者、既非道人、又非白衣、無所名也。實智惠者則是度老病死海堅牢船也、亦是無明黒暗大明燈也、一切病者之良藥也、伐煩惱樹之利斧也。是故汝等當以聞思修慧、而自増益。若人有智惠之照、雖是肉眼、而是明眼人也。是爲智惠
(佛言はく、汝等比丘、若し智惠有れば則ち貪著無し、常に自ら省察して失有らしめず。是れ則ち我が法の中に於て能く解脱を得。若し爾らずは、既に道人に非ず、又白衣に非ず、名づくる所なし。實智惠は則ち是れ老病死海を度る堅牢の船なり、亦た是れ無明黒暗の大明燈なり、一切病者の良藥なり、煩惱の樹を伐る利斧なり。是の故に汝等當に聞思修慧を以て而も自ら増益すべし。若し人智惠の照あらば、是れ肉眼なりと雖も、而も是れ明眼の人なり。是れを智惠と爲す)。
八者不戲論。證離分別、名不戲論。究盡實相、乃不戲論
(八つには不戲論。證して分別を離るるを、不戲論と名づく。實相を究盡す、乃ち不戲論なり)。
佛言、汝等比丘、若種種戲論、其心則亂。雖復出家猶未得脱。是故比丘、當急捨離亂心戲論。汝等若欲得寂滅樂者、唯當善滅戲論之患。是名不戲論
(佛言はく、汝等比丘、若し種種の戲論あらば、其の心則ち亂る。復た出家すと雖も猶ほ未だ得脱せず。是の故に比丘、當に急ぎて亂心と戲論とを捨離すべし。汝等若し寂滅の樂を得んと欲はば、唯當に善く戲論の患を滅すべし。是れを不戲論と名づく)。
これ八大人覺なり。一一各具八、すなはち六十四あるべし。ひろくするときは無量なるべし、略すれば六十四なり。
大師釋尊、最後之説、大乘之所教誨。二月十五日夜半の極唱、これよりのち、さらに説法しましまさず、つひに般涅槃しまします。
佛言、汝等比丘、常當一心勤求出道。一切世間動不動法、皆是敗壞不安之相。汝等且止、勿得復語。時將欲過、我欲滅度、是我最後之所教誨(佛言はく、汝等比丘、常に當に一心に勤めて出道を求むべし。一切世間の動不動の法は、皆な是れ敗壞不安の相なり。汝等且く止みね、復た語ふこと得ること勿れ。時將に過ぎなんとす、我れ滅度せんとす。是れ我が最後の教誨する所なり)。
このゆゑに、如來の弟子は、かならずこれを習學したてまつる。これを修習せず、しらざらんは佛弟子にあらず。これ如來の正法眼藏涅槃妙心なり。しかあるに、いましらざるものはおほく、見聞せることあるものはすくなきは、魔@(にょう)によりてしらざるなり。また宿殖善根すくなきもの、きかず、みず。むかし正法、像法のあひだは、佛弟子みなこれをしれり、修習し參學しき。いまは千比丘のなかに、一兩この八大人覺しれる者なし。あはれむべし、澆季の陵夷、たとふるにものなし。如來の正法、いま大千に流布して、白法いまだ滅せざらんとき、いそぎ習學すべきなり、緩怠なることなかれ。
佛法にあふたてまつること、無量劫にかたし。人身をうること、またかたし。たとひ人身をうくといへども、三洲の人身よし。そのなかに、南洲の人身すぐれたり。見佛聞法、出家得道するゆゑなり。如來の般涅槃よりさきに涅槃にいり、さきだちて死せるともがらは、この八大人覺をきかず、ならはず。いまわれら見聞したてまつり、習學したてまつる、宿殖善根のちからなり。いま習學して生生に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれをとかんこと、釋迦牟尼佛にひとしくしてことなることなからん。」(2)
(注)
- (1)「出家功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、271頁。
- (2)「八大人覚」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、451頁-457頁。
@=女偏に尭(にょう)、&=心偏に貴(かい)
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