もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
自覚なき心=十二巻「正法眼蔵」
- 修行しない者には、自覚できない心の様子がある。
- 経典を読んでわかっているつもりでも、悟道しない者は、実に知っているのではなく、それも、信の枠内である。
- 悟道の人しかわからない心の真相がある。
(a)自覚なき心
「正法眼蔵」
- 「しるべし、今生の人身は、四大五蘊、因縁和合してかりになせり、八苦つねにあり。いはんや刹那刹那に生滅してさらにとどまらず、いはんや一彈指のあひだに六十五の刹那生滅すといへども、みづからくらきによりて、いまだしらざるなり。すべて一日夜があひだに、六十四億九万九千九百八十の刹那ありて五蘊生滅すといへども、しらざるなり。あはれむべし、われ生滅すといへども、みづからしらざること。この刹那生滅の量、ただ佛世尊ならびに舍利弗とのみしらせたまふ。餘聖おほかれども、ひとりもしるところにあらざるなり。この刹那生滅の道理によりて、衆生すなはち善惡の業をつくる、また刹那生滅の道理によりて、衆生發心得道す。」(1)
- 「世尊告智光比丘言、法衣得十勝利(世尊、智光比丘に告げて言はく、法衣は十勝利を得)。
一者、能覆其身、遠離羞耻、具足慚愧、修行善法。
(一つには、能く其の身を覆うて、羞耻を遠離し、慚愧を具足して、善法を修行す。)
二者、遠離寒熱及以蚊蟲惡獸毒蟲、安穩修道。
(二つには、寒熱及以び蚊蟲惡獸毒蟲を遠離して、安穩に修道す。)
三者、示現沙門出家相貌、見者歡喜、遠離邪心。
(三つには、沙門出家の相貌を示現し、見る者歡喜して、邪心を遠離す。)
四者、袈裟即是人天寶幢之相、尊重敬禮、得生梵天。
(四つには、袈裟は即ち是れ人天の寶幢の相なり、尊重し敬禮すれば、梵天に生ずることを得。)
五者、著袈裟時、生寶幢想、能滅衆罪、生諸福徳。
(五つには、著袈裟の時、寶幢の想を生ぜば、能く衆罪を滅し、諸の福徳を生ず。)
六者、本制袈裟、染令壞色、離五欲想、不生貪愛。
(六つには、本制の袈裟は、染めて壞色ならしむ、五欲の想を離れ、貪愛を生ぜず。)
七者、袈裟是佛淨衣、永斷煩惱、作良田故。
(七つには、袈裟は是れ佛の淨衣なり、永く煩惱を斷じて、良田と作るが故に。)
八者、身著袈裟、罪業消除、十善業道、念念増長。
(八つには、身に袈裟を著せば、罪業消除し、十善業道、念念に増長す。)
九者、袈裟猶如良田、能善増長菩薩道故。
(九つには、袈裟は猶ほ良田の如し、能善く菩薩の道を増長するが故に。)
十者、袈裟猶如甲冑、煩惱毒箭、不能害故。
(十には、袈裟は猶ほ甲冑の如し、煩惱の毒箭、害すること能はざるが故に。)
智光當知、以是因縁、三世諸佛、縁覺聲聞、清淨出家、身著袈裟、三聖同坐解脱寶牀。執智慧劔、破煩惱魔、共入一味諸涅槃界
(智光當に知るべし、是の因縁を以て、三世の諸佛、縁覺聲聞、清淨の出家、身に袈裟を著して、三聖同じく解脱の寶牀に坐す。智慧の劔を執り、煩惱の魔を破り、共に一味の諸の涅槃界に入る)。
爾時世尊、而説偈言(爾の時に世尊、而も偈を説いて言く)、
智光比丘應善聽(智光比丘應に善く聽くべし)、
大福田衣十勝利(大福田衣に十勝利あり)。
世間衣服増欲染(世間の衣服は欲染を増す)
、
如來法服不如是(如來の法服は是の如くならず)。
法服能遮世羞耻(法服は能く世の羞耻を遮り)、
慚愧圓滿生福田(慚愧圓滿して福田を生ず)。
遠離寒熱及毒蟲(寒熱及び毒蟲を遠離して)、
道心堅固得究竟(道心堅固にして究竟を得)。
示現出家離貪欲(出家を示現して貪欲を離れ)、
斷除五見正修行(五見を斷除して正修行す)。
瞻禮袈裟寶幢相(袈裟寶幢の相を瞻禮し)、
恭敬生於梵王福(恭敬すれば梵王の福を生ず)。
佛子披衣生塔想(佛子披衣しては塔想を生ずべし)、
生福滅罪感人天(福を生じ罪を滅し人天を感ず)。
肅容致敬眞沙門(肅容致敬すれば眞の沙門なり)、
所爲諸不染塵俗(所爲諸の塵俗に不染なり)。
諸佛稱讃爲良田(諸佛稱讃して良田と爲したまふ)、
利樂郡生此爲最(郡生を利樂するには此れを最れたりと爲す)。
袈裟神力不思議(袈裟の神力不思議なり)、
能令修植菩提行(能く菩提の行を修植せしむ)。
道芽増長如春苗(道の芽の増長することは春の苗の如く)、
菩提妙果類秋實(菩提の妙果は秋の實に類たり)。
堅固金剛眞甲冑(堅固金剛の眞甲冑なり)、
煩惱毒箭不能害(煩惱の毒箭も害すること能はず)。
我今略讃十勝利(我今略して十勝利を讃む)、
歴劫廣説無有邊(歴劫に廣説すとも邊あること無けん)。
若有龍身披一縷(若し龍有りて身に一縷を披せば)、
得脱金翅鳥王食(金翅鳥王の食を脱るることを得ん)。
若人渡海持此衣(若し人海を渡らんに、此の衣を持せば)、
不怖龍魚諸鬼難(龍魚諸鬼の難を怖れじ)。
雷電霹靂天之怒(雷電霹靂して天の怒りあらんにも)、
披袈裟者無恐畏(袈裟を披たる者は恐畏無けん)。
白衣若能親捧持(白衣若し能く親しく捧持せば)、
一切惡鬼無能近(一切の惡鬼能く近づくこと無けん)。
若能發心求出家(若し能く發心して出家を求め)、
厭離世間修佛道(世間を厭離して佛道を修せば)、
十方魔宮皆振動(十方の魔宮皆な振動し)、
是人速證法王身(是の人速やかに法王の身を證せん)。
この十勝利、ひろく佛道のもろもろの功徳を具足せり。長行偈頌にあらゆる功徳、あきらかに參學すべし。披閲してすみやかにさしおくことなかれ。句句にむかひて久參すべし。この勝利は、ただ袈裟の功徳なり、行者の猛利恆修のちからにあらず。
佛言、袈裟神力不思議。
いたづらに凡夫賢聖のはかりしるところにあらず。
おほよそ速證法王身のとき、かならず袈裟を著せり。袈裟を著せざるものの法王身を證せること、むかしよりいまだあらざるところなり。その最第一清淨の衣財は、これ糞掃衣なり。その功徳、あまねく大乘小乘の經律論のなかにあきらかなり。廣學諮問すべし。その餘の衣財、またかねあきらむべし。佛佛祖祖、かならずあきらめ、正傳しましますところなり、餘類のおよぶべきにあらず。
」(2)
- 「心および諸法、ともに自・他・共・無因にあらざるがゆゑに、もし一刹那この菩提心をおこすより、萬法みな増上縁となる。おほよそ發心、得道、みな刹那生滅するによるものなり。もし刹那生滅せずは、前刹那の惡さるべからず。前刹那の惡いまださらざれば、後刹那の善いま現生すべからず。この刹那の量は、ただ如來ひとりあきらかにしらせたまふ。一刹那心、能起一語、一刹那語、能説一字(一刹那の心、能く一語を起し、一刹那の語、能く一字を説く)も、ひとり如來のみなり。余二乗不能なり。」(3)
- 「おほよそ壯士の一彈指のあひだに、六十五の刹那ありて五蘊生滅すれども、凡夫かつて不覺不知なり。怛刹那の量よりは、凡夫もこれをしれり。一日一夜をふるあひだに、六十四億九万九千九百八十の刹那ありて、五蘊ともに生滅す。しかあれども、凡夫かつて覺知せず。覺知せざるがゆゑに菩提心をおこさず。佛法をしらず、佛法を信ぜざるものは、刹那生滅の道理を信ぜざるなり。もし如來の正法眼藏涅槃妙心をあきらむるがごときは、かならずこの刹那生滅の道理を信ずるなり。いまわれら如來の説教にあふたてまつりて、曉了するににたれども、わづかに怛刹那よりこれをしり、その道理しかあるべしと信受するのみなり。世尊所説の一切の法、あきらめずしらざることも、刹那量をしらざるがごとし。學者みだりに貢高することなかれ。極少をしらざるのみにあらず、極大をもまたしらざるなり。もし如來の道力によるときは、衆生また三千界をみる。おほよそ本有より中有にいたり、中有より當本有にいたる、みな一刹那一刹那にうつりゆくなり。かくのごとくして、わがこころにあらず、業にひかれて流轉生死すること、一刹那もとどまらざるなり。かくのごとく流轉生死する身心をもて、たちまちに自未得度先度他の菩提心をおこすべきなり。たとひ發菩提心のみちに身心ををしむとも、生老病死して、つひに我有なるべからず。」(4)
- 「この比丘、はじめ生見のあやまりあれど、殺害の狼藉をみるにおそりを生ず。ときにわれ羅漢にあらずとおもふ、なほ第三果なるべしとおもふあやまりあり。のちに細滑の想によりて愛欲心を生ずるに、阿那含にあらずとしる、さらに謗佛のおもひを生ぜず、謗法のおもひなし、聖教にそむくおもひあらず。四禪比丘にはひとしからず。この比丘は、聖教を習學せるちからあるによりて、みづから阿羅漢にあらず、阿那含にあらずとしるなり。いまの無聞のともがらは、阿羅漢はいかなりともしらず、佛はいかなりともしらざるがゆゑに、みづから阿羅漢にあらず、佛にあらずともしらず、みだりにわれは佛なりとのみおもひいふは、おほきなるあやまりなり、ふかきとがあるべし。學者まづすべからく佛はいかなるべしとならふべきなり。
古徳云、習聖教者、薄知次位、縱生逾濫、亦易開解(聖教を習ふ者、薄次位を知るは、縱逾濫を生ずれども、亦た開解し易し)。
まことなるかな、古徳の言。たとひ生見のあやまりありとも、すこしきも佛法を習學せらんともがらは、みづからに欺誑せられじ、他人にも欺誑せられじ。」(5)
- 「第十四祖龍樹菩薩云、大阿羅漢辟支佛知八萬大劫、諸大菩薩及佛知無量劫(大阿羅漢辟支佛は、八萬大劫を知り、諸大菩薩及び佛は無量劫を知りたまふ)。
孔老等、いまだ一世中の前後をしらず、一生二生の宿通あらんや。いかにいはんや一劫をしらんや、いかにいはんや百劫千劫をしらんや、いかにいはんや八萬大劫をしらんや、いかにいはんや無量劫をしらんや。この無量劫をあきらかにてらししれること、たなごころをみるよりもあきらかなる諸佛菩薩を、孔老等に比類せん、愚闇といふにもたらざるなり。耳をおほうて三教一致の言をきくことなかれ。邪説中最邪説なり。」(6)
(注)
- (1)「出家功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、274頁。
- (2)「袈裟功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、324頁。
- (3)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、335頁。
- (4)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、336頁。(2)に連続する。
- (5)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、422頁。
- (6)同上、429頁。
(b)心の微妙な実相
「正法眼蔵」
- 「いはく、人ありて、この生に、あるいは善にもあれ、あるいは惡にもあれ、造作しをはれりといへども、あるいは第三生、あるいは第四生、乃至百千生のあひだにも、善惡の業を感ずるを、順後次受業となづく。菩薩の三祇劫の功徳、おほく順後次受業なり。かくのごとくの道理しらざるがごときは、行者おほく疑心をいだく。いまの闍夜多尊者の在家のときのごとし。もし鳩摩羅多尊者にあはずは、そのうたがひ、とけがたからん。行者もし思惟それ善なれば、惡すなはち滅す。それ惡思惟すれば、善すみやかに滅するなり。」(1)
- 「この人いけるほど、つねに惡をつくり、さらに一善を修せざるのみにあらず、命終のとき、天趣の中有の現前せるをみて、順後次受をしらず、われ一生のあひだ惡をつくれりといへども、天趣にむまれんとす。はかりしりぬ、さらに善惡なかりけり。かくのごとく善惡を撥無する邪見力のゆゑに、天趣の中有たちまちに隱歿して、地獄の中有すみやかに現前し、いのちをはりて地獄におつ。これは邪見のゆゑに、天趣の中有かくるるなり。
しかあればすなはち、行者かならず邪見なることなかれ。いかなるか邪見、いかなるか正見と、かたちをつくすまで學習すべし。
まづ因果を撥無し、佛法を毀謗し、三世および解脱を撥無する、ともにこれ邪見なり。まさにしるべし、今生のわが身、ふたつなしみつなし。いたづらに邪見におちて、むなしく惡業を感得せん、をしからざらんや。惡をつくりながら惡にあらずとおもひ、惡の報あるべからずと邪思惟するによりて、惡報の感得せざるにはあらず。」(2)
- 「しかあるを、學者くらきによりて諸佛にひとしむる、迷中深迷なり。孔老は三世をしらず、多劫をしらざるのみにあらず、一念しるべからず、一心しるべからず。なほ日月天に比すべからず、四大王、衆天に及ぶべからざるなり。世尊に比するは、世間出世間に迷惑せるなり。」(3)
(注)
- (1)「三時業」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、405頁。
- (2)同上、408頁。
- (3)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、434頁。
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