もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー現代の仏教を考える会

 
仏教学・禅学の批判

「悟り」否定か=十二巻「正法眼蔵」

 次の言葉が道元が「悟り」を否定した根拠として引用されます。しかし、私はそうは思いません。この巻の趣旨、この文の前後を慎重に考察すればわかることです。

(A)「悟り」否定か

「正法眼蔵」


(参考=三教一致)
 「しかあるを、近來大宋國杜撰のともがら、落處をしらず、寶所をみず。實相の言を虚説のごとくし、さらに老子莊子の言句を擧す。これをもて、佛祖の大道に一齊なりといふ。また三教は一致なるべしといふ。あるいは三教は鼎の三脚のごとし、ひとつもなければくつがへるべしといふ。愚癡のはなはだしき、たとへをとるに物あらず。
 かくのごときのことばあるともがらも佛法をきけりと、ゆるすべからず。ゆゑいかんとなれば、佛法は西天を本とせり。在世八十年、説法五十年、さかりに人天を化す。化一切衆生、皆令入佛道なり。それよりこのかた、二十八祖正傳せり。これをさかりなるとし、微妙最尊なるとせり。もろもろの外道天魔、ことごとく降伏せられをはりぬ。成佛作佛する人天、かずをしらず。しかあれども、いまだ儒教道教を震旦國にとぶらはざれば、佛道の不足といはず。もし決定して三教一致ならば、佛法出現せんとき、西天に儒宗道教等も同時に出現すべし。しかあれども、佛法は天上天下唯我獨尊なり。かのときの事、おもひやるべし、わすれあやまるべからず。三教一致のことば、小兒子の言音におよばず、壞佛法のともがらなり。かくのごとくのともがらのみおほきなり。あるいは人天の導師なるよしを現じ、あるいは帝王の師匠となれり。大宋佛法衰薄の時節なり。先師古佛、ふかくこのことをいましめき。」(1)

  • 「また杜撰のともがらいはく、道教儒教釋教、ともにその極致は一揆なるべし。しばらく入門の別あるのみなり。あるいはこれを鼎の三脚にたとふ。これいまの大宋國の諸僧のさかりに談ずるむねなり。もしかくのごとくいはば、これらのともがらがうへには、佛法すでに地をはらうて滅沒せり。また佛法かつて微塵のごとくばかりもきたらずといふべし。かくのごとくのともがら、みだりに佛法の通塞を道取せんとして、あやまりて佛經は不中用なり、祖師の門下に別傳の宗旨ありといふ。少量の機根なり。佛道の邊際をうかがはざるゆゑなり。佛經もちゐるべからずといはば、祖經あらんとき、もちゐるや、もちゐるべからずや。祖道に佛經のごとくなる法おほし。用捨いかん。もし佛道のほかに祖道ありといはば、たれか祖道を信ぜん。祖師の祖師とあることは、佛道を正傳するによりてなり。佛道を正傳せざらん祖師、たれか祖師といはん。初祖を崇敬することは、第二十八祖なるゆゑなり。佛道のほかに祖道をいはば、十祖二十祖たてがたからん。嫡嫡相承するによりて、祖師を恭敬するゆゑは、佛道のおもきによりてなり。佛道を正傳せざらん祖師は、なんの面目ありてか人天と相見せん。いはんやほとけをしたふしふかきこころざしをるがへして、あらたに佛道にあらざらん祖師にしたがひがたきなり。」(2)
     
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