もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
[一つを取る説]目次
[捨てられた言葉]目次
仏教学・禅学の批判
悟道の強調ー十二巻「正法眼蔵」
道元禅師は悟道を強調する。道元禅師が引用するように、初期仏教でも同じである。だが、悟道、解脱すれば、それだけでいいとは、初期仏教でも、道元禅師でも言わない。現代の禅は、変質した中国禅の影響(堕落、後退している)を受けている。
仏になるということを仏教経典や道元禅師がいう。自分を満足させる何かを得たくらいで、慢心してはならないであろう。
それでも、悟道は、重要である。大乗仏教では、これを得て「不退転」になるとされる。
(A)悟道の強調
「正法眼蔵」
- 「世尊言、南州有四種最勝。一見佛、二聞法、三出家、四得道
(南州に四種の最勝有り。一に見佛、二に聞法、三に出家、四に得道)。
あきらかにしるべし、この四種最勝、すなはち北州にもすぐれ、諸天にもすぐれたり。いまわれら宿善根力にひかれて最勝の身をえたり、歡喜隨喜して出家受戒すべきものなり。最勝の善身をいたづらにして、露命を無常の風にまかすることなかれ。出家の生生をかさねば、積功累徳ならん。」(1)
- 「しるべし、今生の人身は、四大五蘊、因縁和合してかりになせり、八苦つねにあり。いはんや刹那刹那に生滅してさらにとどまらず、いはんや一彈指のあひだに六十五の刹那生滅すといへども、みづからくらきによりて、いまだしらざるなり。すべて一日夜があひだに、六十四億九万九千九百八十の刹那ありて五蘊生滅すといへども、しらざるなり。あはれむべし、われ生滅すといへども、みづからしらざること。この刹那生滅の量、ただ佛世尊ならびに舍利弗とのみしらせたまふ。餘聖おほかれども、ひとりもしるところにあらざるなり。この刹那生滅の道理によりて、衆生すなはち善惡の業をつくる、また刹那生滅の道理によりて、衆生發心得道す。」(2)
- 「かくのごとく生滅する人身なり、たとひをしむともとどまらじ。むかしよりをしんでとどまれる一人いまだなし。かくのごとくわれにあらざる人身なりといへども、めぐらして出家受戒するがごときは、三世の諸佛の所證なる阿耨多羅三藐三菩提、金剛不壞の佛果を證するなり。たれの智人か欣求せざらん。これによりて、過去日月燈明佛の八子、みな四天下を領する王位をすてて出家す。大通智勝佛の十六子、ともに出家せり。大通入定のあひだ、衆のために法華をとく、いまは十方の如來となれり。父王轉輪聖王の所將衆中八萬億人も、十六王子の出家をみて出家をもとむ、輪王すなはち聽許す。妙莊嚴の二子ならびに父王、夫人、みな出家せり。」(3)
- 「婆沙一百二十云、發心出家尚名聖者、況得忍法
(發心出家するすら尚ほ聖者と名づく、況んや忍法を得んや)。
しるべし、發心出家すれば聖者となづくるなり。」(4)
- 「佛言、復次舍利弗、菩薩摩訶薩、若欲出家日、即成阿耨多羅三藐三菩提、即是日轉法輪、轉法輪時、無量阿僧祇衆生、遠塵離垢、於諸法中、得法眼淨、無量阿僧祇衆生、得一切法不受故、諸漏心得解脱、無量阿僧祇衆生、於阿耨多羅三藐三菩提、得不退轉、當學般若波羅蜜
(佛言はく、復た次に舍利弗、菩薩摩訶薩、若し出家の日に、即ち阿耨多羅三藐三菩提を成じ、即ち是の日に轉法輪し、轉法輪の時、無量阿僧祇の衆生、遠塵離垢し、諸法の中に於て、法眼淨を得、無量阿僧祇の衆生、一切法不受を得るが故に、諸漏の心、解脱を得、無量阿僧祇の衆生、阿耨多羅三藐三菩提に於て、不退轉を得んと欲はば、當に般若波羅蜜を學すべし)。
いはゆる學般若菩薩とは祖祖なり。しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提は、かならず出家即日に成熟するなり。しかあれども、三阿僧祇劫に修證し、無量阿僧祇に修證するに、有邊無邊に染汚するにあらず。學人しるべし。
佛言、若菩薩摩訶薩、作是思惟、我於何時、當捨國位、出家之日、即成無上正等菩提、還於是日、轉妙法輪、即令無量無數有情、遠塵離垢、生淨法眼。復令無量無數有情、永盡諸漏、心慧解脱、亦令無量無數有情、皆於無上正等菩提、得不退轉。是菩薩摩訶薩、欲成斯事、應學般若波羅蜜
(佛言はく、若し菩薩摩訶薩、是の思惟を作さく、我れ何れの時に於てか、當に國位を捨て、出家の日、即ち無上正等菩提を成じ、還た是の日に於て妙法輪を轉じ、即ち無量無數の有情をして遠塵離垢し、淨法眼を生ぜしむべき。復た無量無數の有情をして永く諸漏を盡くし、心慧解脱せしめん。亦た無量無數の有情をして、皆な無上正等菩提に於て不退轉を得せしめん。是の菩薩摩訶薩、斯の事を成らんと欲はば、應に般若波羅蜜を學すべし)。
これすなはち最後身の菩薩として、王宮に降生し、捨國位、成正覺、轉法輪、度衆生の功徳を宣説しましますなり。」(5)
- 「南嶽懷讓禪師、一日自歎曰、夫出家者、爲無生法、天上人間、無有勝者(南嶽懷讓禪師、一日自ら歎じて曰く、夫れ出家は、無生法の爲にす、天上人間、勝る者有ること無し)。
いはく、無生法とは如來の正法なり、このゆゑに天上人間にすぐれたり。天上といふは、欲界に六天あり、色界に十八天あり、無色界に四種、ともに出家の道におよぶことなし。」(6)
- 「鎭州臨濟院義玄禪師曰、夫出家者、須辨得平常眞正見解、辨佛辨魔、辨眞辨僞、辨凡辨聖。若如是辨得、名眞出家。若魔佛不辨、正是出一家入一家、喚作造業衆生。未得名爲眞正出家
(鎭州臨濟院義玄禪師曰く、夫れ出家は、須らく平常眞正の見解を辨得し、辨佛辨魔、辨眞辨僞、辨凡辨聖すべし。若し是の如く辨得せば、眞の出家と名づく。若し魔佛辨ぜざれば、正に是れ一家を出でて一家に入るなり、喚んで造業の衆生と作す。未だ名づけて眞正の出家と爲すこと得ず)。
いはゆる平常眞正見解といふは、深信因果、深信三寶等なり。辨佛といふは、ほとけの因中果上の功徳を念ずることあきらかなるなり。眞僞凡聖をあきらかに辨肯するなり。もし魔佛をあきらめざれば、學道を沮壞し、學道を退轉するなり。魔事を覺知してその事にしたがはざれば、辨道不退なり。これを眞正出家の法とす。いたづらに魔事を佛法とおもふものおほし、近世の非なり。學者、はやく魔をしり佛をあきらめ、修證すべし。」(7)
- 「この佛衣佛法の功徳、その傳佛正法の祖師にあらざれば、餘輩いまだあきらめず、しらず。諸佛のあとを欣求すべくは、まさにこれを欣樂すべし。たとひ百千萬代ののちも、この正傳を正傳とすべし。これ佛法なるべし、證驗まさにあらたならん。水を乳に入るるに相似すべからず。皇太子の帝位に即位するがごとし。かの合水の乳なりとも、乳をもちゐん時は、この乳のほかにさらに乳なからんには、これをもちゐるべし。たとひ水と合せずとも、あぶらをもちゐるべからず、うるしをもちゐるべからず、さけをもちゐるべからず。この正傳もまたかくのごとくならん。たとひ凡師の庸流なりとも、正傳あらんは用乳のよろしきときなるべし。いはんや佛佛祖祖の正傳は、皇太子の即位のごとくなるなり。俗なほいはく、先王の法服にあらざれば服せず。佛子いづくんぞ佛衣にあらざらんを著せん。後漢孝明皇帝、永平十年よりのち、西天東地に往還する出家在家、くびすをつぎてたえずといへども、西天にして佛佛祖祖正傳の祖師にあふといはず。如來より面授相承の系譜なし。ただ經論師にしたがうて、梵本の經教を傳來せるなり。佛法正嫡の祖師にあふといはず、佛袈裟相傳の祖師ありとかたらず。あきらかにしりぬ、佛法の@(こん)奥にいらざりけりといふことを。かくのごときのひと、佛祖正傳のむね、あきらめざるなり。」(8)
- (これは、悟道ではなくて、仏果のようでもある)
「しかあればすなはち、佛祖正傳の作袈裟の法によりて作法すべし。ひとりこれ正傳なるがゆゑに。凡聖人天龍神、みなひさしく證知しきたれるところなり。この法の流布にむまれあひて、ひとたび袈裟を身體におほひ、刹那須臾も受持せん、すなはちこれ決定成無上菩提の護身符子ならん。一句一偈を身心にそめん、長劫光明の種子として、つひに無上菩提にいたる。一法一善を身心にそめん、亦復如是なるべし。心念も刹那生滅し無所住なり、身體も刹那生滅し無所住なりといへども、所修の功徳、かならず熟脱のときあり。袈裟また作にあらず無作にあらず、有所住にあらず無所住にあらず、唯佛與佛の究盡するところなりといへども、受持する行者、その所得の功徳、かならず成就するなり、かならず究竟するなり。もし宿善なきものは、一生二生乃至無量生を經歴すといふとも、袈裟をみるべからず、袈裟を著すべからず、袈裟を信受すべからず、袈裟をあきらめしるべからず。いま震旦國日本國をみるに、袈裟をひとたび身體に著することうるものあり、えざるものあり。貴賎によらず、愚智によらず。はかりしりぬ、宿善によれりといふこと。」(9)
- 「諸佛の袈裟の體色量の有量無量、有相無相、あきらめ參學すべし。西天東地、古往今來の祖師、みな參學正傳せるところなり。祖祖正傳のあきらかにしてうたがふところなきを見聞しながら、いたづらにこの祖師に正傳せざらんは、その意樂ゆるしがたからん。愚癡のいたり、不信のゆゑなるべし。實をすてて虚をもとめ、本をすてて末をねがふものなり。これ如來を輕忽したてまつるならん。菩提心をおこさんともがら、かならず祖師の正傳を傳受すべし。われらあひがたき佛法にあひたてまつるのみにあらず、佛袈裟正傳の法孫としてこれを見聞し、學習し、受持することをえたり。すなはちこれ如來をみたてまつるなり。佛説法をきくなり、佛光明にてらさるるなり、佛受用を受用するなり。佛心を單傳するなり、佛髓をえたるなり。まのあたり釋迦牟尼佛の袈裟におほはれたてまつるなり。釋迦牟尼佛まのあたりわれに袈裟をさづけましますなり。ほとけにしたがふたてまつりて、この袈裟はうけたてまつれり。」(10)
-
「如來在世より今日にいたるまで、菩薩聲聞の經律のなかより、袈裟の功徳をえらびあぐるとき、かならずこの五聖功徳をむねとするなり。
まことにそれ、袈裟は三世諸佛の佛衣なり。その功徳無量なりといへども、釋迦牟尼佛の法のなかにして袈裟をえたらんは、餘佛の法のなかにして袈裟をえんにもすぐれたるべし。ゆゑいかんとなれば、釋迦牟尼佛むかし因地のとき、大悲菩薩摩訶薩として、寶藏佛のみまへにて五百大願をたてましますとき、ことさらこの袈裟の功徳におきて、かくのごとく誓願をおこしまします。その功徳、さらに無量不可思議なるべし。しかあればすなはち、世尊の皮肉骨髓いまに正傳するといふは袈裟衣なり。正法眼藏を正傳する祖師、かならず袈裟を正傳せり。この衣を傳持し頂戴する衆生、かならず二三生のあひだに得道せり。たとひ戲笑のため利益のために身を著せる、かならず得道の因縁なり。」(11)
- (ここに、悟道と仏果の違いが明言されている)
「禪苑清規一百二十問云、發悟菩提心否(菩提心を發悟せりや否や)。
あきらかにしるべし、佛祖の學道、かならず菩提心を發悟するをさきとせりといふこと。これすなはち佛祖の常法なり。發悟すといふは、曉了なり。これ大覺にはあらず。たとひ十地を頓證せるも、なほこれ菩薩なり。西天二十八祖、唐土六祖等、および諸大祖師は、これ菩薩なり。ほとけにあらず、聲聞辟支佛等にあらず。いまのよにある參學のともがら、菩薩なり、聲聞にあらずといふこと、あきらめしれるともがら一人もなし。ただみだりに衲僧、衲子と自稱して、その眞實をしらざるによりて、みだりがはしくせり。あはれむべし、澆季祖道癈せること。
しかあればすなはち、たとひ在家にもあれ、たとひ出家にもあれ、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、苦にありといふとも、樂にありといふとも、はやく自未得度先度他の心をおこすべし。衆生界は有邊無邊にあらざれども、先度一切衆生の心をおこすなり。これすなはち菩提心なり。」(12)
- 「菩薩の初心のとき、菩提心を退轉すること、おほくは正師にあはざるによる。正師にあはざれば正法をきかず、正法をきかざればおそらくは因果を撥無し、解脱を撥無し、三寶を撥無し、三世等の諸法を撥無す。いたづらに現在の五欲に貪著して、前途菩提の功徳を失す。」(13)
- (悟道は、一部の証得である。仏果は究尽である)
「この因縁、むかしは先師の室にして夜話をきく、のちには智論の文にむかうてこれを檢校す。傳法祖師の示誨、あきらかにして遺落せず。この文、智度論第十にあり。諸佛かならず諸法實相を大師としましますこと、あきらけし。釋尊また諸佛の常法を證しまします。
いはゆる諸法實相を大師とするといふは、佛法僧三寶を供養恭敬したてまつるなり。諸佛は無量阿僧祇劫そこばくの功徳善根を積集して、さらにその報をもとめず。ただ功徳を恭敬して供養しましますなり。佛果菩提のくらゐにいたりてなほ小功徳を愛し、盲比丘のために衽針しまします。佛果の功徳をあきらめんとおもはば、いまの因縁、まさしく消息なり。
しかあればすなはち、佛果菩提の功徳、諸法實相の道理、いまのよにある凡夫のおもふがごとくにはあらざるなり。いまの凡夫のおもふところは、造惡の諸法實相ならんとおもふ、有所得のみ佛果菩提ならんとおもふ。かくのごとくの邪見は、たとひ八萬劫をしるといふとも、いまだ本劫、本見、末劫、末見をのがれず。いかでか唯佛與佛の究盡しましますところの諸法實相を究盡することあらん。ゆゑいかんとなれば、唯佛與佛の究盡しましますところ、これ諸法實相なるがゆゑなり。」(14)
- (苦の解脱と、菩提成就は別物である。)
「かくのごとくなるがゆゑに、いたづらに邪道に歸せざらんこと、あきらかに甄究すべし。たとひこれらの戒にことなる法なりとも、その道理、もし孤樹、制多等の道理に符合せらば、歸依することなかれ。人身うることかたし、佛法あふことまれなり。いたづらに鬼神の眷屬として一生をわたり、むなしく邪見の流類として多生をすごさん、かなしむべし。はやく佛法僧三寶に歸依したてまつりて、衆苦を解脱するのみにあらず、菩提を成就すべし。」(15)
- 「増一阿含經云、有@(とう)利天子、五衰相現、當生猪中。愁憂之聲、聞於天帝(増一阿含經に云く、@(とう)利天子有り、五衰の相現じて、當に猪の中に生ずべし。愁憂の聲、天帝聞えき)。
天帝聞之、喚來告曰、汝可歸依三寶(天帝之を聞きて、喚び來りて告げて曰く、汝、三寶に歸依すべし)。
即時如教、便免生猪(即時に教の如くせしに、便ち猪に生ずることを免れたり)。
佛説偈言(佛、偈を説いて言はく)、
諸有歸依佛(諸有、佛に歸依せば)、
不墜三惡道(三惡道に墜ちざらん)。
盡漏處人天(漏を盡くして人天に處し)、
便當至涅槃(便ち當に涅槃に至るべし)。
受三歸已、生長者家、還得出家、成於無學(三歸を受け已りて、長者の家に生じて、還た出家することを得て、無學を成ぜり)。
おほよそ歸依三寶の功徳、はかりはかるべきにあらず、無量無邊なり。」(16)
- 「おほよそ世間の苦厄をすくふこと、佛世尊にはしかず。このゆゑに、天帝いそぎ世尊のみもとに詣す。伏地のあひだに命終し、驢胎に生ず。歸佛の功徳により、驢母の*(くつわ)やぶれて陶家の坏器を踏破す。器主これをうつ、驢母の身いたみて託胎の驢やぶれぬ。すなはち天帝の身にかへりいる。佛説をききて初果をうる、歸依三寶の功徳力なり。
しかあればすなはち、世間の苦厄すみやかにはなれて、無上菩提を證得せしむること、かならず歸依三寶のちからなるべし。おほよそ三歸のちから、三惡道をはなるるのみにあらず、天帝釋の身に還入す。天上の果報をうるのみにあらず、須陀@(おん)の聖者となる。まことに三寶の功徳海、無量無邊にましますなり。世尊在世は人天この慶幸あり、いま如來滅後、後五百歳のとき、人天いかがせん。しかあれども、如來形像舍利等、なほ世間に現住しまします。これに歸依したてまつるに、またかみのごとくの功徳をうるなり。」(17)
- 「永嘉眞覺大師玄覺和尚は、曹谿の上足なり。もとはこれ天台の法華宗を習學せり。左谿玄朗大師と同室なり。涅槃經を披閲せるところに、金光その室にみつ。ふかく無生の悟を得たり。すすみて曹谿に詣し、證をもて六祖に告す。六祖つひに印可す。のちに證道歌をつくるにいはく、
豁達空、撥因果(空に豁達し、因果を撥へば)、
@@(もうもう)蕩蕩招殃禍(@@(もうもう)蕩蕩として殃禍を招く)。
あきらかにしるべし、撥無因果は招殃禍なるべし。往代は古徳ともに因果をあきらめたり、近世には晩進みな因果にまどへり。いまのよなりといふとも、菩提心いさぎよくして、佛法のために佛法を習學せんともがらは、古徳のごとく因果をあきらむべきなり。因なし、果なしといふは、すなはちこれ外道なり。」(18)
- 「この人いけるほど、つねに惡をつくり、さらに一善を修せざるのみにあらず、命終のとき、天趣の中有の現前せるをみて、順後次受をしらず、われ一生のあひだ惡をつくれりといへども、天趣にむまれんとす。はかりしりぬ、さらに善惡なかりけり。かくのごとく善惡を撥無する邪見力のゆゑに、天趣の中有たちまちに隱歿して、地獄の中有すみやかに現前し、いのちをはりて地獄におつ。これは邪見のゆゑに、天趣の中有かくるるなり。
しかあればすなはち、行者かならず邪見なることなかれ。いかなるか邪見、いかなるか正見と、かたちをつくすまで學習すべし。
まづ因果を撥無し、佛法を毀謗し、三世および解脱を撥無する、ともにこれ邪見なり。まさにしるべし、今生のわが身、ふたつなしみつなし。いたづらに邪見におちて、むなしく惡業を感得せん、をしからざらんや。惡をつくりながら惡にあらずとおもひ、惡の報あるべからずと邪思惟するによりて、惡報の感得せざるにはあらず。」(19)
- 「長沙景岑は南泉の願禪師の上足なり。久しく參學のほまれあり。ままに道得是あれども、いまの因縁は渾無理會得なり。ちかくは永嘉の語を會せず、つぎに鳩摩羅多の慈誨をあきらめず。はるかに世尊の所説、ゆめにもいまだみざるがごとし。佛祖の道處すべてつたはれずは、たれかなんぢを尊崇せん。
業障とは三障のなかの一障なり。いはゆる三障とは、業障、報障、煩惱障なり。業障とは五無間業をなづく。皓月が問、このこころなしといふとも、先來いひきたること、かくのごとし。皓月が問は、業不亡の道理によりて順後業のきたれるにむかふてとふところなり。長沙のあやまりは、如何是本來空と問するとき、業障是とこたふる、おほきなる僻見なり。業障なにとしてか本來空ならん。つくらずは業障ならじ。つくられば本來空にあらず。つくるはこれつくらぬなり。業障の當躰をうごさかずながら空なりといふは、すでにこれ外道の見なり。業障本來空なりとして放逸に造業せん、衆生さらに解脱の期あるべからず。解脱のひなくは、諸佛の出世あるべからず。諸佛の出世なくは、祖師西來すべからず。祖師西來せずは、南泉あるべからず。南泉なくは、たれかなんぢが參學眼を換却せん。また如何是業障と問するとき、さらに本來空是と答する、ふるくの縛馬答に相似なりといふとも、おもはくはなんぢ未了得の短才をもて久學の供奉に相對するがゆゑに、かくのごとくの狂言を發するなるべし。
のち偈にいはく、涅槃償債義、一性更無殊。
なんぢがいふ一性は什麼性なるぞ。三性のなかにいづれなりとかせん。おもふらくは、なんぢ性をしらず。涅槃償債義とはいかに。なんじがいふ涅槃はいづれの涅槃なりとかせん。聲聞の涅槃なりとやせん、支佛の涅槃なりとやせん、諸佛の涅槃なりとやせん。たとひいづれなりとも、償債義にひとしかるべからず。なんぢが道處さらに佛祖の道處にあらず。更買草鞋行脚(更に草鞋を買ひて行脚)すべし。師子尊者、二祖大師等、惡人のために害せられん、なんぞうたがふにたらん。最後身にあらず、無中有の身にあらず、なんぞ順後次受業のうくべきなからん。すでに後報のうくべきが熟するあらば、いまのうたがふところにあらざらん。あきらかにしりぬ、長沙いまだ三時業をあきらめずといふこと。參學のともがら、この三時業をあきらめんこと、鳩摩羅多尊者のごとくなるべし。すでにこれ祖宗の業なり、癈怠すべからず。」(20)
- 「世尊一日、外道來詣佛所問佛、不問有言、不問無言(世尊一日、外道、佛の所に來詣りて佛に問ひたてまつらく、有言を問はず、無言を問はず)。
世尊據坐良久(世尊、據坐良久したまふ)。
外道禮拜讃歎云、善哉世尊、大慈大悲、開我迷雲、令我得入(外道、禮拜し讃歎して云く、善哉世尊、大慈大悲、我が迷雲を開き、我れをして得入せしめたまへり)。
乃作禮而去(乃ち作禮して去りぬ)。
外道去了、阿難尋白佛言、外道以何所得、而言得入、稱讃而去
(外道去り了りて、阿難、尋いで佛に白して言さく、外道何の所得を以てか、而も得入すと言ひ、稱讃して去るや)。
世尊云、如世間良馬、見鞭影而行
(世間の良馬の、鞭影を見て行くが如し)。
祖師西來よりのち、いまにいたるまで、諸善知識おほくこの因縁を擧して參學のともがらにしめすに、あるいは年載をかさね、あるいは日月をかさねて、ままに開明し、佛法に信入するものあり。これを外道問佛話と稱ず。しるべし、世尊に聖默聖説の二種の施設まします。これによりて得入するもの、みな如世間良馬見鞭影而行なり。聖默聖説にあらざる施設によりて得入するも、またかくのごとし。」(21)
- 「諸經かくのごときのところおほし、如來世尊調御丈夫またしかあり。四種の法をもて、一切衆生を調伏して、必定不虚なり。いはゆる生を爲説するにすなはち佛語をうくるあり、生、老を爲説するに佛語をうくるあり、生、老、病を爲説するに佛語をうくるあり、生、老、病、死を爲説するに佛語をうくるあり。のちの三をきくもの、いまだはじめの一をはなれず。世間の調馬の、觸毛をはなれて觸皮肉骨あらざるがごとし。生老病死を爲説すといふは、如來世尊の生老病死を爲説しまします、衆生をして生老病死をはなれしめんがためにあらず。生老病死すなはち道ととかず、生老病死すなはち道なりと解せしめんがためにとくにあらず。この生老病死を爲説するによりて、一切衆生をして阿耨多羅三藐三菩提の法をしめさんがためなり。これ如來世尊、調伏衆生、必定不虚、是故號佛調御丈夫なり。」(22)
- 「大宋嘉泰中、有僧正受。撰進普燈録三十卷云、臣聞孤山智圓之言曰、吾道如鼎也、三教如足也。足一虧而鼎覆焉。臣甞慕其人稽其説。乃知、儒之爲教、其要在誠意。道之爲教、其要在虚心。釋之爲教、其要在見性。誠意也虚心也見性也、異名躰同。究厥攸歸、無適而不與此道會云云(大宋嘉泰中に僧正受といふもの有り。普燈録三十卷を撰進するに云く、臣、孤山智圓の言ふを聞くに曰く、吾が道は鼎の如し、三教は足の如し。足一も虧くれば鼎覆へると。臣、甞て其の人を慕ひ其の説を稽ふ。乃ち知りぬ、儒の教たること、其の要は誠意に在り。道の教たること、其の要は虚心に在り、釋の教たること、其の要は見性に在ることを。誠意と虚心と見性と、名を異にして躰同じ。厥の歸する攸を究むるに、適として此の道と會せずといふこと無し云云)。
かくのごとく僻計生見のともがらのみ多し、ただ智圓、正受のみにはあらず。このともがらは、四禪を得て四果と思はんよりも、その誤りふかし。謗佛、謗法、謗僧なるべし。すでに撥無解脱なり、撥無三世なり、撥無因果なり。莽莽蕩蕩招殃禍、疑ひなし。三寶、四諦、四沙門なしとおもふしともがらにひとし。佛法いまだその要見性にあらず、西天二十八祖、七佛、いづれのところにか佛法のただ見性のみなりとある。六祖壇經に見性の言あり、かの書これ僞書なり、附法藏の書にあらず、曹溪の言句にあらず、佛祖の兒孫またく依用せざる書なり。正受、智圓いまだ佛法の一隅をしらざるによりて、一鼎三足の邪計をなす。」(23)
- (究尽ならば、悟道ではなくて、さらに先の仏果のようである)
「論語云、生而知之上、學而知之者次、困而學之、又其次也。困而不學、民斯爲下矣
(生れながらにして之を知るは上なり、學んで之を知るは次なり、困しんで之を學ぶは又其の次なり。困しみて學ばざるは、民にして斯れを下と爲す矣)。
もし生知あらば無因のとがあり、佛法には無因の説なし。四禪比丘は臨命終の時、たちまちに謗佛の罪に墮す。佛法をもて孔老の教にひとしとおもはん、一生中より謗佛の罪ふかかるべし。學者はやく孔老と佛法と一致なりと邪計する解をなげすつべし。この見たくはへてすてずは、つひに惡趣におつべし。學者あきらかにしるべし、孔老は三世の法をしらず、因果の道理をしらず、一洲の安立をしらず、いはんや四洲の安立をしらんや。六天のことなほしらず、いはんや三界九地の法をしらんや。小千界しらず、中千界しるべからず。三千大千世界をみることあらんや、しることあらんや。振旦一國なほ小臣にして帝位にのぼらず、三千大千世界に王たる如來に比すべからず。如來は梵王、帝釋、轉輪聖王等、晝夜に恭敬侍衞し、恆時に説法を請じたてまつる。孔老かくのごとくの徳なし、ただこれ流轉の凡夫なり。いまだ出離解脱のみちをしらず。いかでか如來のごとく諸法實相を究盡することあらん。もしいまだ究盡せずは、なにによりてか世尊にひとしとせん。孔老内徳なし、外用なし、世尊におよぶべからず、三教一致の邪説をはかんや。孔老、世界の有邊際、無邊際を通達すべからず。廣をしらず、みず、大をしらず、みざるのみにあらず、極微色をみず、刹那量をしるべからず。世尊あきらかに極微色をみ、刹那量をしらせたまふ。いかにしてか孔老にひとしめたてまつらん。孔老、莊子、惠子等は、ただこれ凡夫なり。なほ小乘の須陀@(おん)におよぶべからず。いかにいはんや第二、第三、第四阿羅漢におよばんや。」
(24)
- (51番、105番は、悟道で、108番は仏果のようである)
「<51>無生忍是れ法明門なり、滅諦を證するが故に。
<105>得無生法忍是れ法明門なり、受記を得るが故に。
<108>潅頂地是れ法明門なり、生れて出家するより、乃至阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得るが故に。
」(25)
- 「七つには修智惠。聞思修證を起すを智惠と爲す。
佛言はく、汝等比丘、若し智惠有れば則ち貪著無し、常に自ら省察して失有らしめず。是れ則ち我が法の中に於て能く解脱を得。若し爾らずは、既に道人に非ず、又白衣に非ず、名づくる所なし。實智惠は則ち是れ老病死海を度る堅牢の船なり、亦た是れ無明黒暗の大明燈なり、一切病者の良藥なり、煩惱の樹を伐る利斧なり。是の故に汝等當に聞思修慧を以て而も自ら増益すべし。若し人智惠の照あらば、是れ肉眼なりと雖も、而も是れ明眼の人なり。是れを智惠と爲す。
八者不戲論。證離分別、名不戲論。究盡實相、乃不戲論(八つには不戲論。證して分別を離るるを、不戲論と名づく。實相を究盡す、乃ち不戲論なり)。
佛言、汝等比丘、若種種戲論、其心則亂。雖復出家猶未得脱。是故比丘、當急捨離亂心戲論。汝等若欲得寂滅樂者、唯當善滅戲論之患。是名不戲論(佛言はく、汝等比丘、若し種種の戲論あらば、其の心則ち亂る。復た出家すと雖も猶ほ未だ得脱せず。是の故に比丘、當に急ぎて亂心と戲論とを捨離すべし。汝等若し寂滅の樂を得んと欲はば、唯當に善く戲論の患を滅すべし。是れを不戲論と名づく)。
これ八大人覺なり。一一各具八、すなはち六十四あるべし。ひろくするときは無量なるべし、略すれば六十四なり。
大師釋尊、最後之説、大乘之所教誨。二月十五日夜半の極唱、これよりのち、さらに説法しましまさず、つひに般涅槃しまします。
佛言はく、汝等比丘、常に當に一心に勤めて出道を求むべし。一切世間の動不動の法は、皆な是れ敗壞不安の相なり。汝等且く止みね、復た語ふこと得ること勿れ。時將に過ぎなんとす、我れ滅度せんとす。是れ我が最後の教誨する所なり。
このゆゑに、如來の弟子は、かならずこれを習學したてまつる。これを修習せず、しらざらんは佛弟子にあらず。これ如來の正法眼藏涅槃妙心なり。しかあるに、いましらざるものはおほく、見聞せることあるものはすくなきは、魔@(にょう)によりてしらざるなり。また宿殖善根すくなきもの、きかず、みず。むかし正法、像法のあひだは、佛弟子みなこれをしれり、修習し參學しき。いまは千比丘のなかに、一兩この八大人覺しれる者なし。あはれむべし、澆季の陵夷、たとふるにものなし。如來の正法、いま大千に流布して、白法いまだ滅せざらんとき、いそぎ習學すべきなり、緩怠なることなかれ。
佛法にあふたてまつること、無量劫にかたし。人身をうること、またかたし。たとひ人身をうくといへども、三洲の人身よし。そのなかに、南洲の人身すぐれたり。見佛聞法、出家得道するゆゑなり。如來の般涅槃よりさきに涅槃にいり、さきだちて死せるともがらは、この八大人覺をきかず、ならはず。いまわれら見聞したてまつり、習學したてまつる、宿殖善根のちからなり。いま習學して生生に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれをとかんこと、釋迦牟尼佛にひとしくしてことなることなからん。」(26)
(注)
- (1)「「出家功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、274頁。
- (2)同上、274頁。
- (3)同上、274頁。
- (4)同上、277頁。
- (5)同上、280頁。
- (6)同上、285頁。
- (7)同上、286頁。
- (8)「袈裟功徳」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、303頁。@= 門構に困(こん)
- (9)同上、306頁。
- (10)同上、310頁。
- (11)同上、315頁。
- (12)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、338頁。
- (13)同上、340頁。
- (14)「供養諸仏」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、360頁。
- (15)「帰依仏法僧宝」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、375頁。
- (16)同上、377頁。@=心偏に刀(とう)
- (17)同上、383頁。@=さんずいに亘(おん)、*=革偏に空(くつわ)。
- (18)「深信因果」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、391頁。 @=さんずいに莽(もう)
- (19)「三時業」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、408頁。
- (20)「三時業」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、409頁。
- (21)「四馬」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、413頁。
- (22)「四馬」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、417頁。「しめさんがため」は、別本には「えしむ」「えせしめん」「えしめん」とある。
- (23)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、426頁。
- (24)「四禅比丘」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、432頁。@=さんずいに亘(おん)。
- (25)「一百八法明門」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、443頁-445頁。
- (26)「八大人覚」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、451頁-457頁。@=女偏に尭(にょう)、&=心偏に貴(かい) 。
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