新大乗


 ご承知のように「大乗仏教」は、インドにおける在家のための仏教の復興運動でした。従来の伝統教団(部派)が、在家大衆の求めるものを顧みず、精緻な学問になってしまって、自分自身の心の研鑚と苦悩する在家の支援をしなくなったのを批判したものでした。
 現代の仏教も同様の状況になっているようです。僧侶は僧侶仲間で満足する形式・目標の実践を行い、仏教学者は、学者仲間での学問研究の喜びを求めている。現代社会には種々の問題が起きており、一般在家は幸福ではありません。幸福だと思っているのは、僧侶と学者でしょう。
 大乗仏教は、自分たちだけの満足で留まるのを批判して、無縁の他者の苦を共感して(自他一如)、他者に苦がある限り、他者の苦の解決のために働くように主張したと思います。経典では、華厳経の「事事無礙法界」、哲学では「西田哲学」が、自他一如の人間性を明らかにしているといいます。自我をなくして、自他一如のところから見て、そこから他者のために働く(秋月龍a氏の解釈=下記の著書参照)。もしそうであれば、自分たちだけの利益を誘導することにやっきとなる現代のすべての組織に警鐘をならすものです。宇宙の「いのち」がすべて自他一如、平等の方向に働いているとすれば、現代の日本の各組織の働きは、それと逆行しています。仏教学でさえも、自分たちだけの利益、喜びを合理化する学説が横行しています。苦悩する他者の共感が感じられません。
 このような状況にありますので、一部の誠実な学者がいうように、まだ、釈尊の仏教も大乗仏教も日本禅もその真相が学問的に解明されていないのです。人間の根源をあきらかにしようとした仏教とはどういうものであったのか再検討し、一般在家に直接貢献できる仏教(「臨床的・実践的なカウンセリング」のようなもの)が推進されるべきことを訴えた人々が出現したのです。
 政治、ビジネスの現場、医療・介護の現場、教育の現場、宗教の現場、すべての現場でエゴイズムが自覚され始めました。苦悩の原因の見方と治療について、仏教と臨床心理学、認知療法などの類似性もあきらかになり始めました。時代であると思います。仏教のよき実践を再評価すべき時であると思います。
 昭和から現代まで、このままの仏教、仏教学ではいけないと訴えた人々が多くおられました。文字の研究だけ、縁起説を思惟するだけ、自分一人何も目的のない坐禅をするだけ、エリート僧しか達成できない「悟り」だけが仏教で、尊いことはないということです。一部の者だけを喜ばせる力が、我々の上に働いているとは思えません。
 もう一度、一般の人々の苦悩解決を真剣に考える仏教運動を「新大乗」とよんでいいでしょう。「新大乗」は、花園大学教授であった秋月龍a氏が提案されたそうです。二回目の、新しい「大乗」です。たとえば、次の著書で提案しています。  僧侶しか達成できて喜ぶのでもなく、学者しか喜びを得ることができない学問でもなく、すべての人々(特に普通の在家)に働く「いのち」「真の自己」(秋月氏は「自我がなければ、すべてが自己だ」といいます)の立場から、すべての人が現実に救われる実践的・臨床的な仏教でなければいけないという運動を「新大乗」と総称することにします。こういうわけで、「新大乗」は、既成、伝統の組織、学者への批判の様相を帯びます。 批判であれば、「面白くない。怒った。不満だ。」それでは、自我は空であり、自他不二である人間の実存から見ておらず、自我を絶対視し自分の感情におおわれたもの(貪・瞋・癡)、自分たちだけの満足である、その自我の心を批判し、無我に働くことが本来の仏教のはずですが、それを同意せず実践しないところの支援、応援はないでしょう。
 「新大乗」も、大衆の立場からの既成の仏教、学問への批判という大きな運動ですので、その内容としては、必ずしも秋月龍a氏そのままの内容ではなく、さらに多くの苦悩する大衆レベルの苦が解消できる領域、社会の広い領域(つまり、すべての「在家」)の苦悩解決に必要とされるものを推進していくものを広く含めて「新大乗」と呼ぶことにします。秋月龍a氏の運動も「一つの」新大乗です。私は秋月氏の著作の多くを読み思想的に学び肯定しているのですが、私が感じるところでは、秋月龍a氏の要求は厳しく、少数のエリート(悟りを得て指導者たらんとする)向けのように感じます。仏教学者には、覚者たることを要求しています。僧侶でさえも、覚者たる人は少ないのに、仏教学者で、覚者たる人は大変すくなく、それでは、多くの僧侶、仏教学者はその運動を支援しないでしょう。また、仏教が心理、思想を探求する限り、医学者、心理学者、哲学者、心理カウンセラーなどにも支援を求めたいものです。これらの人々に「覚者」たれというのは、難しいようです。しかし、覚者でなくても、自他一如の根本的立場を同意、共感し、そこから働くことができる人々は、「新大乗」のにないてでしょう。
 今後、詳細に分析してみないといけないのですが、現代人の多くが心を病み、心理的ストレスから心身症を病んでいます。種々の領域で起きている、エゴイズム、自己中心、他者の苦の共感の欠如から、非行、犯罪、いじめ、虐待、差別、抑圧、搾取などの被害に自分が巻き込まれることを恐れています。仏教学者や僧侶でさえも、自分の生活に満足して、他者=社会の苦悩解決に向けて発言しません。
 しかし、自他一如であるからには、多くの苦悩する在家の問題解決こそ、仏教が働かなければならない領域でしょう。せめて、大部分(できれば、すべての)の人々が、一つの言い方でいえば、 が達成されるべきでしょう。仏教は、こういう目標にも応えることができるものであったと思います。人間の実存は、環境や社会と対立している自我ではなく、自他不二という人間観が釈尊の仏教、大乗仏教であった。そういう人間本来のありかたからすれば、自分のグループだけの利益をはかろうとする現代のあらゆる領域の組織の行動が、長く受容されるはずがありません。必ず、歴史の展開により、批判されることになるでしょう。自他不二、自我の空なることは、覚者が証得することに違いはないでしょうが、思想的には必ずしも覚者でなくとも、理解できるでしょう。理解してもらえるように努めることが、僧侶や仏教学者、哲学者の任務でしょう。
 そのような人間観に焦点をあてて、現代日本の種々の領域の在家・一般国民が求めて、覚者でなくても受容できる仏教を推進するのも「もう一つの新大乗」といえるのではないでしょうか。インドの大乗仏教に、種々の運動があったように「新大乗」も種々の展開をしていいわけです。共通項は、覚者絶対でもなく、僧侶や学者という限定された人々の満足するものではなくて、無縁の大衆(自他不二であれば、大衆が自己)と自分が一如である、そういう場所から働いていくことを目標とすることです。この方向で、このホームぺージは、過去に存在した仏教のありのままの事実(自分の偏見でゆがめず、無我の立場から)の研究と実践を考えています。具体的には、次のような研究と提案です。