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3=「臨床仏教カウンセリング」の方法(概要)
心の洞察法(腹式呼吸法と坐って行う洞察法)
(仏教では、坐禅、禅定(止)
禅や仏教では、念が起きてもつかまえないことを指導される。認知療法で「思考停止法」というのを徹底して会得させる方法とみてよい。ただし、「思考停止法」は、観(苦悩が起きる原因、解決する原理の智慧を帯びて自分の心を観察する)がなく、根本治療ではない。対症的である。だから、これだけでは不十分である。必ず「観」を併用する。観は、仏教の中道の実践的智慧から生まれた苦の解決の実践的原理を帯びた自己観察法である。論理を超えているものがある。論理を超えるという意味は、言葉だけで思考する線上にはないことが起きているということである。簡単なところでは、思考から感情が起きているが、ここにも、論理ではないものが働いている。ストレスが起きると、免疫に影響し、それが思考にも影響するが、ここにも、言葉の論理ではないものが影響している。人は、言葉の論理だけで行動しているのでも、思考によって論理的にのみ生きているわけでもない。言葉には、限界がある。
自己の真相を悟るという高度の坐禅ではなくて、3−6カ月で会得して修了とする「苦の解決のための」「臨床的仏教実践」「臨床的坐禅」である。しかし、希望者、適任者は、高度の坐禅に進むことができる、その過程の一里塚である。
以下、要点だけを述べる。
息を数える洞察法(「数息観」)
- 息を一から十まで数える。声を出さず、心の中で数える。
- 息を心で観ながら「ひとーつ」「ふたーつ」「−−−」「とおー」。また、「ひとーつ」に戻る。
はく息の方が長く、「ひとー」(ふたー)とはき、「つーー」と吸えばよい。
- 油断して、思いにとらわれると、数えるのを中断してしまう。
数えるのを中断していることに気がついたら、また、数える。
- 心の病気の人や、ストレスを強く感じている人は、自分が、すぐに、思考に落ちてしまう(それが悩みを作る)くせがついていることをはっきり自覚できるようになる。
- 油断すると、自覚しないうちに「何事かを考える」(妄想といっている)が、考えていることに気がついたら、また、息を数えることに戻る。
- 身体症状、感情など(痛み、動悸、発汗、振るえ、不安、ゆううつ感、怒り、憎しみ、−−など)が自覚されても、それに惑わされて、考えを発展させることのないように。そういう症状、感情に振り回されないで、息を数えることに、心を向けていく。
- 坐禅していない時にも、つらいこと、苦しいこと、身体症状・感情などを感じる場合、この数息観を思い出して行う。ひどい苦痛を感じる前(予期不安)とか、まさにつらい時にも、行うとよい。
- 自然の息にまかせていて数える方法と、意識的に腹で呼吸(腹式呼吸)しながら数える方法がある。
息を観る洞察法(「随息観」「観息」)
- 要領は、数息観と同じであるが、息を数えることをやめて、ただ息をじーっとみつめている。苦悩する問題について考えていかないように、注意して、息をこころの目で観つづける。
- これを行うことによって、いかに、自分が、すぐに「思考」に落ちていたかを自覚できるようになる。それが、苦悩を生んだということが自覚される。
- さらに続けていると、段々、思考に落ちないで、息を観ている時間が多くなる。こうなると、苦悩が軽減する。
腹式呼吸法
- 心の病気などには、意識して腹筋を用いて行う「腹式呼吸法」が効果がある。おしりの下に座布団をしいておしりを少し高くする。背筋を伸ばすと、おなかが前に出る。この姿勢だと、おなかが出たり、引っ込んだりさせやすい。
意識しないで自然に呼吸をしているおなかの状態がある。そのおなかの位置から、ゆっくり息をはきながら、おなかをゆっくりひっこませる。おなかがぺちゃんこになったところで、緊張を解くと、自然に息が吸い込まれる。もうすこしおなかをふくらませながら、息をすう。そして、自然のおなかの位置に戻る。これを繰り返すが、はく息の方がゆっくりと長くする。腹がふくらんで吸う、腹がひっこんで、息をはく。これが、リズム運動になっている。息を意識で調節している。意識が、息に向かっている。意識が、考えることには向かっていない。従って、真剣に腹式呼吸法を実行している間は、自分の悩みは考えていない。悩みはない。そのような「観」を帯びて行うことにより、自己洞察が深まる。カウンセラーの指導を受けながら「観」を同時に習得していく。
通常の胸呼吸(自律性)の場合よりも、腹式呼吸法の場合の方が、1分間の呼吸回数は減少する。呼吸が深くなるので、呼吸回数が少なくてよい。1回の呼吸量が多くなるので、呼吸回数を減少させないと、過呼吸(過換気)の傷害を起すおそれがある(1)。
- 油断すると、自覚しないうちに「何事かを考える」(妄想といっている)が、考えていることに気がついたら、また、息を見ること、腹式呼吸を行うことに意識を向ける。
- 精神障害の重い人、発病してから長くたっている人は、この基本的な腹式呼吸法さえも、実践できない人もいる。その場合、この方法をアレンジした腹式呼吸法を用いる。
- 道元禅師は、高度の坐禅法をいう傾向がある(初歩、中途に執著して、成長することをやめさせないためである)ので、呼吸法については、詳しくは指示していない。だが、現実の苦悩解決という臨床仏教カウンセリングという観点では、(心の病気などの解決という仏教の初歩段階であるゆえに)大変、効果があるので、これも用いる。
- つらいこと、苦しいこと、身体症状・感情、気分などを感じる場合、これらの方法(数息観も同様)を思い出して、その苦痛を感じる前(予期不安が起きた時など)とか、まさにつらい時に、行うとよい。どの方法を用いるかは、その本人による。坐禅になれないうちは、数息観、腹式呼吸法などが効果を得やすい。
- 心の病気などの苦悩を脱した人で、本格的な禅を志す人は、呼吸法にも執著しない(腹式呼吸法などの気分のよさを求めない。呼吸だけに意識を集中しない)只管打坐法を実行する。しかし、坐禅の初心者や心の病気の人なども、坐禅していない時の功夫も大切であるから、呼吸を用いない只管打坐法も初期段階から学ぶ。これは、歩いている時、掃除などをしている時、車を運転する時なども実行できるからである。
(注)- (1)有田秀穂「セロトニン欠乏脳」NHK出版、73頁。
基本的洞察法(「只管打坐法」)
- 眼前の事実に立ち向かいつつ、自己の心を洞察している方法である。
- 「只管打坐」は「しかんたざ」と読む。「只管」とは、ただ、何もはからいせず、「打坐」とは、すわること、坐禅すること。むつかしい用語であるが、道元禅師に発する用語である。他の呼称では、正観、中道正観、第一義観、正念工夫とも呼ばれるものに近い(智慧が根底にある場合である)。
- 息を数えるとか、息をみつめる、というと、どちらかというと心が内(実は内外もないが)に向いている。動きまわる時は、目前のもの、仕事、人などを見ていなければならない。そこで呼吸を用いない只管打坐法を会得するのがよい。
- 坐って行う場合、息をも基準とせず、その坐している環境になりきる。
何もはからいせず、ただ坐っている。六根を開放し、見ている、聞いている。心に思い(念)が浮かぶがすぐ消えるのを心の眼で見ている。特定の一つのもの(音、思い)に意識を止めず、みな、受け流している。人の会話、鳥、犬の声が聞こえてきても、言葉にしない。聞き耳を立てない。
- 何か見えても(坐禅中は、壁、たたみが見えるが)、音が聞こえても、思いが浮かんでも、心の中で「言葉」にしない。「カアー」と聞こえても、「カラス」という言葉にしない。
- いずれの場合にも、見たり、聞いたり、念が浮かんだりしたのをきっかけにして、思考に落ちていかないようにする。つらいこと、苦しいこと、身体症状・感情などを感じる場合も同様である。
- 結局、自分を見失わず、「正念」でい続けることである。もし、こころが動いたら、どのように動くか、はっきりとわかり、ふりまわされない状態である。
- 心に自分や他人を苦しめるような思い(悪、不善)が起きる時は、ただちに、この基本的洞察法(只管打坐)の心を思い出して、その思いを捨てる。
- これがよく実行できるようになると、歩く時、作業の時、仕事の時、人と会っている時にも、眼前の事実に向かいつつ、自己を洞察できるようになる。そのようになるために、坐って行う基本的な洞察法である。
その他の手法
- 以上の方法が苦手な人には、他の手法を用いる。ボディ・スキャンなどがある。
- 別の記事に記載する。
認知的手法(智慧=「観」)を併用
- 自分の心の様子がよくわかるようになったら、原則として「基本的洞察法」(只管打坐)を中心に行う。只管打坐法は、坐っていない時にも実行できるし、問題を軽減できた人が、生涯、実行していれば、再発防止の役割をすることが多い。さらに本格的な参禅にすすむ場合にも、これを習得していると、わかりやすい。只管打坐法は、公案を用いない坐禅でも、公案を用いる坐禅でも、悟りを得た人の悟後の坐禅でも実践される坐禅である。
- 腹式呼吸法、数息を用いる洞察法、息を観る洞察法を習得したら、基本的洞察法(只管打坐)の習得に移る。
しかし、いつも認知的手法(智慧、中道観など)が併用される。ここにあげた方法は問題解決の方針(認知的手法)がはいっていない。智慧のない実践は限界がある。この行動的手法である「洞察法」だけでは、ひどい苦悩は解決しにくいし、実践への動機が起きないことがある。自分の具体的な苦をどう見るか、認知のゆがみ(偏見、見取見など)を捨てる(中道観の一つ)ということ、仕事中はどうするか、この坐って行う洞察法の意義、など、認知的側面(「観」、智慧にあたる)が重要である。
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