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「惑・業・苦」=大乗唯識

 仏教経典や禅の語録は、思想や実践の両方が網羅されていて、全貌がわかりにくい。そこで、まず、大きな眼から展望しておくのがわかりやすい。
 大乗には、実践を重視した瑜迦行派があり、実践の中で心を観察して、苦の原因、苦からの解脱、悟りの智慧を文字で説明した。瑜迦行派は、よく文字で説明したが、それでも、文字はすべて仮説であって、現実の悟りは、「唯識観」という修行によってしか会得されないとしている。
 この唯識説に惑・業・苦の教説があって、全貌を展望し、現代の我々が苦悩を克服していく道をさぐるのに都合がよい。下の図を参照しながら見ていただきたい。

 唯識に「惑・業・苦」の教説がある。
 人には、「惑」(わく)があって、「業」(ごう)を起こし、それが「苦」を生む。

無明が業・苦を起こす

 「惑」とは、煩悩である。10種の根本煩悩と20種の随煩悩がある。これらが、業(思考・行為)を起こし、苦(自分と他人に)を生じる。従って、煩悩を捨てることが苦の解決になる。
 根本煩悩を「本執」ともいう。貪・瞋・癡・慢・疑・薩伽耶見(我見)・辺執見・邪見・見取・戒禁取の十である。薩伽耶見(我見)から戒禁取までの五を「悪見」という。悪見を一つとみて、六煩悩(貪、瞋、癡、慢、疑、悪見)とすることもある。「貪」はむさぼり、「瞋」はいかり、「癡」は「無明」である。無明は、最も根源的な無知であり、一切の煩悩、業、苦の根本原因となる。業と果と四聖諦と宝(三宝)に対する無知であるという説もある(1)。

煩悩が業を起こし苦を生む

 唯識では、種々の心の作用を、苦楽をもたらすかどうかで、善・悪・無記の三種の区分をする。「善」は二世にわたって自他を順益する(楽を与える)ものであり、「悪」は、二世にわたって自他を損害する(苦を与える)ものであり、「不善」ともいう。善・悪のいずれでもないものを「無記」という。
 自覚的な意志が、悪を志向するとき、それが業を発動する。(1)
 業は、遍行の、触、作意、受、想、思のうちの、「思」にあたる。「思」が業をつくる。「思」は「心をはたらかすことであり、意の作用である。善・不善・無記に対し、心を駆動することである。この「思」は、いわゆる、思考だけではなくて、口や身体での行為までも含む。まず考え、決断し(意業)、実行にうつす(語業、身業)(1)。
 眼耳鼻舌身の五感は、悪の業を起こさず、意識が善悪の業を起こす。  「無明が生存の根底にあることを発見したことが、悟りである。そして釈尊は、苦の生存を無明に遡り、無明から苦の生存へとたどり来たって、十二縁起等の説を説いたのであった。これを簡略にいえば、無明=惑から業が、業から苦が、しかもその苦にすでに内在する惑がさらに業を、業が苦を、というように、展転して相続する惑ー業ー苦の連環において、輪廻の構造を解明したものである。」 (3)

自他の苦を解決するために

 以上の唯識の教えは、現代の生理学、精神神経免疫学、医学とも矛盾せず、的確なものである。
 唯識は、煩悩を帯びた内容を考えるだけで、自分や他人に苦をもたらすと教える。それは現代科学でも同じである。怒り、不安、悲しみ、不満、不快、絶望などをもたらす内容を「考える」だけでも、自分の心にストレスを感じて、感情が起り、交感神経、内分泌、免疫などに影響して、気分は悪くなり、種々の心身の病気をもたらす。また、そのような内容のことを思って、言葉に出したり、行為に出したりすることにより、相手に苦痛を起こし、暴力をふるったり、いじめたりする。唯識の教えるとおり、自他を苦しめることを考えるだけで「悪」であり、自他を損害する。
 現代語で「我慢」ということがあるが、世俗的には、苦悩に耐えて、外に向かって爆発しない(語業、身業を起こさない)ことを、「我慢」というであろう(本来の仏教の「我慢」は、自我への慢心である)。しかし、これでは、唯識で教えるとおり、すでに考えている(意業が発動している)ので、煩悩が発業していて、苦が生じている。だから、「我慢」が長く続くと、心の病気になったり、他者を傷つけたり、犯罪によって爆発したりする。「我慢」(現代の意味)は、決して、仏教的、禅的解決法ではない。「我慢」しなくてもすむように、智慧によって意識から、苦をもたらす内容が滅しているようになることが望ましい。
 このような、唯識の教えからわかることは、自他の苦を克服するためには、煩悩と相応(同時に起きる)する業(「思」=第六意識による「思」、分別)をさければよいことになる。
 現代人の苦悩解決のための方法の詳細は別に掲載するが、方針だけを記しておきたい。
 坐禅は、前五識(眼耳鼻舌身)の「思」をはたらかせているのみで、第六意識相応の「思」をはたらかせないので、発業しない。従って「苦」が生まれない。なるべく、意識で「悪」(煩悩)の内容を考えることに落ちないでいることが重要である。そのようにつとめていると、人間のこころの真相が見えてくる。苦を克服する智慧が発現してくる。(だが、坐禅が悟り、ということではない)
 もちろん、「善」と「無記」の内容は、思考してよい。自他を苦しめないからである。自分や他人のエゴイズムにまみれない純粋な仕事をしている時の思考がそうである。
 しかし、悪の考えに落ちないようになった(正念功夫、禅の力による)としても、油断はできない。普段、成功していたかに見える人は、苦しんでいなかったのだから、「悪」(煩悩)を思考することは少なかった(ただし、他者を苦しめる煩悩は起こしていたかもしれない)のであるが、何かの出来事で、苦悩して心の病気になったり、自殺する。悟りの智慧によって、煩悩の根が断たれておらず、無明は滅していなかったわけである。煩悩がなくなったわけではないから、大きな出来事があれば、坐禅していないとき、煩悩を帯びた業(思考)を起こして「苦」がおこる。苦悩が大きくなって、心の病気になったり、自殺したりする。あるいは、他者を害して、いじめたり、犯罪を犯したりする。
 だから、煩悩を捨棄する心の功夫は、2−3か月だけでも基本を修習しておいて、生涯それを続けていくことは、難しいことではない。そうすれば、自他を深刻に苦悩させることを予防できる。

(図)惑・業・苦
 認知療法
  スキーマ
(深層の信念)
認知(のゆがみ) 自動思考
障害のある思考・認知
苦を生む感情・行動
深刻な苦悩
心の病気
 仏教

根本煩悩・随煩悩 思考・分別(意業)
自己の苦悩・心の病気
他者を害する
無明
(分別起の煩悩障)
我見
(我執・法執)
貪瞋癡慢疑、偏執見、見取、戒禁取 (身業、語業)
論争・攻撃・非行・犯罪など


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