もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

 
仏教学・禅学の批判

「四禅」ー禅定の深まり

 坐禅が悟りである、という学説があるが、本来、仏教では、そのような説はなかったことを確認する。そのことによって、道元系の僧侶、学者が、坐禅は悟りだというのは、原始仏教から言えば、まことに浅く、著味に堕した禅思想であることになることを警告したい。将来、学問上、「仏教は禅定によって解脱するものである」(注)ことがあきらかになった時には、道元を仏教の中でも浅いところに堕して解釈していたのが、昭和、平成の僧侶、学者であったことが判然となることになる。
 道元も「四禅」を得て、悟りだと誤解する比丘を批判している。本当に、道元が、「坐禅が悟りで、それ以外の悟道はない」という禅思想を創設したのか、そんな解釈をして、原始仏教、部派仏教にも劣る仏教を主張したのか、再検討をすべきだと思う。
 そのために、「四禅」を考察する。「四禅」は、原始仏教で、重要な修行段階の説明である。そこにとどまるのではなくて、四禅を行じて、解脱・悟りを得るというのが、原始仏教での「四禅」(=禅定)の位置である。「四禅」は、悟りへの行程であり、禅定の深まりであり、解脱・悟りではない。

(注)昭和、平成の学界では、これと異なる学説を唱える学者が多い。いわく、仏教は、縁起説のみ。仏教は無我説のみ。仏教に解脱はない。等々。そのような学説もあるが、西義雄氏、水野弘元氏、平川彰氏、三枝充悳氏、森章司氏、田中教照氏などは、経典から考察して、解脱、悟りを肯定する。仏教の学問は、混沌の状態にある。仏教学がそうであるから、それゆえ、禅学、道元学も、仏教とは何か、禅との異同を考察できる状況にない。

原始仏教における「四禅」の位置

四禅は解脱の前でありここに留まるな

 原始仏教では、戒も禅定も途中であり、目標は、心解脱であるとする。  禅定は、四段階に別れていて、「四禅」と呼ばれる。四禅は、心解脱ではなくて、さらに、四禅を得てそれに住した後、解脱する順序になっている(2)。四禅では、苦滅とされ、まだ、無明が滅していない。
 四禅を超えて「想受滅」を経て解脱するという経典もある(3)。

(参照)第一部「禅定にとどまらないのが仏教」

(注)

四禅についての研究

 「四禅」については、釈尊が「四禅三明」で成道したという経典がある。「三明」は悟りの智慧である。ここでは、修行の階位としての「四禅」のみをとりあげる。
 「四禅」は、原始仏教では、修行について説かれた重要な教説である。平川彰氏は、こういう。  阿含経では、このように重要な位置にある修行道であるから、否定せず、その趣旨を理解し、他の教説との関連を解明しなければならない。
 平川彰氏は、「阿含経では、四禅は決まり文句で、次のごとく説かれている。」として、次を引用する。
(注)

初禅

 初禅には、尋と伺があるという。「尋」と「伺」の定義は、阿含経では「その実態は掴み難い」(1)。倶舎論では「心の粗い作用が尋、微細な作用が伺であると解釈している」(2)。
 パーリの「清浄道論」では、「尋」は、対象に心を結びつけると言われ、「伺」は、対象を思惟すると説かれている(3)。
 平川氏は、「尋伺」について、考察し、次のように解釈された。  平川氏は、「倶舎論」を参照して「尋伺」を「尋伺の鼓動によって心が乱される」と、尋伺を否定的に解釈された。尋伺は、確かに貪瞋癡を伴う、浅いものが多い。だが、学問的解釈ではなく、苦に参じる禅(6)の実際からみれば、ここでの尋伺の評価は、別様にもできる場合があることを付け加えておきたい。仏教の初心者は、苦悩を持っている。苦の様子を正確に知る必要がある。あるいは、自分では苦悩を持たない僧侶は、仏教が「苦の四聖諦」というから、苦の様子を正確に知る必要がある。苦悩の意義がわからないうちは、定のみに(智恵の生まれない定)入らず、意識(仏教の正しい智恵による)を用いて、苦の様子を観察する必要がある。それを、それを「尋と伺」と表現していると私は解釈する。
 苦についての見方が明確でないうちは、正念(三禅に出ている)になりきれず、見た、聞いた、感じたのを、ちらり、ちらり、と言葉にして、思考まで発展させる。その思考の内容(貪瞋癡をともなう)によって苦を感じる。しかし、禅が熟してくると、ただ、見る、聞く、に徹するようになる。その段階では、たとえば、犬が「ワンワン」と泣く声が聞こえても、それだけであり、「犬だ」という言葉での意識を起こさない。そういう段階は、尋と伺の消失(二禅とされる)だと解釈する。従って「外界の認識は起らない」という解釈は注意を要する。この領域の研究者に、検討していただいて、少し補足、修正していただきたいと思う(7)。
 「尋伺」についての詳細は別に考察する。  「初禅」は、尋・伺はあってもそれによって苦の実態を観察しているやや進んだ段階である。禅を知らずに苦悶していた頃に比較して、思考の連鎖、苦痛感まで進むことが少なくなって、苦の様子もわかり、割合に早く言葉、思考などより「離」れるので、ある種の安楽を感じる。「喜と楽とある」禅であろう。まだ、充分に正念を相続できないものの、従来の苦悶の日々と比較して、思考の連鎖、苦の感情の生起が少なくなっているので、禅を学んでよかったという「喜び」を感じるのである。
 「ともかく初禅は、「諸欲を離れ、諸の不善の法を離れ、有尋・有伺にして、離より生ずる喜と楽とある初禅を具足す」と説かれているごとく、初禅は尋と伺、喜と楽、心一境性(定)の「五支」より成立している。」(8)
(注)

第二禅、三禅

 第二禅、三禅を平川氏は、こういう。  禅定がすすむと、言葉、思考への連鎖などがやむ。苦の実態もわかったので、あえて、苦を観ずる必要もなくなる。それによって、苦悩をほとんど感じなくなるので、従来苦悩にあった頃に比べて、喜びをおぼえる。それが、第二禅である。
 人は、同じ感じには、鈍感になるものである。第二禅の定がいつも得られると、初めは喜びを覚えていたが、それが平常となるので、喜はおさまり、「不楽」となる。苦悩はすでに解決し「不苦」である。ただ見、ただ聞き、言葉、思考におちず、「正念」にいることが多い。そうすると、苦痛に感じていたような感情、症状がおさまり、身体にも楽を感じる(3)。これが、第三禅である。

(注)

第四禅

 「三禅にあった楽も消失し、尋伺喜楽がないため、心は「不動」となり、不動定と呼ばれている。ここには捨受と正念のみがある。そして入息出息もなくなるという。入息出息とは呼吸のことであるが、これが全部なくなるというのではなかろう。しかし、第四禅では、あたかも冬眠に入った動物のように、身心の活動が寂滅して、身心の活動がきわめて微細になるために、呼吸も感知されないまでに微弱になるのであろう。」(1)  平川彰氏は、ここでは資料から離れ、氏の推量で述べておられる。経典の資料としては、詳細な説明は発見できないのであろうか。それが、発見されれば、それにゆだねるが、私も私の推量(禅体験による)を述べておこう。
 禅定が深まると、物自体、音自体になり、想いに発展しない。息は意識から消える。息がなくなるわけではなくて、意識から脱落するのである。息の自覚は、眼耳鼻舌身の作用ではなく、意での知覚作用であろう。眼耳鼻舌身で知覚する色聲香味觸に心が集中すると、意識で感じる息は自覚されない。それを「入息出息もなくなる」というのではなかろうか。
 禅定が、ここまで進むと、解脱、悟り、は近い。原始仏教では、四禅を修する者に、「滅尽定」「想受滅定」などが起こると、説かれていて、こういう定の後に、解脱したとの自覚が出ることになっている。それは、別に考察する。
 「四禅」が純熟すると、定(無想定、滅尽定=想受滅定など)に入る。平川彰氏は、上記の引用文に続いて、次のように説明している。  「四禅には、想の滅する無想定が含まれている。さらに想とともに受も滅する滅尽定が別に説かれている。想と受が滅すれば、それよりも粗い他の心理作用はすべて滅してしまい、無意識の領域の「細心」と、心所としては「触」のみが残存すると考えられている。(この滅尽定は無色界の非想非非想処定に含まれている。)」(2)  四禅が進むと、まず、想が滅し、次いで、想と受が滅し、それよりも粗い他の心理作用(つまり、言語化、思考、感情の感受、苦楽受など)はすべて滅する。だが、「失神」しているのではない。想受滅は、唯識説でいう「真見道・無分別智」のただ中の様子であろう。この後に、悟る、のである。この段階は、別に考察する。
 以上のような、滅尽定などに入り解脱に導く「四禅」の教説が、原始仏教では、重視されていた。釈尊も「四禅三明」で解脱した、といわれる成道説があるほど重要である。だが、「四禅」は、解脱、悟りではない。その前段階である。ここにとどまり、悟った、といえば、慢心、虚偽であり、自我はそのまま残り、自己の真実を究めておらず、無明は晴れていない。それが、原始仏教、本来の仏教の教説である。

(注)
 
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