第1部:
苦の解決手法=仏教経典による検証
研究メモ1部
四聖諦・八正道の重視=三枝充悳氏の考察
仏教は、(a)苦の四聖諦と(b)八正道を重視したが、これは、現代の心の病気のような苦悩解決が重要であり、(b)その実現のための心理療法が重要だということに該当する。(a)の理論だけではいけない、(b)の療法も重要だというのである。
四聖諦・八正道の重視=三枝充悳氏の考察
=仏教は、苦を実践的に探求する宗教である。
四聖諦が重要。十二支縁起の順観と逆観は、苦集諦と苦滅諦にあたり、苦滅道諦が必須である。それが「正定」などを含む「八正道」である。
初期仏教は四聖諦・八正道を重視
(a)初期仏教の要約
初期仏教の心材の部分(苦の考察から苦からの解放まで)の展望は次のとおりであろう。研究者の研究成果をまとめたものであり、それぞれ、もう少し詳細に研究を紹介していく。
- 釈尊は、当時の指導者の教えに従い修行したが、満足が得られず、ひとり修行していたが、はからずも当時の指導者の誰も経験しなかった「解脱」「成道」をした。
- 釈尊は成道の後、同じように修行し、解脱・成道すれば、苦から解放されるとして、それに至る宗教実践(修行)を人々に教えた。釈尊は、完成された形ではなくて、雑然とした形で、苦からの解放をめざして宗教実践を教えた。そこには、後に「八正道」として整理される宗教実践があった。それは、もちろん、「苦からの解放」をめざしたので、後に「四聖諦」として定型化される原型があった。そのように、まず、整理されない形の八聖道と四聖諦で釈尊の仏教は始まった。
- 釈尊の雑然とした教えが、弟子やその後の教団によって、まず「八正道」にまとめられ、ついで「四聖諦」も定型化され、その時に、道諦として「八正道」がとりこまれた。四聖諦は、苦諦、苦集諦、苦滅諦、苦滅道諦の四つの要素からなる。
- 初期の頃、「苦集諦」「苦滅諦」は、五支、八支などで説明されていて、後には、十二支縁起説に発展した。従って、十二支縁起は、釈尊自身が説いたものではなく、「苦集諦」「苦滅諦」にあたる。
- 「苦滅諦」は、仏教の目標であり、解脱の説明にあたる。これを思索し、理解するだけでは、「苦滅」「解脱」「成道」はできない。
- 自分自身の「苦滅」「解脱」を実現し、他者の苦滅、解脱を援助することができるようになるためには、「苦滅道諦」(八正道)の実践が必須である。
- 以上のことから、要約すると、こうなる。苦は現実に感受しているひとには、耐えられない苦痛である(「苦諦」)から、苦からの解放をめざしたいと思う。釈尊やその弟子たちの宗教実践により、苦は渇愛や無明から起こる(「苦集諦」)のがあきらかになった。だから、苦から解放されるには、渇愛や無明を滅すればよい(「苦滅諦」)ことがあきらかになる。そのためには、表面的な修練や根本的なものの見方などの転換をはかる功夫などを含む総合的な修行が必要である。それが後に「八正道」として整理された。
さらに簡単に言えば、自ら苦悩を持つ人や他者の苦悩を与える人は、根底に迷い、無明を持つ。正念、正定などを含む宗教実践をすれば、解脱(悟り)を得ることができて、自らは苦悩から解放され、他者には苦悩を与えないようになる。
以上のことを学会はおおよそ、あきらかにしてきたし、さらに詳細に研究がすすめられている。最近では、管見にはいったのでは、平川彰氏、三枝充悳氏、森章司氏などが、仏教経典の言葉を根拠として、まとめられている。
以上が学会で明らかにした初期仏教の真相であるとすれば(諸氏の研究を今後紹介する)、十二縁起説は、四聖諦の苦集諦、苦滅諦にあたる。それだけでは、仏教の一部であるし、新しい(釈尊は説かなかった)教説であるから、十二縁起説の思惟のみが「正しい仏教」であるというのは、学問を無視した暴論(三枝充悳氏からの批判)であることになる。釈尊の仏教は、十二支縁起説なしでも成立するものである。仏教の根幹は、十二縁起説を論じ理解するだけのところにはなかった。だからこそ、大乗仏教(後の中国や日本の禅も)は、十二縁起説の教説には執著しないで、別な教説や修行方法(やはり苦、苦集、苦滅、苦滅道の四つの要素はある)で、同じような苦からの解放、解脱の目標を達成できるとしたのである。
従って、初期仏教の実践領域では、「八正道」(さらに戒定慧の「三学」でもとかれた)を否定してはならない。また「苦からの解放」「解脱」を、八正道なしに到達できるものに曲げて解釈してはならない。
この記事では、主として三枝充悳氏の研究の重要点(結論)をひろいあげる。詳細は、原著を参照していただきたい。他の研究者もおおかた、この基本線は同じである。時期をみて、少しずつご紹介していく。
(b)初期仏教を哲学的・倫理的に解釈してはならない
釈尊の仏教が何であったか、金口の言葉はさぐり得ないが、文献学的に初期とされる経典が釈尊の説法に近いであろう、というのがおおかたの研究者が同意する。縁起説は、最初期の経典には出てこないので、かなり後期の思想である。初期の頃の教団で重視されたのは、苦に関する教説「四諦説」「四聖諦説」である。
「四諦説」について、三枝充悳氏の詳細な研究がある(1)。
「ともすれば、「成立ー消滅」を論理的ー哲学的なテーマとして、また「消滅への道」を実践的ー倫理的なテーマとして、とかく解しがちであるとはいえ、(多くのこれまでの諸学者がそうであるけれども)「四諦説」はその本質が「苦」に据えられているのであるから、どうしても「宗教的」な問題であることを、必ずしっかりと把握したうえで、考察されなければならない、そのことを、併せて特記しておこう。」(2)
(注)
- (1)三枝充悳「初期仏教の思想(下)」491−531頁。森章司氏も詳細な研究がある。「原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究」東京堂出版、1995年。森章司氏も、説一切有部でさえ、縁起説よりも、四諦説を重視した、とされる。(236頁)
- (2)三枝充悳氏、同上、496頁。
(c)初期仏教は四聖諦説に包含される
初期仏教が重視した根本教説は四聖諦と八聖道である。その二つには、「聖なる」という語がそえられていることが、最も重視されていた証拠であろう。三枝充悳氏は次のように言う。
「そして、さらに穿ったみかたをすれば、「四諦」は上述のようにしばしば「四聖諦」と称せられ、「八正道」は[右に「」八聖道とも書くと記しておいたが、それはあとに資料をあげて説明するように]ときに「八支の聖なる道」とも呼ばれて、ともに「聖(ariya)」の語を共有し、しかも「聖」の語を冠するのは、初期仏教の多数の術語のなかで、「四諦」と「八正道」のみに限定されていることが指摘されよう。」(1)
「「苦」の考察は、初期仏教の、しかもゴータマ・ブッダの、そして仏教全体を通じての、根本問題の探求・考察の時間的な意味における始元である、といわなければならない。いいかえれば、「苦」とは何であり、「苦」はどのようにおこり、「苦」をいかにして超克するか、という問題提起をもって仏教は始まり、出発し、こうして仏教はおこり、発展して行った、と見ることができる。」(2)
(注)
- (1)三枝充悳「初期仏教の思想」(下)レグルス文庫、第三文明社、1995年、536頁。
- (2)三枝充悳「初期仏教の思想(中)」305頁、(下)495頁。
(d)「十難無記」説からも四諦説重視
釈尊は、十(ないし十四)の問題について、無記の態度をとった。その際、無記でなく積極的に説いたのが「四諦説」であるという。それほど四諦説が重視されていたあかしである。
三枝充悳氏は、「四諦」説と「無記」説はゴータマ・ブッダ(釈尊)、初期仏教の立場であった、とされた(1)。
「そうすれば、「十[四]難無記」説を初期仏教の根本的立場と主張することが、そのまま「苦・集・滅・道の四諦」説もまた根本的立場に非常に近いものである、と説明することに通じているといい得るであろう。
さらに一歩ふみこんでいえば、先の(1)の資料に明記されているように、消極的ー否定的な「十[四]難無記」説と、積極的ー肯定的な「四諦」説とは、互いに補完しあって、初期仏教の当時、すでにゴータマ・ブッダの立場を明示するものであった、そのように仏弟子たちは理解し受容し納得して経典の文に掲げた、とも考えられるのではなかろうか。」(1)
三枝氏は、元来多弁なインド人であったが、修行に無用な問題については無記の態度をとった釈尊に帰依した、という。無用な多弁を慎み、斥け、沈黙を守ったのがゴータマ・ブッダであった(2)。
「かの禅僧はアートマンを説くから仏教ではない」という論もしばしばみられるが、これも後世の仏教思想や、自分で考えるアートマンの定義をそのままあてはめて考えるならば、独断・偏見となる。
三枝氏は、「無記」説に誤解があり、釈尊は「我」についても無記の態度をとったと説明するのは誤りであるという(3)。釈尊は、ある種のアートマンは肯定、賞賛しているという。
平川彰氏はこういう。
「ウパニシャッドのアートマンを、仏陀が肯定していたか、否定していたかということも、「阿含経」からは決定できない。ただいいうることは、ウパニシャッドと阿含とでは、アートマンを取り上げる次元が異なっていたということである。」(4)
三枝氏は、現代も、ひとりよがりな意見、独断的な主張が、かえって世俗を害するとし、「実行不可能なことがらを口外してはばからない」(5)と現代人を批判している。最近、縁起説のみを中心にした仏教を提案している人がいるようだが、現実にはそんな教団は過去の歴史上、存在しなかったようである。説一切有部でさえ、十二縁起説を中心とせず、四諦説(それには禅定などの八正道を含む)を中心にすえた(6)。過去に存在しなかったような新しい独断的な仏教(?)を提案するような実行不可能なことをいうのが三枝氏のいう「実行不可能なことがらを口外してはばからない」という批判ではないかと思うがどうであろうか。偏見ある説は人を心底から感動させることはできないから、採用する教団はないであろう。
歴史上存続した教団は、口ばかりで救済できない学者がいたから存続できたのではなくて、何らかの実践を通して苦悩解決への指導をしてくれた「宗教」としての教団であり、それゆえに社会で存続できたのであろう。
(注)
- (1)三枝充悳「初期仏教の思想(下)」512頁。
- (2)同(上)、105頁。
- (3)同(上)、100頁ー。同(中)、474頁。肯定するアートマンは、(中)430頁。
- (4)平川彰「平川彰著作集 第二巻」234頁。
- (5)同(上)、105−106頁。
- (6)森章司「原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究」東京堂出版、1995年、236頁。
(e)四聖諦の重視
このように、初期仏教は、四諦(四聖諦)説を重視した。
「以上、説いてきたところから、四諦説が初期仏教思想上に占める位置のきわめて重大であることが知られよう。その意味において、金倉圓照博士がその著「印度古代精神史」(三〇九ページ)に、
「大品」の作者は、四諦説のあるべきところに、十二因縁説を置き、もって成道以後の経歴を粉飾した。
と説いているのも、首肯されるものがあろう。
なお、四諦説の重視は、さらに部派仏教にも大乗仏教にも決して変らず、とりわけ部派の諸派には「仏教は四諦を基本とする」との主張がきわめて強い。」(1)
初期仏教が、四諦説を重視したことは、宇井伯寿氏や赤沼智善氏も、同様に明らかにしたと三枝充悳氏が紹介している(2)。
以上のように、初期仏教は四聖諦を重視していた。
(注)
- (1)三枝充悳「初期仏教の思想」(下)レグルス文庫、第三文明社、1995年、518頁。
- (2)同上、530頁、注7。
(f)四諦説のうちの道諦は「八正道」
次に、四諦説の道諦にあたるのが、八正道である。三枝氏の調査によれば「四聖諦」に含まれる道諦は「八正道」しかない。
「なお一言つけ加えておくならば、「道諦」を説くのに、「八正道」以外のものを置くことは初期仏教資料にはまったくない。」(1)
四諦説が確立した後、道諦に導入されたのは「八正道」のみである。これは、四諦説を重視する初期仏教教団の修行は「八正道」のみであることを意味する。そうすると、四聖諦を重視したということは、そのうちの「道諦」となる「八正道」をも重視したのである。従って、松本史朗氏のように「正定」を含む実践を仏教ではないとして否定するのは誤りである。仏教は、決して、「思惟」のみではなかった。
(注)
- (1)三枝充悳「初期仏教の思想」(下)レグルス文庫、第三文明社、1995年、535頁。
(g)縁起説との新旧関係
初期仏教は、四諦説を重視しており、成道過程を説く説は、四諦説で成道したとする説は、十二支縁起説よりも古く成立したというのが宇井伯寿氏の解釈であった(1)。三枝充悳氏も、五支縁起から十二支縁起説への発展過程を考察して、十二支縁起説は、四諦説より後に成立したという(2)。
ゆえに十二縁起説は釈尊の説ではない。
釈尊は成道の後、十二縁起を順観し、逆観したという経典もあるが、後世の粉飾であろう、という説に三枝充悳氏は同調された。「大品」の作者は、四聖諦のあるべきところに、十二因縁を置き、成道以後の経歴を粉飾した」という金倉圓照氏に三枝氏は賛同する。
「以上、説いてきたところから、四諦説が初期仏教思想上に占める位置のきわめて重大であることが知られよう。その意味において、金倉圓照博士がその著「印度古代精神史」(三〇九ページ)に、
「大品」の作者は、四諦説のあるべきところに、十二因縁説を置き、もって成道以後の経歴を粉飾した。
と説いているのも、首肯されるものがあろう。
なお、四諦説の重視は、さらに部派仏教にも大乗仏教にも決して変らず、とりわけ部派の諸派には「仏教は四諦を基本とする」との主張がきわめて強い。」(3)
平川彰氏も「仏陀が成道のあとに、十二縁起を順逆に観じたという経文は、後世に附加されたものであると見る学者が多い。」と述べる。(4)
むしろ、初期の仏教では、縁起説よりも四諦説が重視されていたというのを支持する学者が多い。従って、十二支縁起説は仏教の初期には、まだ成立していなかったとすれば、「仏教は縁起説のみ」とか「禅は因果を否定するので、仏教ではない」というのは、軽率・偏見であろう。仏教が本来何であったのかは、まだ、研究の余地がある学界の状況である。
もちろん、十二支縁起説や、さらに大乗の縁起説が仏教ではない、というのではない。後世の仏教教団は、苦の起滅、漏・無明の起滅を種々の縁起説で詳細に説明したのであるから。しかし、それも、修行して、実に滅すること、自己自身の上に実現することまでの修行を否定するならば、独断、偏見であろう。思想、説を対象的に思惟、理解するだけではなくて、自己自身の上で観察し、自己自身の上で、その滅が全人類に共通の実存の真相である(存在論的に)ことを、修行を通して、ある時に、実に證得し(認識論的に)、そして、それによって、そこからはずれないで働くこと(生活化、人格化)が、釈尊以来の仏教の目標ではないだろうか。そのように経典の文字を解釈することが可能であるから。
私がこんな訴えをせざるをえないのも、説・思想を思惟し、理解する段階のものだけを「仏教」であるという学者がいること、あるいは、そうあからさまに坐禅や修行や悟という体験を否定しなくても、学問研究の方が価値が高いかのように、実践者の仏教知識の欠如を軽侮する風潮を学者に感じるからである。有名大学を卒業した者、高学歴の者が、エゴイズムによって、社会を害することが多く報道される現状を見ても、人間にとって大切なものを探求するのに、知性、思惟だけでは、限界がある。
なお、実践者でも、浅い段階にとどまり慢心する者もいるだろう。それを見て、学者が実践者を軽侮、批判する気持ちもわからないわけではない。それならば、その浅い段階にいることを学問的に指摘すればいい。別な意図から、仏教の宗教体験を否定するべきではない。
坐禅、我執・偏見などの捨棄、悟道(菩提、涅槃、成道など)、慈悲行などの実践、体験、生活上での実現などをすすめる言葉も経典にあるのだから、学者自身の考えによる仏教を捏造せず、思惟、思想、説ばかりでなく、経典にある宗教体験のすべての意義を解明・説明してほしいというのが学問への希望である。
(注)
- (1)三枝充悳「初期仏教の思想(下)」530頁。
- (2)三枝充悳「初期仏教の思想(下)」530、725、730頁。「中」巻487頁)
- (3)同上、(下)518頁。
- (4)平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、285頁。
(h)十二縁起は「苦」の考察
三枝充悳氏は、十二因縁説は、「苦の考察」だとする。すなわち、四聖諦でいえば、苦諦(および)苦集諦にあたるとする。
「十二因縁説は、老死・苦というその苦の考察が出発点であった。ここには一語で苦と称してきたが、資料ではしばしば憂・悲・苦・悩・悶となっている。すなわち、苦をいったん憂・悲・苦・悩・悶と細かく分析し、さらに多くは「全」または「淳」などを伴いつつ「苦蘊」(苦の集まり)という語を加えて、いわば綜合し、それを始元ないし根源としてスタートを切り、老死、生・・・と進んで行った。いいかえれば、十二因縁説は、[先の記述を併せれば縁起説全体が]当時における一種の「苦の考察」にほかならない。」(1)
(注)
- (1)三枝充悳「初期仏教の思想」(下)レグルス文庫、第三文明社、1995年、731頁。( )のパーリ語の説明を省略した。
(i)十二縁起の逆観は目標
三枝氏は、十二因縁説の逆観は、仏教の目標であるとする。すなわち、十二因縁説の逆観は、苦滅諦であるという。
「順観のあとに逆観が付随しているのは、この苦の滅ということが、初期仏教徒の目標であったからにほかならない。[のちに形式上「無明ー老死」の十二因縁説は「苦」を省略するようになった]。」(1)
目標がわかっても、それだけでは、苦滅を実現できない。どういう方法で目標に到達すると仏典ではいうのか。逆観を思惟するだけで目標を実現できるとは、仏典は言っていないというのが三枝氏はじめ、多くの研究者の解釈である。他の研究者の説は別に確認するが、三枝氏は、以上のように「道諦」の実践・修行が必要であるというのが初期仏教の主張であり、実際に実践されたはずだと言う。私もこれに賛同する。
(注)
- (1)三枝充悳「初期仏教の思想」(下)レグルス文庫、第三文明社、1995年、732頁。
(j)苦から解放されるだけでよいのか
以上のように「苦」ということを中心にみてきた。しかし、「四諦説」というと、苦を中心とした教説であるから、苦から解放されるだけで仏教といえるのか、という疑問がある。
大乗仏教では、それではだめだとはっきりした教説を主張したが、釈尊や初期仏教でも、当然、自分の苦を感受しなくなった段階では阿羅漢を得た、成道とはしていない。
苦悩していた人が、修行しているうちに、苦から開放される。それを「解脱」「悟り」と勘違いすることが起こったようである。初期仏教でも、この勘違い、誤解を明確に指摘するようになったようである。次のような詳細な思想、議論が、その誤解を明確にしようとしたと思う。これらは、別に考察したい。
- 苦の四聖諦のほかに、「漏の四聖諦」の思想が出てきた。「漏」とは、煩悩である。慢心や人を害する心、仏教の真理を知らないこと、などが含まれる。苦の四聖諦がわかった後に、「漏の四聖諦」も證得しないと解脱して阿羅漢と認めない。とくに「無明漏」の滅である。
- 無明を滅しなければならない、と強調された。苦の滅だけでは、解脱ではない。苦は主観的である。めぐまれた者は苦を感じない者もいる。自分では苦悩しない彼らが、偏見、独断、エゴイズムをむきだしにして他者を苦悩させていて成道、解脱といえようか。苦の滅のほかに、無明、エゴイズムの滅が重大であった。
- 初期仏教の経典を注意して見ると、成道、解脱の際の心理は、苦の滅だけではない。「生がつきた」「後有」を受けない、最後の生存であることを身証しなければならない。自内證しなければならない。「無我」は、初期仏教では重要な教説であるが、論理的にのみ解するのではなくて、「無我」つまり「生がつきた」という「身証体験」をも言うのではないのか、それを初期仏教の分野であきらかにした研究があるのか、課題である。
- 聖人の種類で、「身証」(身体上の体験ある)、「慧解脱」(身体上の体験で証明していないで智慧で煩悩を滅している)、「倶分解脱」(体験と智慧の両方がある)の区分がみられるようになった。苦の滅だけではなくて、煩悩、漏の滅が問題とされた。しかも、智慧で、煩悩を滅しているか、身体で証明したかの区別がされた。
- 四聖諦に三転(示転、勧転、証転)の思想がある。説を理解するだけではなく、行じる段階にとどまらず、証得しなければならない。
- 他者を救済できる智慧がなければならない。苦の四聖諦を実に證得して解脱しているのであれば、一人で、他者の苦悩を救済できるはずだとされた。他に依存せず一人で他者を救済できないのであれば、まだ、実に苦の四聖諦を證得していない。自分の苦だけ感じなくなって、他者を救済しないのは、真の悟りを得ていない。こうして、特に大乗の教団から、慈悲が強調された。
このように、初期仏教経典には、十二支縁起説だけではいけないことを示す多くの教説があり、縁起説の理解だけ、あるいは、坐禅しているだけでは、釈尊本来の仏教ではないようだ。道元が坐禅さえしていれば悟りだといった(多くの道元学者が主張する)としたら、それは、偏見・我執も捨てず、他者の苦悩も救わず、釈尊や初期の本来の仏教から遠く離れているのではないか。真剣な再検討が望まれる。さもなければ、そんな教団および仏教学は社会への貢献をはたさず、存続を願う人もなく、衰退の一途をたどるであろう。
研究メモ1部
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