もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
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臨床禅学
仏教学・禅学の批判
正念=貪欲・憂悲を除く=初期仏教
「正念」=苦悩を招く思考を止める
我々には煩悩があり、それが、業(思考、語、行為)を起し、苦(自分や他者を苦しめる)を招くという点は、初期仏教、大乗仏教を通じて共通の教えである。煩悩の定義やその捨棄の時点は異なるが、次の点は、ほぼ共通である。
- (A)「悪」の思考(意業)が苦をもたらす。苦をもたらすものが「悪」であり、一般的、法律的な悪の定義とは異なる。
- (B)「悪」をもたらすものには、煩悩、随煩悩がある。
仏教者となって、初歩の段階では、煩悩とは何かを知り、それを捨棄していくことが必要となる。苦をもたらす業(ごう)には、思考によるもの(意業)と、言葉を発するもの(語業)と、行為によるもの(身業)がある。考えるだけでも、悪である、すなわち、苦をもたらすということが強調されている。このことは、現代のわれわれも実感できる。たとえば、自分の命がなくなるかもしれないということを考えると、不安が大きく、それが、情動性自律反応を起し、われわれの身体を傷つけ、行動への意欲をなくす。それがひどいと、不安障害の病気になる。怒りをおぼえる内容を考えると、心臓病や血圧系の病気をもたらすだろう。
今の例は、自分への影響を述べたが、貪瞋癡などの煩悩は、それを含んだ思考(意業)を起すと、悪意を含んだ言葉(語業)や行為(身業)となって他者に向けられることが多いので、他者を苦しめる。仏教は、こういう他者を苦しめることも批判する。煩悩は自分と他者を苦しめる悪であるので、煩悩を捨棄するのが、仏教の重要な修行になる。
四念処法
自分のすべての煩悩に、一度に気がつき、捨棄できるものではないので、段々に捨棄していく。深層にあって自覚しにくい煩悩もある。煩悩を捨棄する方針としては、対症的、形式的な方面から入るものと、根本的な方面がある。
まず、対症療法的、形式的な実践が教えられる。煩悩を含んだ思考が苦をもたらすのであるから、そのための心得として、種々の方法が考案された。四念処として整理された。
次のような手法がある。
四念処は、修行のほとんどすべてを網羅しており、同時に修習しようとするものではない。すべてに習熟するのは、相当の修行期間が必要であろう。四念処を修習する時には、煩悩を除いている。
四念処は、貪瞋癡などの煩悩を除く意味がある。四念処の最初に、その意義が次のように説かれている。
「比丘達、ここに有情の浄化、愁悲の超越、苦憂の消滅、理の到達、涅槃の作證の為に、この一乗あり、即ち、四念処なり。四とは何ぞや。
いわく、ここに比丘、身において身を随観し、熱心にして、注意深く、念持してあり、世間における貪憂を除きてあり。
受において受を随観し、熱心にして、注意深く、念持してあり、世間における貪憂を除きてあり。
心において心を随観し、熱心にして、注意深く、念持してあり、世間における貪憂を除きてあり。
法において法を随観し、熱心にして、注意深く、念持してあり、世間における貪憂を除きてあり。是のごときを四念処という。」(1)
四念処は「正念」
この四念処を修習していることが「正念」でいることになる。「大般涅槃経」に、次のように、正念が四念処と関連して説かれている。そして「貪欲と憂悲とを排除」するのを当面の目的とする。
「比丘等よ、比丘は正念にして自覚あるべし。こは汝等に対する我等の教えなり。
而して比丘等よ、比丘が正念にあるとは何ぞや。ここに比丘等よ、比丘は身に就きて身を観察し、熱心に自覚し、考え深く住し、この世界において貪欲と憂悲とを排除すべし。
受に就きて・・・乃至・・・心に就きて・・・乃至・・・法に就きて法を観察し、熱心に自覚し、考え深く住し、この世界において貪欲と憂悲とを排除すべし。かくして比丘等よ、比丘は正念にてあるなり。」(1)
自燈明・法燈明
「大般涅槃経」の最後に、有名な自燈明・法燈明の説法がある。釈尊最後の説法といわれる。
この時にも、「正念」とされる修行法が繰り返されている。これをもって、仏教における修行のうちでも「正念」の重大さが推測される。その時に、「貪欲と憂悲とを排除」するという点に、注目したい。正念でいれば、貪瞋癡と苦悩から免れる。貪瞋癡と苦悩を解決するためには、「正念」でいることである。
「されば、阿難よ、ここに自らを洲(燈明)とし、自らを依所として、他人を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住せよ。而して阿難よ、何の故にか自らを洲とし、自らを依所として、他人を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住するや。
阿難よ、ここに比丘は身に就きて身を観察し、熱心に自覚し、考え深く住し、この世界において貪欲と憂悲とを排除すべし。
受に就きて・・・乃至・・・心に就きて・・・乃至・・・法に就きて法を観察し、熱心に自覚し、考え深く住し、この世界において貪欲と憂悲を排除すべし。かくて阿難よ、比丘は自らを洲とし、自らを依所として、他人を依所とせず、法を洲とし、法を依所とし、他を依所とせずして住す。
阿難よ、げに、今においても、又は我死して後においても、自らを洲とし、自らを依所として、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所とし、他を依所とせずして、修行せむと欲するものは、阿難よ、彼等は我が比丘中にて、最高処に在るべし。」(1)
(注)- (1)「南伝大蔵経」7巻、68頁。サンスクリット経典の言語で「「洲」と訳されtらい、「燈明」と訳されたりする。島、洲なら川の中で流されない足場である。洲も燈明も「依り所」の譬えに使用されている。
仏教や禅の修行において、「正念」が重要である。初心者から解脱の者まで、正念が重要である。自分や他人を苦しめる貪瞋癡を起さない。貪瞋癡を起さないためには、貪瞋癡の種子まで捨棄しなければならない。そのためには、智慧をもって、貪瞋癡の種子とは何かを探求し、自己にある貪瞋癡を十分自覚し、自己批判して、根底から変えていかねばならない。
なお、「正念」は初期仏教の最も重要な修行道とされ、四諦説にも組み込まれた「八正道」の中にも、「正念」がある。また、「八正道」として整理、体系化される前にも実質的には「正念」と同じであり、正念の萌芽とされる修行法が最古の経典「スッタニパータ」にも説かれている。
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