もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

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仏教学・禅学の批判

正念=貪欲・憂悲を除く=初期仏教

「正念」=苦悩を招く思考を止める

 我々には煩悩があり、それが、業(思考、語、行為)を起し、苦(自分や他者を苦しめる)を招くという点は、初期仏教、大乗仏教を通じて共通の教えである。煩悩の定義やその捨棄の時点は異なるが、次の点は、ほぼ共通である。  仏教者となって、初歩の段階では、煩悩とは何かを知り、それを捨棄していくことが必要となる。苦をもたらす業(ごう)には、思考によるもの(意業)と、言葉を発するもの(語業)と、行為によるもの(身業)がある。考えるだけでも、悪である、すなわち、苦をもたらすということが強調されている。このことは、現代のわれわれも実感できる。たとえば、自分の命がなくなるかもしれないということを考えると、不安が大きく、それが、情動性自律反応を起し、われわれの身体を傷つけ、行動への意欲をなくす。それがひどいと、不安障害の病気になる。怒りをおぼえる内容を考えると、心臓病や血圧系の病気をもたらすだろう。 今の例は、自分への影響を述べたが、貪瞋癡などの煩悩は、それを含んだ思考(意業)を起すと、悪意を含んだ言葉(語業)や行為(身業)となって他者に向けられることが多いので、他者を苦しめる。仏教は、こういう他者を苦しめることも批判する。煩悩は自分と他者を苦しめる悪であるので、煩悩を捨棄するのが、仏教の重要な修行になる。

四念処法

 自分のすべての煩悩に、一度に気がつき、捨棄できるものではないので、段々に捨棄していく。深層にあって自覚しにくい煩悩もある。煩悩を捨棄する方針としては、対症的、形式的な方面から入るものと、根本的な方面がある。
 まず、対症療法的、形式的な実践が教えられる。煩悩を含んだ思考が苦をもたらすのであるから、そのための心得として、種々の方法が考案された。四念処として整理された。 次のような手法がある。
 四念処は、修行のほとんどすべてを網羅しており、同時に修習しようとするものではない。すべてに習熟するのは、相当の修行期間が必要であろう。四念処を修習する時には、煩悩を除いている。
 四念処は、貪瞋癡などの煩悩を除く意味がある。四念処の最初に、その意義が次のように説かれている。

四念処は「正念」

 この四念処を修習していることが「正念」でいることになる。「大般涅槃経」に、次のように、正念が四念処と関連して説かれている。そして「貪欲と憂悲とを排除」するのを当面の目的とする。

自燈明・法燈明

 「大般涅槃経」の最後に、有名な自燈明・法燈明の説法がある。釈尊最後の説法といわれる。  この時にも、「正念」とされる修行法が繰り返されている。これをもって、仏教における修行のうちでも「正念」の重大さが推測される。その時に、「貪欲と憂悲とを排除」するという点に、注目したい。正念でいれば、貪瞋癡と苦悩から免れる。貪瞋癡と苦悩を解決するためには、「正念」でいることである。  仏教や禅の修行において、「正念」が重要である。初心者から解脱の者まで、正念が重要である。自分や他人を苦しめる貪瞋癡を起さない。貪瞋癡を起さないためには、貪瞋癡の種子まで捨棄しなければならない。そのためには、智慧をもって、貪瞋癡の種子とは何かを探求し、自己にある貪瞋癡を十分自覚し、自己批判して、根底から変えていかねばならない。  なお、「正念」は初期仏教の最も重要な修行道とされ、四諦説にも組み込まれた「八正道」の中にも、「正念」がある。また、「八正道」として整理、体系化される前にも実質的には「正念」と同じであり、正念の萌芽とされる修行法が最古の経典「スッタニパータ」にも説かれている。
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