第3部−悟り=苦・エゴイズムなき人間性

第3部  

初期仏教の解脱・悟り=想受滅




四禅を超えて想受滅

 原始仏教では「四禅三明」の教説、あるいは、単に「四禅」の教説が広く説かれている。「四禅」の後に、さらに、無色界の四処定(空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処)を説明することが多い(1)。想受滅は、それをも超えた位置に置かれていて、この想受滅の直後に「解脱」するとされる。
 「想受滅」を出た直後に解脱するとするが、経典によりその効果の説明が多少異なる。  (A)は、漏、すなわち、煩悩の滅盡している自己の根源を見る体験をする。漏の滅尽ということから、「滅尽定」とも言う。解脱は、己の苦の滅盡では完成しない。さらに、漏の滅尽をもって完成とされた。大乗仏教ではさらに、微細な煩悩障の滅盡と慈悲行を言う。
 (B)は、解脱が、教説などを論理的に思惟・理解するものではなくて、一種の直覚体験によるものであることを言う。原始仏教は、知見よりも、それを上であるとしていた。この想受滅による智慧の獲得を「心材」とし、「不動の心解脱」としている。
 (C)は、想受滅においては、その呼称のごとく「想」と「受」が滅するのであるが、覚者と死者の違いをいう。覚者は死者と違って、いのち、あたたかさがあり、諸根(眼耳など)の働きはあるが、心作用のうち受、想、行が滅している。
 (D)は、ほとんど念がおこらないような澄み切った禅定の境地もまた、解脱ではないので、そこに執著することを捨てよという。そこにも執著せずに、坐禅工夫をしていると想受滅に達する。

(注)

想と受の滅

 「受」と「想」と三つの「行」が滅するというが、これは、どういうことだろうか。五蘊の教説では、色受想行識の五つで、「色」は物質、「受」は苦・楽・不苦不楽の感覚作用、「想」は表象作用・認知作用、「行」は主に思(意志作用)で受想識以外のすべての心理作用、「識」は、了別・判断作用である(1)。
 想がなければ、識も働かないので、想受滅のただ中では、五蘊のうち、心作用と言われる「受想行識」のすべてが滅していることになる。そうすると、物質のみ残り、心作用がない。
 心作用がないとは言っても、「諸根は浄静である」というから、眼耳鼻舌身などの働きは、破壊されていない。 心作用は主観といってよいから、浄静な諸根と客観がある、という状態である。諸根がありながら、「想」の作用がないのである。物のみ心にある。物が心になっている。見る主体、聞く主体はない。これを経過した人は「生が尽きた」という表明をするというが、生きている自我、自我に執著する人が「有ると感じる自我」がない、ということであると考えられる。物のみあって自我がないというのであれば、輪廻から解脱することにもなる。これを明確に断言することは、知識や論理、思想の操作ではとうてい達しえないものであり、禅定を重ねた修行者の心の内に起こる体験的なものといえる。
 このように考えると、道元などの禅者のいう「自己を忘れる」体験と同じと考えてよいと思う。これは、唯識説の真見道・無分別智や、中国・日本の禅者の見性体験・悟り体験の言語表現と比較してみる必要がある。さらに初期仏教では、滅尽定、身証、寂静解脱などの教説も、想受滅という一種の自我の滅尽の体験が重要視されていることに関係があるものと考えられる。それも、詳細に分析する必要がある。
   パーリ経典では、想受滅を得て、心解脱する。想受滅は、唯識説の真見道、禅の見性体験であると思われるが、学問的には解明されていない。唯識説が、無分別というところを、原始仏教は、想、受が滅尽するという表現になったのである。想い(分別)以前の事実(もの)のみあって、「想」にならない寂静を体験することとされる。

(注)

「スッタニパータ」

 最も初期の経典群に属するといわれる「スッタニパータ」にも、解脱に関連して、想受滅または想を離れる(1)、識の滅または識別の止滅(2)、名称と身体(形態)から解脱(3)、捨念清浄(4)、論議が絶える(5)、ということが言われる。
 このことからも、最も初期の頃から、想、受、識、言語作用の滅した清浄な体験があって解脱したと考えられる。
 なお、「想受滅」の直後に解脱するというのは、「無間定」も、その直後に解脱する点で同じであるから、「想受滅」と「無間定」は、同じものである。

(注)



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