もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
正師の指導を受けることの大事

「目的を持たない坐禅」をするのであれば、指導者など必要ない。そんな禅ならば、指導者が必要ないから、誰でもできるわけだから、そのような説を唱える師家などなくてすむ。そのような禅は組織的に啓蒙される必要もない。独学で充分である。
だが、釈尊の仏道は、簡単ではない。先達が必要である、という。なぜなら、釈尊の仏道は、「四聖諦」で説かれたように、「苦からの解放」という目的があるからである。そのために「エゴイズム(煩悩)の捨棄」があるからである。エゴイズムがあるために、自分では苦しみ、他者を苦しめる。その問題を起こす自分のエゴイズム、心の闇に、自分では気がつかない。気がつけば、自他を苦しめないはずである。
肉体の病気になった人が治すには、医者が必要である。心の病気になった人が治すには、臨床心理士、精神科医などが必要である。問題点を指摘し、指導者自身が、問題を取り除いたり、本人が心の持ちようを変えていかないと治らない種類の問題の場合には、どうすればよいか適切な指導をしてくれる。
仏教や禅が、「苦からの解放」「エゴイズム(煩悩)の捨棄」などの自覚されにくい心のゆがみから起こっている問題を解決するのであれば、そのことをよく知っている指導者の指導がなければ、治らないのは、当然である。仏教や禅が、「苦からの解放」「エゴイズム(煩悩)の捨棄」をとおして「真実の自己」「法」を悟るのであれば、当然、そのことをよく知っている先達の指導が必須となる。
そこで、原始仏教では、先達の必要性を説く。道元禅師も必ず「正師」に会え、という。
正師でなければ救えない
仏道は、本人には自覚されない我執、煩悩などによって、自分や他者を苦しめるものであることを自覚の上に出し、変えていく側面が重要である。本人の自覚にない心の作用を自覚の上にだし、変えていくことは簡単ではない。そのために、先達が必要である。原始仏教では、先達の必要性を説く。漢訳「周那問見経」に、釈尊の次の言葉がある。
「周那、若し自ら調御せざる有りて他の調御せざるを調御せんと欲せんは終にこの處り(ことわり)無し。自ら没溺して他の没溺するを抜出せんと欲せんは終にこの處り無し。自ら般涅槃せずして他の般涅槃せざるを般涅槃せしめんは終にこの處り無し。周那、若し自ら調御する有りて他の調御せざるを調御せんと欲せんは必ずこの處り有り。自ら没溺せずして他の没溺するを抜出せんと欲せんは必ずこの處り有り。自ら般涅槃して他の般涅槃せざるを般涅槃せしめんは必ずこの處り有り。」(1)
「調御」とは、心をととのえることである。たとえば、いじめを行うような醜い心に気がついて捨てていくように自分の心をととのえることである。エゴイズムなどの心を調えるのである。
「没溺」とは、苦しみの泥沼の中に落ちてもがいていることである。「般涅槃」とは、エゴイズム、苦しみの根源を知り解脱して心の平安を得ることである。
自ら調御し、没溺せずして、般涅槃した人でなければ、他の人を調御し、没溺から抜け出させ、般涅槃させることはできない、という。こういうことを自ら経験した人が、指導者である。
自覚されにくい認知のゆがみにより、自分で苦悩を起こしていることがある。あるいは、自分が自分のエゴイズムなどを自覚しないために、他者を傷つけているかもしれない。
たとえば、嫁と姑の対立によって、二人とも不幸になっている。両者が、自分の作法、しつけ、生き方などにあまりに執著し、ささいな事(生命の危険がおよぶようなことではない作法、言葉など)をきっかけにして、不平・不満をつのらせていく。時代の違い、育った環境、年齢の違いなどから、すれ違いは当然と思って、事情を察知し、相手の作法、生き方などを、包容力を持って受け止めることをせず、隣人のような赤の他人よりも憎むようになる。そうすると、その二人の対立を見て、その女性の夫も苦しむ。本来、母親にとっては、自分の息子の配偶者という大切な人であるから、息子にとっては、母親にも、女性を愛して、仲良く、暮らしていってほしいはずである。三人が、不幸になっている。憎しみ、苦しみがあると、精神的ストレスであるから、心の病気ななったり、免疫力を破壊して、身心症をわずらい、長生きできない。このような、苦しみの根源に、エゴイズムがある。姑は、悪いのは、嫁だという。嫁は悪いのは、姑だという。お互いに、自分では自覚しない自分のエゴイズムがある。三人が不幸になってまで、守らなければならないような作法、生き方、立場ではないことを自覚しない。相手の頑固な心、エゴイズムは変えにくい。自分のエゴイズムは、自分で気がつけば変えていける可能性がある。他人よりも自分の方が変えやすい。自分のエゴイズムが発現されなければ、相手を不幸にすることが少なくなる。これが、一つの例である。
自他の苦の解決のためには、自分(のエゴイズムなど)を調御しなければならない。調御することを知らない人は、他の人に心を調御することを指導できない。また、自分で苦しみの中にいる人は、苦しみの原因と脱出する方法を知らないのであるから、他者の苦しみの解決を指導することはできない。涅槃(解脱=他者をも苦しめず、自分でも苦しまない最高の平安)をしらない人は、涅槃を得たいと願う他者を涅槃に導くことはできない。
このように、自ら調御し、没溺から脱出して、般涅槃した人しか仏教は指導できないと、言っているのが、原始仏教経典の「指導者論」である。道元が、「正師」しか、指導できないといっているのと、同じ趣旨であると考えてよいであろう。
このことは、仏教は、自ら調御し、没溺せずして、般涅槃した人の指導が必須である、というのである。道元も「正師」につけ、というからには、坐禅が目的を持たないのでは決してありえないことを裏付けるものである。また、縁起説の理解だけのことであれば、経典、論書を読んでも達成するから、「正師」が必要だという道元の仏道は、縁起説を思惟、理解するものでもないことを証拠だてるものである。
(注)
- (1)大正、1巻、574b。ほとんど同じ言葉が、パーリ経典の「削減経」(「南伝大蔵経」9巻、71頁)にある。
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