第3部−悟り=苦・エゴイズムなき人間性

第3部  

三転説

仏教の解脱・悟りは、言語の思惟にとどまらない、ということは、「三転説」という教説でも、原始仏教経典にも記述されている。
  • 示転
  • 勧転
  • 証転
  • パーリの三転説
  • 漏の四聖諦

    三転説

     初期仏教の経典や、説一切有部の教義に示転、勧転、証転の三転がある。示転は、見道とされるが、その後に修行があって、さらに、その後に、苦が滅し、苦滅聖諦が作証されるとする。

    示転

     三転説が、漢訳『雑阿含経』の「転法輪経」(説一切有部が伝持)にある。まず、示転は、次のとおりである。  平川彰氏は、示転の意味を次のように解釈する。  この漢訳『雑阿含経』の「転法輪経」の示転は、「見道」に相当する。加行道の修行の結果、智慧が生じた。しかし、まだ最終の解脱ではない。

    (注)

    勧転

     次に、断ずべし、作証すべし、修すべし、との智慧が生じるというのであるから、「修行」が予想されている。したがって「勧転」は、「修道」に相当する(1)。

    (注)

    証転

     次に、集諦は永断された、滅諦は作証されたとあるので、証転とされる。  これは、修行の完成を示しているので、「無学道」に配当する(2)。

    (注)

    パーリの三転説

     パーリの三転は、上記の説一切有部とは異なる解釈をする。パーリの三転説では、苦聖諦について示転・勧転・証転をマスターし、次いで、苦滅聖諦について示転・勧転・証転と観察、滅聖諦をマスターし、次いで、道聖諦について示転・勧転・証転を観察する。(1)
     平川彰氏は、これは、これで意味があるが、これでは、示転、勧転、証転の間が短く、ほとんど一時期に三を経過すると解釈される。加行道の修行が完成したときの三転であるとされる。これは、アビダルマの教理で言えば、「見道」に相当する。見道のとき、三転を観察する。この後、「五蘊無我」の教え、または、漏の四聖諦を修行して解脱して、阿羅漢になる。それが「無学道」である(2)。
     有部パーリ
    見道示転示転、勧転、証転をすべて一時に
    修道勧転五蘊無我を修習
    無学道証転無我を證得


    (注)

    漏の四聖諦

     パーリの苦の四聖諦の証転が究極の解脱でないとする教理は、苦の四聖諦だけでは解脱ではないとし、さらに漏の四聖諦を説く経典とも関連している(1)。

    (注)

    倶舎論の三転説

     倶舎論でも、示転を見道、勧転を修道、証転を無学道に配当した(1)。

    (注) 有部の『倶舎論』では、示転を見道、勧転を修道、証転を無学道に配当した(1)。示転から聖者とされること、しかし、それだけでは、作證したとされていない。示転で智慧を得るが、有部の見道は、浅いのである。十二縁起を聞いて遠塵離垢の法眼浄を得たのが見道であるという経典もある(2)。苦からの解脱だけでは、仏道の完成ではない。漏(煩悩)からの解脱まで要求される。

    (注)
     以上のように、経典の文字を研究、理解しているのは、示転の段階である。縁起を思索するのもこの段階である。坐禅を含む八正道は、勧転の段階である。修行して、証するという証転を達成しなければならないとうのが初期仏教である。それは、禅でいう見性、悟る、得道、得法、無生法忍を得ることであると思われるが学問的には解明されていない。こういうことは、まだ、学問的に明らかにされたとはいいい難い段階にある。だから、仏教、禅には、種々の誤解、偏見、独断が起こっている。
    第3部  
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