もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
研究メモ2部
臨床禅学
仏教学・禅学の批判
念処経の修行(「四念処」)
「念処経」の修行と現代の坐禅
初期仏教のパーリ経典の「念処経」の修行を検討する。
「念処経」(1)は、八正道のうちの「正念」の詳細、あるいは、八正道の重要部分を占める修行である。初期仏教徒たちが実践していた修行である。
「四念処」は、身、受、心、法の四つに関して観じるので、「四念処」と呼ばれる。
念処経による修行
田中教照氏が、これを検討しているので、参照しながら考察する(2)。「念処経」に、次の修行法が説かれている。<< >>は、現代の禅との関係を私が観察したものである。
- (A)身において身をくりかえし観察する(循身観)
- (イ)坐し、入出息に念を立てる。
(
出息入息法)
- (ロ)自らの行住坐臥を知る。
- (ハ)常に自らの行動を知る。<<以上の三つは、現代の禅でも実践するよう指導される>>
- (ニ)不浄観(ホ)四界観(ヘ)死体観<<現代では、これら3つは実践しない>>
- (B)感受において感受をくりかえし観察する(循受観)
- 楽受(或いは苦受、不苦不楽受)を感受して、自分は楽受(或いは苦受、不苦不楽受)を感受すると知る。−−−<<これも、現代の禅では生活の中での工夫として実践している>>
- (C)心において心をくりかえし観察する(循心観)
- むさぼり、いかり、愚痴などを、そのままに知る。−−−<<これも、生活の中での工夫として実践している>>
- (D)法において法をくりかえし観察する(循法観)
- (イ)五蓋について、未生、已生を知る。<<生活の中での工夫として実践している>>
- (ロ)五取蘊について観察する。<<坐禅中に行っている>>
- (ハ)六内外処について、結、捨離などを知る。<<座談会、提唱において実演されて知り、坐禅中に確認している>>
- (ニ)七覚支。<<これは上記などとの重複である>>
- (ホ)四聖諦について観察する。<<悩みを持つ人は、独参中、坐禅中、生活の中で行っている>>
禅の修行法
以上が、阿含経による修行(の一つ)であるが、現在、実践している坐禅と実質は同じようなことを述べていると考えられる。ただし、(A)-(ニ)(=不浄観、四界観、死体観)は現代の禅では、実践しない。「念処経」に説かれている他の修行法は、ほとんど現代の坐禅にも含まれている。これらは、中国禅の修行法(公案などで推測)とも類似していると思う。中国禅は文字による説明をせずに、行動で指導して、念処経と同じことを会得させようとしている。指導の精神は実質似ているというのが私の解釈である。禅学では、思想の研究は多いが、修行の研究は少ないので、これは、まだ充分解明されていないようである。
ただし、これらが、一つずつ別に行われるということではない。坐禅は坐っているだけが禅ではない。坐っていない時の指導法を分析してみると、これらの要素が含まれているという意味である。ひとつの禅における修行法、指導が、念処経の要素の二つ以上を含む。また、ある種の指導なり、公案なりが、念処経で列挙したうちのいくつかの要素を含む。そして、総合的に考えて、坐禅(坐ばかりでなく、その禅僧のすべての指導を含む)と、念処経の修行は、かなり類似していると思う。もちろん、全く同じではない。大乗などで強調された「慈悲」は、念処経の工夫には含まれていない。少なくとも、自分の悟りだけなら、念処経の修行で達成される。そのように、この経にも書いてある(3)。
詳細に記載することは省略するが、禅の指導法との関連を少し説明しておく。なお、古則公案で参究されているものもある。下記は、一つの意図であり、指導者によって、場面によって、別の意図を持つこともある。下記の解釈は、一面、部分にすぎない。ただ、初期仏教の修行が、中国禅、道元禅、白隠禅、現代の禅と指導の精神が実質類似することを信じてもらえる範囲にとどめる。
- 道元の説法の記録である『永平広録』を見ると、道元は、説法の途中や終わりに、払子(竹棒で作った法具)で、円を描いたり、投げたりしている。これは、次のことなどを実演し、自分の心の観察を実習させている、とみられる。払子が来ないうちは「未生」であり、払子が来れば「已生」である。投げれば、「捨離」しなければならない。そういう現実の心をみつめさせる。あれこれ分別すると「自分の行動を自覚」しなくなる。それに、実際気がつかせ、「常に気をつけている」=「正念」を習得させる。
- (A)-(ハ)(=常に自分の行動を自覚している)
- (D)-(イ)(=五蓋について、未生、已生を知る)
- (D)-(ロ)(=五取蘊について観察する)
- (D)-(ハ)(=六内外処について、結、捨離などを知る)
- 禅の指導者が、手元にある果実を指さして「これは何だ」と質問する。「みかんです」と答えれば落第である。説法中に、鳥の声が聞こえてくれば、「あれは何だ」と言う。弟子は、それを聞いて様々に反応する。「鳥ではない」瞬間がある。「鳥」と分別が始まる瞬間を観させる。未生、已生、行動の自覚、結、捨離のこころの様子の実演を意図する場合がある。
- 黄檗は臨済を棒で打った。正受老人は白隠を棒で打った。徳山は指導において、よく棒を使った。未生、已生、行動の自覚、結、捨離のこころの様子の実演であり、とくに、(B)(=苦受)の実演の意図があるだろう。苦受を苦受のままに受容するのを学ばせるのは、非常に高度な指導である。中国禅の祖師や、正受老人は行った。現代、私の関係する指導者は、こういう荒い指導はしないで、軽く触れるとか、見える物(目前の花、果実など)、音(手でポンと拍手する。たまたま聞こえてくる犬、鳥の声)などで観させる。
また、自分の現実の苦について、同様の指導が行われる。当時の禅僧(白隠も)は、特に「苦」を感じていなかったので、こういう手荒い指導もやむをえないと考えたのであろう。だが、時代と状況が違う。道元のそばの人や現代人が、生活上の苦を感じていれば、その苦を「苦受観」に使うことができる。
- 四念処の内容を見ればわかるように、「観」が中心であり、思考・分別をしない「中道」の実践である。「苦」でも、他人のせいだ、自分のせいだ、などの分別で原因をさぐる二元分別をやめて、苦の生滅を観じるのが中心の修行である。四念処がすべて、一般的な概念を分別するのではなく、自分の上におこる「身受心法」を観じる。これは、概念の思索ではなく、二元分別を超えた修習である。苦から離れて、煩悩などのエゴイズムなどのない自己、生がつきた(無我)自己を證し、苦の原因、漏(煩悩など)の原因と解脱の方法(道)を会得するのは、四念処によるというのである。なお、四念処に順ずる道は、八正道、六波羅蜜、後世の「禅」もある。
禅の指導には、ほかにも、このような、生活の現場で、行動で示す指導が多い。四念処も八聖道も「中道」とされており、上記のような観をするためには、二元分別やめなければならない。「中道」というからには、原始仏教でも、四念処の修行の中で、それが修されていたはずである。もちろん、後世の禅は、特に戯論、分別を離れさせたことは「中道」に徹底させたからである。上記のような
論理的、分析的に文字で記述したのが、初期仏教の経典であるが、後期になって、修行しない人が書いた「修行論」になると、実際の指導には、役にたたない机上論、実践理論になったであろう(4)。しかし、初期の頃の阿含経では、実際に行われた指導法、修行法を論理的、分析的に記したのであろう。インド人らしい方法である。文字の種類、行為で示す点が、インドスタイルとは異なるが、その目標と、修行の効果については、中国禅や、道元禅、白隠禅に通貫するものがあると私は考える。
中国禅、白隠禅は主に論理的、分析的言葉で示さずに、別な言葉、行為で示す傾向が強い。しかし、達成すべき目標と、修行の結果体得される心理は、類似する(縁起説その他思想の違い、慈悲の心理・行為に欠ける点など、もちろん相違する点も多い)と私はみている。
道元禅師
以上の「念処経」に説かれている修行法は、基本的には、道元にも、現代の坐禅にも含まれていると私は解釈する。それは、別に考察する。「念処経」と同様の修行<是非善悪を管しない「中道」の、只管打坐、念想観の測量をやめ、あに坐臥にかかわらんや=(常に)>を実践するうちに、坐す時も、家庭でも、職場でも、二元分別の戯論にまどわされず、心おだやかに暮らすようになり、いつか禅定(もの自体、行為自体になりきる)にはいり<身心自然に脱落し>、解脱、成道<悟る、承契など多くの用語>し「生が尽きた」<自己を忘るるなり>と言えるはずである。用語は違うが、道元や現代の禅と類似するであろう。< >に道元の用語を入れた。
しかし、坐禅を実践しない人は、この経典の言葉の示す現実の修行行為そのものを再現しにくいだろう。誤解して読みとるだろう。あるいは、何を意味するか理解できず放置するであろう。他の修行方法、思想の文字も、先入観を持つと、同様に違って受け取る。こうして論、学説は種々に分かれる。
あえて「坐禅を実践しない人は」と書いたのは、目標を持たない坐禅、違う目標(たとえば、坐禅が悟り、とか)を持った坐禅は、初期仏教経典(心解脱=自己の正体を悟る)がめざすような目標を持たないので、念処経の記すような心の様子を熱心に観ないので、自我の捨棄が充分ではなく、経典の言葉を如実知見できず、経典を読んでも、坐禅しても、悟るはずがないのである。
体験しない者には、言葉から実際を理解できないことがある例として、こんな例がある。道元は、日本にいる時、経典の中に「頂戴袈裟」という語があるのだが、何のことか理解できなかった。しかし、中国に渡って禅寺で、朝僧侶たちが、頭の上に袈裟をのせる姿を見て、「頂戴袈裟」とは、これなのだと理解した。この作法は、道元の修行した当時の日本の寺にはなかったから、理解できなかったのである。道元は、「袈裟」は理解したが、現代でも「これが袈裟だ」と実物と袈裟の言葉を示さないと「袈裟」と言っても、一度も見たことがない人には、わからないだろう。体験しない者には、「言葉」の正確な内容を再現し、理解できないことがある。
(注)
- (1)「南伝大蔵経」巻9、90-101頁。
- (2)田中教照「初期仏教の修行道論」山喜房佛書林、平成5年、153-156頁。
- (3)「有情の浄化、愁悲の超越、苦憂の消滅、理の到達、涅槃の作證の為に、此の一乗あり、即、四念処なり。」(「南伝大蔵経」巻9、90頁。)
- (4)田中教照氏に、「具体的実践から実践理論」への変貌についての指摘がある。「初期仏教の修行道論」山喜房佛書林、平成5年、2頁。
研究メモ2部
臨床禅学
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