もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

研究メモ2部  臨床禅学
仏教学・禅学の批判

念処経の修行(「四念処」)

「念処経」の修行と現代の坐禅

 初期仏教のパーリ経典の「念処経」の修行を検討する。
 「念処経」(1)は、八正道のうちの「正念」の詳細、あるいは、八正道の重要部分を占める修行である。初期仏教徒たちが実践していた修行である。
 「四念処」は、身、受、心、法の四つに関して観じるので、「四念処」と呼ばれる。

念処経による修行

 田中教照氏が、これを検討しているので、参照しながら考察する(2)。「念処経」に、次の修行法が説かれている。<< >>は、現代の禅との関係を私が観察したものである。

禅の修行法

 以上が、阿含経による修行(の一つ)であるが、現在、実践している坐禅と実質は同じようなことを述べていると考えられる。ただし、(A)-(ニ)(=不浄観、四界観、死体観)は現代の禅では、実践しない。「念処経」に説かれている他の修行法は、ほとんど現代の坐禅にも含まれている。これらは、中国禅の修行法(公案などで推測)とも類似していると思う。中国禅は文字による説明をせずに、行動で指導して、念処経と同じことを会得させようとしている。指導の精神は実質似ているというのが私の解釈である。禅学では、思想の研究は多いが、修行の研究は少ないので、これは、まだ充分解明されていないようである。
 ただし、これらが、一つずつ別に行われるということではない。坐禅は坐っているだけが禅ではない。坐っていない時の指導法を分析してみると、これらの要素が含まれているという意味である。ひとつの禅における修行法、指導が、念処経の要素の二つ以上を含む。また、ある種の指導なり、公案なりが、念処経で列挙したうちのいくつかの要素を含む。そして、総合的に考えて、坐禅(坐ばかりでなく、その禅僧のすべての指導を含む)と、念処経の修行は、かなり類似していると思う。もちろん、全く同じではない。大乗などで強調された「慈悲」は、念処経の工夫には含まれていない。少なくとも、自分の悟りだけなら、念処経の修行で達成される。そのように、この経にも書いてある(3)。
 詳細に記載することは省略するが、禅の指導法との関連を少し説明しておく。なお、古則公案で参究されているものもある。下記は、一つの意図であり、指導者によって、場面によって、別の意図を持つこともある。下記の解釈は、一面、部分にすぎない。ただ、初期仏教の修行が、中国禅、道元禅、白隠禅、現代の禅と指導の精神が実質類似することを信じてもらえる範囲にとどめる。  禅の指導には、ほかにも、このような、生活の現場で、行動で示す指導が多い。四念処も八聖道も「中道」とされており、上記のような観をするためには、二元分別やめなければならない。「中道」というからには、原始仏教でも、四念処の修行の中で、それが修されていたはずである。もちろん、後世の禅は、特に戯論、分別を離れさせたことは「中道」に徹底させたからである。上記のような 論理的、分析的に文字で記述したのが、初期仏教の経典であるが、後期になって、修行しない人が書いた「修行論」になると、実際の指導には、役にたたない机上論、実践理論になったであろう(4)。しかし、初期の頃の阿含経では、実際に行われた指導法、修行法を論理的、分析的に記したのであろう。インド人らしい方法である。文字の種類、行為で示す点が、インドスタイルとは異なるが、その目標と、修行の効果については、中国禅や、道元禅、白隠禅に通貫するものがあると私は考える。
 中国禅、白隠禅は主に論理的、分析的言葉で示さずに、別な言葉、行為で示す傾向が強い。しかし、達成すべき目標と、修行の結果体得される心理は、類似する(縁起説その他思想の違い、慈悲の心理・行為に欠ける点など、もちろん相違する点も多い)と私はみている。

道元禅師

 以上の「念処経」に説かれている修行法は、基本的には、道元にも、現代の坐禅にも含まれていると私は解釈する。それは、別に考察する。「念処経」と同様の修行<是非善悪を管しない「中道」の、只管打坐、念想観の測量をやめ、あに坐臥にかかわらんや=(常に)>を実践するうちに、坐す時も、家庭でも、職場でも、二元分別の戯論にまどわされず、心おだやかに暮らすようになり、いつか禅定(もの自体、行為自体になりきる)にはいり<身心自然に脱落し>、解脱、成道<悟る、承契など多くの用語>し「生が尽きた」<自己を忘るるなり>と言えるはずである。用語は違うが、道元や現代の禅と類似するであろう。< >に道元の用語を入れた。
 しかし、坐禅を実践しない人は、この経典の言葉の示す現実の修行行為そのものを再現しにくいだろう。誤解して読みとるだろう。あるいは、何を意味するか理解できず放置するであろう。他の修行方法、思想の文字も、先入観を持つと、同様に違って受け取る。こうして論、学説は種々に分かれる。
 あえて「坐禅を実践しない人は」と書いたのは、目標を持たない坐禅、違う目標(たとえば、坐禅が悟り、とか)を持った坐禅は、初期仏教経典(心解脱=自己の正体を悟る)がめざすような目標を持たないので、念処経の記すような心の様子を熱心に観ないので、自我の捨棄が充分ではなく、経典の言葉を如実知見できず、経典を読んでも、坐禅しても、悟るはずがないのである。
 体験しない者には、言葉から実際を理解できないことがある例として、こんな例がある。道元は、日本にいる時、経典の中に「頂戴袈裟」という語があるのだが、何のことか理解できなかった。しかし、中国に渡って禅寺で、朝僧侶たちが、頭の上に袈裟をのせる姿を見て、「頂戴袈裟」とは、これなのだと理解した。この作法は、道元の修行した当時の日本の寺にはなかったから、理解できなかったのである。道元は、「袈裟」は理解したが、現代でも「これが袈裟だ」と実物と袈裟の言葉を示さないと「袈裟」と言っても、一度も見たことがない人には、わからないだろう。体験しない者には、「言葉」の正確な内容を再現し、理解できないことがある。 (注)  
研究メモ2部  臨床禅学
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(not on HP) 四念処を肯定 『摩訶止観』下127