もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
第六部目次
無我
自内證
仏教学・禅学の批判

無間定=原始仏教
無間定
「スッタニパータ」の「宝経」に「無間定」が見られる(1)。それは次の言葉である。
「禅定に入りし釋迦牟尼の証得した滅尽・離貪・不死(甘露)・微妙なるもの、この法に等しいものはない。これ、法における微妙なる宝である。この真理によりて吉祥あれ。
最勝の仏が賛嘆する清浄なる(心統一)を、世人は無間定という。この心統一と等しいものはない。これ、法における微妙なる宝である。この真理によりて吉祥あれ。」(2)
これについて、平川彰氏は次のように言う。
「この中、最初の滅尽・離貪・不死は「涅槃」を指すものと理解してよい。後述するように、これと同じ理解が他の論書に見られるからである。ここにいう「滅尽」は煩悩の滅尽で、一般に涅槃を指す言葉である。「離貪」も貪を離れることで、煩悩の滅と同じ意味であり、同じく涅槃を指す。次の「不死(amata)」は「甘露」とも訳すが、涅槃が常住である点を示したものであろう。ブッダゴーサは、このamataを「生ぜず、老いず、死せず。故にアマタという」と説明している。これも涅槃を示す言葉である。したがってこの偈の示す「法宝」は「滅諦涅槃」を意味しているのである。次偈の「無間定」を「法宝」と言っているのは、道諦を指すと見てよい。無間定とは、この禅定に入ると、その直後に悟りが得られるので、「無間」という。したがってこれは定であるが、悟りの智慧を含んでいる定である。即ち無間定で道諦を示したものと解釈される。説一切有部では、煩悩の断尽を無間道と解脱道とに分けて説明し、無間道で智が煩悩を断じ、解脱道で智が解脱を得ると解釈する。故に無間道・解脱道では智が主であるが、しかし智慧が煩悩を断ずるのは禅定に入って断ずるのであるから、無間道は無間定と言ってもよいわけである。智と定は一体となっているのである。これが道諦である。滅諦涅槃を悟るものが道諦であるから、道諦の中心は智慧である。しかしその智慧は禅定において生ずるのであり、禅定なしには生じない。故に道諦は智と定とが中心となっている。」(3)
このように、最も古い経典群に属する「スッタニパータ」にも、「禅定」「無間定」によって、煩悩を断じ、解脱を得るというのである。
「無間定」という文字の理解ではない一種の禅定に入った直後に、解脱するというのである。「無間」というのは、禅定体験と智慧が生まれる時の間に時間がないことから、「無間」と言われる。「時をまたない」とも言われる。中国禅、日本の禅の「見性体験」の直後に、「自己の真実を覚った」という自覚的智慧が生まれるのと同じである。物理的な時間は、二分とか十分の間、「無分別」の状態が継続するのであるが、無分別であるので、念が生じず、時間の経過も意識されない。だから、「無間」である。華厳経では「一念のあいだ」という。たとえ、物理的時間が二分であろうとも、念が動かないので、「一念の間」に、悟りの智慧が生じるというのである。
原始仏教でも、「無間定」という、その直後に解脱するという究めて重要視された禅定体験(文字の理解によらない)が経典に記述されたことが判明する。
「五分法身」の教説でも、「定」「解脱」が帰依すべき法であるという考えが阿含経にある。一部の学者が、禅定や解脱が仏教ではない、と強く主張しているのは、経典の記述を無視して、自分の好き嫌いで経典の文字を取捨選択しているのであり、歴史的に存在した仏教の真実を探求しなければならない研究者としては、独断・偏見のそしりをまぬかれないだろう。平川氏の説明は以下のように続く。
「ともかく以上のごとく、「宝経」の法宝の解釈は、滅諦涅槃と聖道(道諦)とを「法宝」と見る解釈であり、さきの「清浄道論」の「出世間法」を法宝と見る解釈に合致する。「宝経」には「教法」を法宝と見る解釈はないが、これによって、
教法を法宝から除く考えがすでに阿含経時代にもあったことが分かる。」(4)
このように、文字で書かれた「教法」は最高の帰依すべき「法宝」ではない、という考えが原始仏教時代からあった。平川彰は断言している。これが、経典を素直に真摯に読めば出てくる結論である。文字は、最高の法に導くためのものであり、書かれた教法は最高の法ではない。では、最高の法は何か。平川氏の説明を見る。
「「法一般」としては、教法が法宝になるが、しかし教法は数が多いのであるから、帰依に値する法とは何か、最高の法とは何かという考察が、当然そこに起ってくるわけである。そして法の中の法、勝義の法として、涅槃と道諦(悟りの智慧)とが浮かび上がってきたのであると思う。このようにパーリ上座部は、涅槃と道諦とを法宝として立てるのであるが、この「法宝」の解釈は、仏陀の「五分法身」の考えと関係があろう。」(5)
最高の法は、涅槃と道諦である、という。それは「五分法身」の考えと合致する。「五分法身」とは、戒・定・慧・解脱・解脱知見の五つの法である。これらが、帰依すべき最高の法であるという。これらは、思惟とか理解する教法ではなくて、みな、人格上の実践に関連する。特に、戒・定・慧は、三学の修行であり、文字の思惟・理解ではなく、実践である。「解脱」は、先の「無間定」「無間道」で、解脱知見は、先の「解脱道」であろう。
とにかく、原始仏教経典では、思惟・理解する文字の教法ではなくて、人格上の実践、修行からから生まれる解脱・無間定(他の経典では想受滅とも言う)、および、その直後に得られる「解脱したとの智」を最高とした教説があることが判明する。(参照:「五分法身」
五分法身)
(注)
- (1)平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、193頁。
- (2)中村元「ブッダの言葉」岩波文庫、44頁。「南伝大蔵経」24巻、82頁。
- (3)平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、194頁。
- (4)同上、195頁。
- (5)同上、195頁。
ここには、中国の禅(の一部)、道元、白隠などの典拠を示さない(別に示す予定)が、「解脱」は、「見性」「身心脱落」であり、「解脱知見」は、その直後の、悟りの自覚と同じであると思う。これら禅はいずれも、坐禅を強調(道元は戒も特に強調)しており、中国の禅(の一部)、道元、白隠にも、原始仏教の戒・定・慧・解脱・解脱知見があって、まさに仏教の最高の法としたものが含まれているというのが私の解釈である。道元の仏道は、「目的のない坐禅」のみ、あるいは、「十二支縁起説」を思惟することではないということをあきらかにしたい。
「目的のない坐禅」といえば、智慧さえも一如として含まれていないから、戒・定・慧・解脱・解脱知見の「定」でもない。全く、浅薄な禅となる。「十二支縁起説」は、文字による四聖諦の教説の中の「苦集諦」(順観)、「苦滅諦」(逆観)である。十二支縁起説だけでは、「道諦」を欠いた教説であり、最高の法とされる戒・定・慧・解脱・解脱知見は全く含まれていない。仏教が「十二支縁起説」を思惟するのみとは、いかにも、的をはずれた解釈である。
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