もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
第三部目次
第二部「無我の経験」
仏教学・禅学の批判
「無我」は迷いの世界ー森章司氏
原始仏教経典では「縁起ゆえに無我」とかいうが、その「無我」は迷いの世界のことである、と森章司氏の注目すべき説です。
そうすると、「縁起」「無我」がわかったとしても、迷いの枠内であり、仏教がわかったと言ってはならないことになります。なぜなら、解脱、悟りを得てこそ、ブッダの言ったことががわかった、もう学ぶことがない、ということになっていますから。
「無我」説を理解しても、悟りではない。それは、実は当然です。なぜなら、「無我」説は阿含経を読めば、理解できるからです。理解できるように説かれています。十二支縁起説は難解(1)ですが、阿含経の「無常・苦・無我」という「無我」説は、それほど難解ではありません。無我説が悟りの教理ならば、誰でも悟ることができます。世界から、すぐに、苦悩する人、罪を犯す人をなくすことができます。釈尊が念、気をつけている、禅定などの修行をすすめた意味がなくなります。逆に、「無我」「無我の我」をいう禅者が、禅の修行を必須とする意味が真実味をおびてきます。「無我」は、修行して悟らない限り、わからない、と禅者は主張しています。
「無我」の教理は迷いである。仏教を研究する者はすべて、森氏の説明を慎重に理解しておく必要があります。
(注)
- (1)特に難解なのは、無明、行、識の部分です。なぜ、無明から行、行から識なのか論理では届きません。始めてこれを言った人がいたから、後世の人は、それを一応受け入れます。しかし、なぜ、そうなのか理屈ではわかりません。初期仏教の経典を読まない限り考えつかないでしょう。論理ではなくて、体験的事実なのでしょう。だから、十二支縁起説は難解です。誤解が多くなります。
(1)「無常・苦・無我」説は、重要な教説
(2)「無常・苦・無我」説の概要
(3)無常、苦、無我の意味
(4)如実知見して悟る
(5)この教説の意義
(6)森章司氏の研究に学ぶこと
(1)「無常・苦・無我」説は、重要な教説
森章司氏(東洋大学教授)は、原始仏教での重要な教説は三つあるとされる。
- 四諦説
- 「無常・苦・無我」説
- 十二支縁起説(相依縁起でもなく、後世の種々の縁起説でもない)
ここでは、「無常・苦・無我」説の真意を森章司氏の学説から学び、学者や僧侶などに広く持たれている誤解を理解します。「無我」説というと、無我を悟ることが悟りだと思い、それなら、原始仏教で説かれているから、それで「無我」がわかる、仏教がわかったえいる、という学者が多いはずである。ところが「無我」は、迷いのありかただというのである。その「無我」をりかいし、共感している者は、迷いである。仏教がわかっていないのである。
(2)「無常・苦・無我」説の概要
「無常・苦・無我」説の枠組みは次のとおりである(注1)。
- <1>なにかが(主語にあたる)
- <2>無常であり、苦であり、無我である。
- <3>それをあるがままに知見すること(「如実知見」)によって、悟りがある
<1>主語になるものは、「五取蘊」が最も多い(2)。五蘊は教理上、むつかしい議論があるが、色・受・想・行・識の五つである。その解釈は、むつかしい議論があるが、「色」(しき)は、肉体、他の4つは、心の作用とみなしておいてさしつかえないだろう(3)。主語にあたるものは、「五取蘊」のほかは、六内処(六根ともいう、眼耳鼻舌身意、感覚・知覚器官)、六外処(六境ともいう、色聲香味觸法、認識対象・対象領域)、などである。
ここで、注目すべきことは、アートマンのような形而上学的なものは、論じられていないことである(4)。原始仏教の「無常・苦・無我」説では、アートマンの有無は論じられていない。
(注)
- (1)森章司「原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究」東京堂出版、1995年,282頁。
- (2)同上、350頁。「五取蘊」は、無漏の五蘊ではなくて、有漏の五蘊である(151頁)。「五蘊において欲貪がある」ことであり、「五蘊を欲貪する」というのは誤解である(151頁)。
- (3)同上、173頁。
- (4)同上、353頁。
(3)無常、苦、無我の意味
<2>の述語は、「無常・苦・無我」である。そのうち、「苦」は、「無常・苦・無我」説にはない(1)。四聖諦の「苦」の解釈では、四苦八苦などがある。
「無常」の意味も経典には説明がない。「常識的に考えると「無常」は、世の中のあらゆる現象が生滅変化するということになりそうであるが、少なくともこの教説では、「五取蘊」が主語となるものがもっとも典型的なものであるとすれば、そこまで一般化して考えることには無理があるとせざるをえない。」「無常も生老病死を指すのが原意であったと解釈しなければならないであろう。」(2)
「次に、「無我」であるが、この教説の「無我」の部分は、「これは私のものではなく、これは私ではなく、これは私のアートマンではない」とされるのが常である。これにも経典中に何の解説もないので、推測の域をでないが、上述のように、この教説を生老病死というコンセプトでとらえるならば、先に紹介した病に関する導入部のように、我々の五取蘊は、中に煩悩を内在する色受想行識である限り、自由自在ではなく、生老病死を如何ともなしがたいという意味になるであろう。即ち、色受想行識は「私のものではなく、私ではなく、私のアートマンではない」から、自由自在になしえないのである。」(3)
(注)
- (1)森章司「原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究」東京堂出版、1995年,282頁。
- (2)同上、386頁。
- (3)同上、387頁。
(4)如実知見して悟る
<3>それをあるがままに知見すること(「如実知見」)によって、悟りがある
という意味は、この教説だけで完結しているということである。
「「無常・苦・無我」説は我々凡夫が無常・苦・無我なるあり方をしていることを「如実知見」して智慧を得ようとする教えである。」(1)
五取蘊を初めとする主語なるものが、「無常」であり、「苦」であり「無我」であることを如実に知見することによって、厭離・離貪し、解脱するとする(2)。
(注)
- (1)森章司「原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究」東京堂出版、1995年,367頁。
- (2)同上、360頁。
(5)この教説の意義
仏教学、禅学の学者における独断、偏見を調査しようとしている点から見れば、森章司氏の次の指摘は非常に重要である。
第一に、後の阿毘達磨においては「無我」は「我は存在しない」ということを意味するようになった」しかし、阿含経典で重視されているこの教説では、「決してアートマンは存在しないとはいっていないということになる」(1)。
第二に、「無我」も、「無常」や「苦」と同じく、否定、超克、離脱されるべきといわれるので、「無我」も否定的、マイナス的な価値をもつありかたである(2)。「無常・苦・無我」は、迷いの凡夫のあり方である(3)。
第三に、「無常・苦・無我」を如実に知見すれば、悟りを得られるということである(4)。
森氏は、こういう。
「仏教におけるすべての教説は十二縁起説といわず四諦説といわず苦しみの根元は欲貪・渇愛にあるのであって、それを離れることが苦しみの解決としての悟りにつながるとされるからである。」(5)
(注)
- (1)森章司「原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究」東京堂出版、1995年,390頁。
- (2)同上、356,357,359,364,368,381頁。
- (3)同上、353,381頁。
- (4)同上、359,367頁。
- (5)同上、377頁。
(6)森章司氏の研究に学ぶこと
原始仏教の重要な教説である「無常・苦・無我」説によれば「無我」も迷いである。だから、縁起ゆえに無我である、と学者が理解しているのであれば、まだ、迷いの枠内にある。仏教がわかったとはいえないはずである。
また、最後に引用した森氏の言葉から見るように、仏教は、元来、縁起思想、十二縁起説を思惟することだけでもなく、目的のない坐禅をするだけでもなく、見性体験するだけでもない。そういうことを思惟し、理解している学者にも僧侶にも、「欲貪・渇愛があるのであって」、それを離れていない。「苦しみの解決」とは、己れだけの苦しみの解決ではなく、他者の「苦しみの解決」まで含むものでなければならない。釈尊が黙せず他者に説いたのもそこであろう。自分に欲貪・渇愛があれば、周囲の他者を苦しめる。それでは苦を解決していない。多くのいじめ、犯罪を考えれば、すぐわかる。自分では、苦しまず、他者を苦しめる。自分では苦を感じず、他者に苦を与えるありかたが肯定されるはずがない。
仏教、禅の学者であろうとも、如実知見しなければ、他者の苦を解決しない、というのが、原始仏教の教えるところであろう。
原始仏教の重要な教説の「無常・苦・無我」説で、「無我」は、アートマンがない、という議論をしているのではない。肉体、精神が、「私のものではなく、私ではなく、私のアートマンではない」というのである。決して、原始仏教の「無我」説では、述語が「アートマンがない」ではなく、アートマンが有るとか、ないとかいう議論ではない。仏教は、アートマンの有無のような議論は重視せず、別なことを重視して始まり、成立していた。アートマンの有無を論ぜずして、「五取蘊」などを如実知見して悟ることができた。仏教とは何か、という議論の際に、本来の仏教が重視していたものを顧慮せずして、自分勝手な思想や偏見で選択した条件を基準としてはならないわけである。
諸学者の研究によれば、そもそも「仏教とは何か」という点について、まだ、学問上は、ゆれうごいている。いやしくも仏教学、禅学という学問においても真実を研究していると社会から期待され、敬意を払い、国民の税金からも補助されている学者が独断・偏見による軽率な断定をして、仏教を実践している人を排斥し苦しめて、人々を仏教に失望させて、カルトやカルトまがいの宗教に向かわせるような軽率なことをすべきではないと考える。
第三部目次
第二部「無我の経験」
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