もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

第二部   第六部  
仏教学・禅学の批判

無我、自性清浄、寂静なる自己を現実に体験する

 原始仏教の教説に「無我」もあるが、その「無我」は迷いのあり方であるから、それを理解して仏教がわかったと考えるのは誤ることになる。
 もう一つ、悟りの「無我」がある。釈尊が成道した体験、そこから仏教が成立したもととなる体験、人間の根底を自覚する体験。それは、体験するものであって、理屈や思想を理解納得することではない。そう解釈できる言葉が原始仏教にもある。
 たとえば「寂静解脱」「滅尽定」と言われる。この言葉は、論理的ではなくて、心理状態を表現している。自己の真実を感得する成道体験のまさに、そのただなかは、寂静なのである。通常では、騒々しいはずの音があっても、その体験中は、通常の音を感覚するのとは違う状況にある。音だけではなく、すべてが通常の感覚とは異なる。そこを「寂静」という。大乗の唯識説では、「無分別」という言葉であらわすようになった。この寂静の状況は、唯識説でいう真見道のただ中のことと同じと思われる。分別が働かない。
 原始仏教にも、そいう体験があるとみなさないと、理解しにくい言葉が多くある。仏教が縁起説を理解するものではなく、坐禅すればそれでよいというのでない証拠である。
 


体験で確認しない限り心は安心を得ない

 原始仏教では、八正道の修行をしているうちに、禅定の段階になるという。それが四つに分けられていて、一応、第四禅で苦を断じるというが、死の(輪廻、最後の生か)問題は解決していない。修行しない場合と比べて、安穏に見えても、自己の実相を知らずに、一応平穏を装っているに過ぎない。断見か、常見で妥協している。縁起説や無我説も理解している研究者も、現実に自己の死の問題は、断見か常見で解決したつもりになっているであろう。両見を離れての、死の問題の解決をみていない。
 原始仏教は解脱、寂静、滅尽定、想受滅、というが、大乗仏教は「無生法忍」 ということが多い。禅では「見性体験」「身心脱落」「悟り」と呼ばれる。この体験によって、この問題の真の決着を見る。
 解脱、悟り、「生が尽きた、再生はない」ということ、苦の滅、漏の滅など、が、縁起などの理法を理解するものではなくて、種々の面での体得であることを証拠づけるものが初期経典、大乗の論書、道元の著作にあることを見ておく。このことは、仏教は縁起説の理解であるという理法の思惟のみに執着して、煩悩の滅の修行を怠り、他者の苦に何の助言もできない学問に堕したり、禅が仏教ではないという説が新たに出されたりする混乱を防ぐために、今後、この分野の研究が必要である。

原始仏教経典

   成道の体験が先にあって、その後、縁起を観じたという経典の言葉は、体験によって自己の正体を知って、それを自覚できない迷いの理由を縁起で説明しようとしていると判断される。その他に、成道が縁起などの思惟によらないものであることを示す材料として以下のものがある。

無我の教理は迷い

 無我は、仏教では重要な概念の一つであるが、従来、それを、論理的に、「無常、苦、無我」とセットにして考察されたものとする見解が多い。説一切有部では、そうふうに教理を構成したが、その「無我」は、後世の禅がいう悟りの「無我」「不生の自己」とは異なる。原始仏教の「無我」は、苦であるから、迷いの世界の説明である(1)。  「無常、苦、無我」で説明される「無我」は迷いであるが、悟りの結果としての「我が生已に尽き」「更に後有を受けない」は、もう一つの「無我」といえるであろう。生きているうちに、八正道の修行をするうちに、「生が尽きた」という境地になるのであるから、「我は生きていない」すなわち、「我は無い」「無我」といってよい。これは、教説として説明されず、梵行の結果得るものである。「無常、苦、無我」で説明される「無我」とは、全く別物である。  原始仏教の「無我」は、離れるべきものである。禅でも無我を言うが、従って、原始仏教の教理で「無我」を理解して、禅でいう無我をわかった気になったり、仏教がわかった気になるのは誤りであることになる。そういう仏教研究者が多いのではなかろうか。
 「無我」の教理の詳細は、第三部で扱う。

森章司氏ー無我は迷いの世界

(注)

無我の体験もある

 「我が生已に尽き」「更に後有を受けない」と言われることは、後世の禅でいう「自己の無」なる体験と同様に見えるが、学問的には、まだ解明されていない。
 「無我、苦、無常」とセットされた「無我」の教理ではなくて、もう一つ、「無我」は、釈尊の成道体験の事実である「霊魂のような我がない体験」も仏典の言葉の中に見出すことができる。同じ体験を禅の悟道(見性体験)でするのである。初期仏教も、体験、経験から出てきていることをいう研究者は少ないが、平川彰氏は、その一人であろう。
 自ら無常になりきることによってのみ、一切行の無常を知ることができる。しかも自己の無常を洞察しているとき、固定的な自我意識を、心のうちにいだくことは不可能ではなかろうか。このような「一切行無常」の認識は、精神を集中した深い禅定においてのみ可能であると思われる。
 あるいは対象に没頭しているときなど、「自己を忘れる」ということが起りうる。このように対象に没頭している認識では、自我意識は失われていると見てよかろう。(1)

 滅諦は「涅槃」であるとも説明されるが、悟らない人にとって「涅槃」はたんに言葉として知られるのみであり、その本質は全く不明である。悟りの智慧が顕現して、はじめて、これが滅諦である、これが涅槃であると知られるのである。そのために滅諦の場合は「作証」である。(2)
 禅との関連にも言及しておられる。
 もともと「仏の成道」は、仏の「自内証」によるのであり、他人の窺い知ることのできないものである。但し仏陀がその内容を他に語れば、はじめて弟子たちもその内容を知りうるわけである。しかし語ったとしても、仏の成道の内観を、完全に弟子たちに伝えることは容易でなかったであろう。(例えば禅宗の見性や印可の内容は他人に知り難いことからも、このことが推知される。)このように仏陀の成道の内容が、弟子たちに知り難かったことが、成道に関して、種々の説が説かれるように」なった理由ではないかと考える。(3)

身証と心解脱

 聖者は必ず禅定において生じるとか、「身証」「心解脱」が、初期仏教でいわれる。これを私は、唯識説の真見道や禅僧などの見性体験の言葉から、論理的思惟によらず、無我を経験したのだと判断する。すなわち、無分別の経験によって、霊魂のごときものはない(常見の否定)が、かといって、虚無ではない(断見の否定)。常見でもなく、断見でもない自己を経験するのであると思う。それが、中道ということを理解するのでもなく、縁起の論理的思惟によらず、体験するのである。  初期経典で、聖者の階位を七つの区分するが、そのなかに「身証」「慧解脱」の区分がある。パーリ「中部経典」第70、「キータギリスッタ」では、
 寂静解脱とは何であるかについて、「中部経典」「マハーマールンキャスッタ」に次の一節がある。
「一切の形成力の停止であり、一切の所依の棄捨であり、渇愛の滅盡であり、離汚であり、止滅であるこの涅槃は寂静であり、微妙である」と不死界に心を集中する。(2)
 この寂静の状況は、唯識説でいう真見道のただ中のことと同じと思われる。分別が働かないことが、「一切の形成力の停止」「寂静」という表現になったのである。炸裂するような音があっても寂静のうちに知覚している。まばゆい閃光の光も寂静のうちに知覚している。虚無ではなくて、充実した寂静である。
 大乗の階位において、無生法忍が見解によるものではない寂滅の経験であるのと寂静解脱が同じであると思われる。そして、寂静解脱が、最高の境地ではないのも、大乗に、無生法忍の後にも、修行があるのと相応している。
 慧解脱は、身証とどう違うかというと、智慧によって観察して諸漏を滅尽している人というのであるから、智慧によって解脱することである。すなわち、よく、煩悩を観察して、慢心や我見などを滅盡しているというのであろう。禅においても、見性体験だけでは、我を捨棄したわけではないのと相応している。一部の煩悩は、見解、智慧によって捨棄できるのである。
 ただし、身証しないと捨棄されない煩悩がある。霊魂やアートマンにかかわる法執である。また、不死の問題である。これは、智慧によっては、得られない。  「寂静」については、別に考察する。

(注)

無我は般若によって見る

 平川彰氏は、こういう。
 無常・苦・無我については、「このごとく、如実に正しい般若によって、見られるべきである。」と述べている。その意味は、「無常」は言葉による説明によるよりも、般若の智慧による洞察によって知られるべきであるという意味である。(1)

般若と識の違い

 般若は、遍知し、識は区別して知る、という。また、識は完全に知ることはできないで、完全に知るのは、般若である。般若は修習するものである(1)。
 こうして、般若が遍知したものを、分別して知る、というのは唯識説でいう後得智であろう。般若の無分別智が生じた場合に、意識も、それを分別するのである。般若がない場合は、その意識するのは、完全ではない。こうして、平川氏は、識は、直接に事実の世界を理解する力のないものであると解釈された(2)。縁起説などを思惟しても、事実の世界を知ることはできないで、般若の修習という修行が必要である、という解釈を補強するものである。
 同じ経典で、「慧は体得智を利義とし、会得智を利義とし、捨を利義とす。」という(3)。一人で学んで勝手に解釈するのではなくて、捨てるという性格の修行を身体で行い、理解したものを身体的に證得するものが慧、般若である。
 漢訳中阿含経では、智慧(般若)は、苦集滅道の真実を知り、「識」は、色聲香味觸法を識るという(4)。また、「智慧は厭の義、無欲の義、見如真の義有り。」という(5)。エゴイズムの捨棄の実践と、あらゆるエゴイズムを離れた目で真実を見るという実践的な意味が含まれている。

聖智は必ず禅定において生じる

 原始仏教では、悟りは、知識で理法ようなものを理解し知るものではなくて、「見る」とか「顕現する」という表現がある。
(注)

無間定

 スッタニパータによれば、禅定の後に解脱涅槃が生じる。これが無間定とよばれる。滅盡、離貪、不死である。(1)
 パーリの経典では、成道−−>縁起−−>無常・苦・無我の順序で心解脱したという(2)。これも、見性体験の後、さめた直後に、その見性のただ中から、覚めるに到る心的様子を思いかえして、縁起を知り、さらに、その見性体験のただ中の様子から、無常・苦・無我の解決であることを分別する。それを如実に知らないために苦や煩悩があったと知る、と解釈すれば、初期仏教の成道から智慧が生まれる経過は、禅の見性体験と類似しているといえる。
 「南伝大蔵経」では、「無間定」を「その定に等しきものあるなし」(3)といっている。くらべるもののないものであるから、悟りであろうが、それが「無間定」という要素を持つ。つまり、理法などではなくて、体験する「定」の一種である。
 詳細は「無間定」を参照。 無間定

(注)

定にも、知見にもとどまらず心解脱を得よ

 中部経典の「心材喩大経」では、戒・定も、知見も、究竟ではなくて、不動の心解脱が目的だとしている。
 比丘達、是の如く此の梵行は利養、恭敬、名声を功徳とせず、戒成就を功徳とせず、定成就を功徳とせず、知見を功徳とせず。比丘達、此はかの不動の心解脱なり。比丘達、此の梵行は其を目的とし其を心材とし、其を究竟と為す。(1)

不死について

 解脱、涅槃は、この世で得られるのだが、「不死」「生がつきる」と言い換えられる。
 これは、禅者の悟りの境地と類似する。自我がないことを体験するので、生まれていない、よって、死なないのである。原始仏教が「生がつきた」というのも、自我のないことを体験的に証明したことをいうのだと思われる。
 「無常・苦・無我」でいう無我は、迷いの世界であるから、その無我は、苦である。だから、「不死」とは異なる。不死といえるのは、迷いの世界を脱した解脱があってからである。原始仏教で、解脱が「不死」と言われるのは、迷いの論理によらず、論理でない解脱体験による証拠であろう。

生已に尽きた

 阿羅漢果を得たものの共通の自覚に、「生已に尽きた」と、「未来に再生はない」(または最後の生である)という(1)。
 また、死後、未来の自分が問題にならないという。(2)
 これらは、無我の体験の証拠である。

寂静など

 解脱、涅槃を表現する言葉の中に、縁起思想ではないものがある。縁起は、関係をいう(1)が、関係ではない言葉がある。「不死」もそうであるが、ほかにもある。  こういう表現は、縁起思想からは出てこない。心理的な表現である。自己を忘れるという禅の忘我体験であり、無分別の自内證体験という「唯識説」の真見道のまっただ中の状況(そして、後得智で大悟した時、常時のことだと知る)を表現するものだと思う。

(注)

想受滅

 パーリ経典では、想受滅を得て、心解脱する。想受滅は、唯識説の真見道、禅の見性体験であると思われる。唯識説が、無分別というところを、原始仏教は、想、想いが滅尽するという表現になったのである。想い(分別)以前の事実のみあって、「想」にならない寂静を体験する。
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