第1部:
苦の解決手法=仏教経典による検証
研究メモ1部
第39回セミナー要旨
釈尊本来の修行方法=八正道
初期仏教では、苦の解決のための心理療法にあたるものを「八正道」という。この内容は、現代の認知行動療法に似ている。認知行動療法を実行すると、八正道と同じような内容を実行することになる。
初期仏教(釈尊に近い)の経典や、その研究を参照して、坐禅や悟りが仏教ではない、という学説や、坐禅が悟り(目標)であるという学説(曹洞宗系の僧侶によって主張されることが多い)が学問的な真理ではなく、自己に都合のよい言葉を選択した信念、信仰にすぎないことを、しばらく種々の方面から確認します。
釈尊本来の修行方法=八正道
・今回の目標と要旨
・レジメにそって要旨
・さらに古い経典で説く修行法
今回の目標と要旨
八正道=苦から現実に解放される道
四聖諦の一部を構成する「道聖諦」=「八正道」を見ます。
四諦説は初期仏教の早い時期に成立した。その四のうちの「道諦」は、「八正道」である。正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八つの修行法である。認知行動療法に似ている。
四聖諦の全体を仏教の根本教説と肯定するのであれば、「道諦」とされる八正道も肯定しなければならない。八正道の中には、後に「坐禅」といわれる修行が含まれている。それには、見取見や偏見などの固定観念を修正することが含まれる。これが、現代の臨床心理学の認知行動療法と似ており、「八正道」が「道諦」にあたり、これを実践することにより、現実に「苦から解放」(漏つまり煩悩、我執、エゴイズムの捨棄が含まれる)されて、四聖諦が完結する。
今回は、「八正道」が初期仏教で非常に重視されたこと、その「八正道」の方法は、現代まで伝わっている坐禅に類似していることを確認する。しかし今回、議論するようなところまでは、学問研究はすすんでいない。
多くの学者が実践を軽視し、文字の解釈だけで仏教がわかるようなことを言うのは、仏教の根本を誤解している。これでは、医学書されあればよくて、医療行為、治療行為は不要であるというのに等しい。
仏教の根本は、苦からの解放(実際に治ること)、我執の捨棄(自分部や他者を害する心理、行為をやめること)を実現する実践である。実践なくしてエゴイズム、苦悩は解消しない。しかし、後世になって、実践に導くために、種々の思想を含んだ仏教経典が多く作られたために、思想を偏重する学者が誤解するのである。それらの「思想」は、四聖諦でいえば、ほとんどすべて、「苦諦」「集諦」「滅諦」そのものか、道諦の結果到達する人間の根源を示すことに属するか、「道諦」の実践に導くための説明に該当するであろう。結局、「道諦」(または、その発展した修行も道諦の変形)を実践しなければ、苦からの解放はなく、エゴイズム(=煩悩=独断・偏見で他者を苦しめるものが多い)の捨棄がされない。
修行の研究は、田中教照氏、森章司氏などの研究が始まっているが、学問における研究は、これからである。仏教学において、修行道の研究(治療法に該当する)がこれまで、なおざりにされてきたことを、三枝充悳氏、田中教照氏、森章司氏、立川武蔵氏などが指摘している。それは、禅学でも同様であり、禅思想の研究に偏向して、禅修行および禅体験の本質は、学問では、まだあきらかにされていない。まだ、学問的には解明されていないことが多い学界の状況で、「仏教は縁起説のみ」とか「禅は仏教ではない」とか、「悟り体験は妄想」などと断定する僧侶や学者がいるが、そういうのは、独断、偏見であろう(注)。実践、坐禅、悟道、などの言葉、実践を考えると、嫌悪、憎悪(仏教が捨棄せよといっている煩悩障である)の感情が起こる学者は、そういう煩悩障に邪魔されて、仏教の真実が見えなくなるのである。学者に先入観があると、我執、我見があるので、真実が読めなくなるのである。如実知見ができなくなるのである。まさに、仏教が教えるとおりのことが学問に起こっているのである。これを現代の認知行動療法も指摘している。学問の幅広く、「認知のゆがみ」が見られる。「八正道」の実践が初期仏教にも不可欠であった。それが四聖諦の一部であった。
(注)初期仏教の阿含経典や大乗経典にも、禅に似た修行、禅の悟りに似た解脱、身証、無生法忍などが多く説かれているが、学界の研究の現状では、これらの意義がまだ解明されていない。従って、坐禅や悟りが仏教ではないとか、仏教は十二支縁起説の思惟のみ、というのは独断的、偏見的な資料抽出・解釈である。十二支縁起説も仏教であることを否定するのではない。それは、四聖諦の中の、苦集諦(順観)、苦滅諦(逆観)の一形態であった可能性が高い(42回参照)。とすれば、道聖諦以前であり、縁起説だけでは仏教の全体ではない。四聖諦、道聖諦、八正道も阿含経にあるのである。これを自分の宗教観、信念、または、後世の縁起思想の眼から判断して、初期の修行を否定してはならない。教説の一部を選択してそれだけを重視する新興宗派を起こすなら別であるが、いやしくも学問ならば、当時重視された根本教説(四聖諦、八正道、解脱も)はすべて否定せず、それらの関係を説明しなければならない。西田幾多郎が「自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない」というのは、そういうことであろう。
「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。それには、先ず自己に、或る程度にまで宗教心というものを理解していなければならない。」(『自覚について』 西田幾多郎哲学論集3、岩波文庫、299頁)
レジメにそって要旨
39回「仏教・禅とは何か=八正道」
八正道=苦の滅のための修行道
参考書
- A=三枝充悳「初期仏教の思想」(上)レグルス文庫、第三文明社、1995年。
- B=三枝充悳「初期仏教の思想」(中)
- C=三枝充悳「初期仏教の思想」(下)
- D=田中教照「初期仏教の修行道論」山喜房佛書林、平成5年。
- E=森章司「原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究」東京堂出版、1995年。
資料
- <資料番号39−1>三枝充悳氏著=「八正道」
- (C532頁−539頁)
- (C567頁−573頁)
- <資料番号39−2>大正新脩大蔵経、巻1、735cー736c)=
一八九「聖道経」<八正道の例>
- <資料番号39−3>「諦分別経」=「南伝大蔵経」巻11下、349ー404頁。<八正道の例>
(正見=四諦の一々を知る。正定=四禅)
- <資料番号39−4>田中教照氏著
- (D1頁−3頁)<理論に傾斜しすぎた仏教研究>
- (D106頁−107頁)<最初期仏教における修行道の要約>
- (D153頁−156頁)<四念処=資料39−5の解説書>
- <資料番号39−5>「念処経」=「南伝大蔵経」巻9、90ー101頁。<正念の詳細=現在実践される坐禅に包含される>
八正道(三枝充悳氏)<資料番号39−1>
前回、四聖諦についての最近の学説を見た。初期仏教において、十二支縁起説が成立するよりも前に、四聖諦が重視されていた。その中に、「八正道」が組み込まれていた。八正道は、四聖諦のうち、これを除く三諦とは独立しても説かれていた。だから、かなり初期の頃、八正道が重視されていた。時期的に、釈尊の時代に近づくことになる。
その八正道の内容について検討する。三枝充悳氏の研究の重要な点を抽出する。
- 「八正道」から「四諦説」の順で成立
「初期仏教において、まず「八正道」の教説が先に確立した。ついで「苦・集・滅・道の四諦」説が成立し、そのさいに、その「道諦」にこの「八正道」が導入された。(C533頁)
- 「八正道」は「苦集滅」とは、別に独立して成立
四諦説のうち、「苦集滅」は密接な相互関係があるが、道諦は、それほど深いつながりはない(C534頁、567頁)。八正道(の原型)は、四諦説とは関係なく成立した(C567頁)。
- 「四聖諦」に含まれる道諦は「八正道」しかない
四諦説が確立した後、道諦に導入されたのは「八正道」のみ。
「なお一言つけ加えておくならば、「道諦」を説くのに、「八正道」以外のものを置くことは初期仏教資料にはまったくない。」(C535頁)。
(これは、四諦説を重視する初期教団の修行は「八正道」のみであることを意味する。次のような「正定」を含む実践を重視した。決して、「思惟」のみではなかった。)
- 八正道とは、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
「「八正道」がつねに八支の動揺も変異も一切なく一つのまとまった特定の概念ないし述語として、初期仏教のかなり早いころに決定されて確実に定着しており」(C548頁)
- 「八正道」は古いが、釈尊は、「八」をまとめて説いたのではない
釈尊が最初から「八正道」を説いたわけではない(中村元氏)(C538頁)。
- 釈尊は、修行法を、ばらばらに説いたのであり、「八」を体系的に説いたのではないだろう、という意味である。これらの「八」に該当するものの原型が釈尊に近い最初期の経典にあるかどうかを明らかにすることが、学問上の重要な課題である。それによって、釈尊の仏教が現代の禅と根本が同じか違うかを決めることになるからである。悟道の禅者には、体験から当然であると言うであろうが、学問は、文字によって文献的に説明しなければならない。どうしても文献が欠けるところには、研究者の推定がはいる。まず、文献的にも仏教の修行道の研究はすすんでおらず、禅の修行法も学問で解明されていないので、現状では断定できる段階ではない。今後の研究を待つしかない。
八正道が確立する前の、最初期の修行(釈尊に最も近い経典による)は、次回(40回)に見る。田中教照氏の研究を参照しつつ、現代の坐禅との類似性を考察する。
初期仏教において修行が必須だった<資料番号39−1>
今回は、体系化された「八正道」の内容と、現代の坐禅との類似性を考える。
三枝氏は、仏教は八正道を必須とする、という。縁起説、ほかの思想の思惟、理解だけではない。
- 「正見」が「苦集滅」と八正道を結合した(C569頁)
- 正見、八正道、四諦説、道諦は関係している。(A569頁)
- 「自己反省・自己認識・自覚ということは、つねに重要な意義を担っており」(C570頁)
- 「初期仏教が宗教として、すべての人間を導く教えとして、すでにゴータマ・ブッダの時代に、あるいはそれからまもない時代に、在る核が形成されてさらに展開を遂げ、その後の発展をなし得た原因・動機といったものを考えてみるとき、そこには厳しく激しい宗教的実践が、その当時の最初からすでにあったにちがいない。」(C571頁)
- 「実践を欠いたたんなる思索の道を、初期仏教徒たちは、歩んだのでもないし求めたのでもない。」(C572頁)
- 「この実践こそが、苦の滅に赴く道諦なのであり、それが四諦とつらなり、現実に苦を滅して行ったのである。」(C572頁)
- 「仏教そのもの、とくに初期仏教に、教理や学説の構築しか見ないのは、皮相的な観察といわなければならない。そこには確固たる宗教的実践があり、実践による果があり、それらを紛れもなく、八正道が支えたのである。こうして、八正道は四諦に不可欠のものとなり、同時にまた、四諦そのものが実践によっても裏づけられた、ということができる。」(C572頁)
こうして、「仏教は縁起説を思惟するのみ」という仏教学・禅学の研究者に多い縁起説偏重の傾向には、独断と偏見があると批判されている。
「八正道」の経典で、現在の坐禅との類似性を説明
- 八正道の定義、まず、四諦説と関係なく説明したもの(C567頁)
- (例)「聖道経」<資料番号39−2>
- 「正見」を四諦説で、説明していない例。
「正見」を、善悪業の報いなどを、自知、自覚、自作證、成就するものと見る。
- 八正道の定義、四諦説に組みこまれてからは、正見の内容が「四諦」となった。(C568頁)。
- (例)「諦分別経」<資料番号39−3>
- 四諦が組みこまれ「正見は四諦を知ること」とする。
「正見」を、苦集滅道の智とする。つまり、四諦説を理解する。
- 正精進は四正勤、正念は四念処、正定は四禅とし、三十七菩提分法の説が入っているので、比較的新しい定義。
- 八正道の各支(正見も)の内容には、経典によって異なるものがある。
- 「正念」=四念処を田中氏の著書を参照<資料番号39−4>
- 「念処経」の修行と現代の坐禅
<資料番号39−5>「念処経」<資料39−4の原典>
「念処経」は、八正道のうちの「正念」の詳細(の一説)である。初期仏教徒たちが実践していた修行である。
現在、私たちの坐禅を実践してみて、これを読むと、私たちの実践している坐禅と実質は同じことを述べていることがわかった。ただし、不浄観、四界観、死体観は現代の禅では、実践しない。「念処経」に説かれている修行法は、現代の坐禅にも含まれている。これらは、中国禅の修行法(公案などで推測)とも類似していると思う。中国禅は文字の説明ではなくて、行動で示して同じことを会得させようとしている。実質は似ている。
詳細は「念処経」の項にのべる。また、「スッタニパータ」にも「念」が説かれていて、そちらで詳細に考察する。
さらに古い経典で説く修行法
八正道が確立する前の、最初期の修行(釈尊に最も近い経典による)として「スッタニパータ」の修行を、別に詳細に見る。田中教照氏の研究を参照しつつ、現代の坐禅との類似性を考察する。これによって、後に発展した思想(縁起、仏性、空、など)は、説かれていなくても、坐禅の修行法(当時はそう呼ばれていないが、実践内容が実質類似する)は、最初期から説かれていたことがわかるであろう。
研究メモ1部
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