戒定慧の内容

戒禅慧の三学の重視

 三学は原始仏教において、重要な修行道である。
 ここでは、戒・定・慧の三が、それぞれどういう修行内容を意味しているのかを考察する。三学について、田中教照氏の詳細な研究がある(1)。「象跡喩小経」「沙門果経」などの三学の修行道を詳細に考察している。

戒(かい)

 「象跡喩小経」に13段階の修行道を説いている。
 <第1>段階は、「法を聞き、信を得て、出家する」。
 <第2>段階が、「戒の完成」である。(イ)身の行いを清浄にする、(ロ)語(くち)の行いを清浄にする、(ハ)生活を清浄にする、の3つに分類される。その3つの内容は、おおよそ次のとおりである(2)。

 (イ)身行清浄とは、殺生をしない、武器を捨てる、恥じる心を持ち、慈悲深く、生けるものの利益をはかり、共感をもって暮らす。盗みをしない。非梵行を捨てる。性交を断つ、など。
 (ロ)語行清浄とは、盲語から離れる。正直で誠実で、世間をあざむかない。二枚舌を捨てる。人の間を裂こうとして告げ口しない。仲たがいした人を和解させる。和合を愛し楽しみ喜び、和合をもたらすことばを語る。悪口を言わない。綺語を離れる。ありのまま、意味あること、法、戒律を語る、など。
 (ハ)生活清浄とは、草木を破壊しない、一日一食、舞踊・観劇から離れる、装身具をつけない、金銀を受領しない、家畜・土地・家はもらわない、商売から離れる、賄賂・篭絡・詐欺などの不正を離れる、障害・殺害・拘束・追剥・略奪・暴行から離れる。

 「このような聖なる一群の戒を身につけ、内心に無罪の安楽を享受する。」

 次に「沙門果経」は、「象跡喩小経」に列挙された戒を「小戒」とし、ほかに、「中戒」「大戒」を加える(3)。「中戒」は、「小戒」と似たものがあるが、無益な饒舌、諍論をしない、ことが含まれる。「大戒」占いをしない、願をかけない、ことが含まれる。
 「沙門果経」は、戒と定の間に、「五蓋の捨断」を説くが、これは、三学の中では、「戒」として禁止される行為の出てくる根源のような不善の心作用であるから、広義の「戒」とみてよいだろう。五蓋は、五つの煩悩で、貪欲・瞋恚・睡眠・掉挙・疑である。すなわち、むさぼり、怒り、心が不活発で身体が重い状態、心のざわつきと心を悩ます後悔、ためらい、の五つである。
 以上のように、戒は、自他を苦しめ、修行・涅槃の障害になる不善の行為を自ら停止することである。戒は、外形の不善の行為が記述される。さて、その不善の行為をしないためには、どうしたらよいかが、修行の要になる。そこで、戒で禁止される行為を生じる根源の不善の心作用を分析して自らの「煩悩障」を自覚することが指導された。ここで、煩悩論が出てくる。「沙門果経」は、最も重要な煩悩として、「五蓋」を挙げたのである。貪瞋痴の「三毒」で示すことも多い。詳細は「煩悩障の捨棄」で述べている。
 現代語で言えば、エゴイズムを捨棄することが、含まれている。仏教が、言う「煩悩」は、さらに広義の、不善の心を含んでいる。よくわきまえた指導者の指導を受けないと自覚されにくい煩悩障があるので、修行にくみこまれたのである。

(注)

定(じょう)

 三学のうちの「定」の内容を見よう。「象跡喩小経」の13の修行道のうちでは、第3から9までが「定」の修行道である(1)。  第3の工夫は、現代でも、坐禅の修行法で行われている。また、第3は、動中の工夫でも行う。第4と第5は、現代の禅で「動中の工夫」と呼ばれているものにほぼ該当する。自分の今なすべき行為を、見たり、聞いたり、そのことに集中して、みだりに、言葉、思考に発展させない。そのことを熱心に行うと、貪り、怒り、浮つき、後悔、疑いもなくなる。
 第6以降は、坐禅の深まりである。現代でも、苦をかかえた人が、坐禅を行うと、ほぼ、同様の経過をたどる。坐禅してしばらくすると、自分の心の様子がよくわかってきて(思考によって確認している)、従来の苦の生活と比較して、安楽を感じて、喜びを感じる(初禅)。坐禅がすすんでくると、心の様子、苦の実態の観察(初禅における坐禅しながら、心の様子を観察し、思考により確認)もすでにしませ、納得するから、もう、確認(それは思考)もしなくなる。思想、思考は必要ない、坐禅を実践すれば安楽だと、喜びを感じる(以上が、二禅)。さらにすすむと、心の安定が日常となるから、そのこと自体の喜びはさめる。正念正知が、平常になる。ストレスへの対処ができるから、身は安楽である。みだりに思考に落ちて騒ぐと、神経が興奮して、ホルモンが分泌され、免疫を破壊し、身体のあちこちに障害を起こす「心身症」などにもなるが、ストレスへの対処により、そのような障害も軽くなり、身の安楽がある(以上三禅)。
 さらに坐禅がすすむと、身の安楽も平常になり、そのこと自体には喜びを感じなくなる。無論、苦も解消している。心は平静で、行動は、正念で行われる(四禅)(2)。
 このように、原始仏教の三学の「定」は、現代の坐禅の実習にほぼ同じである。ただし、戒、慧、解脱、解脱知見の裏づけがある「禅定」でなければならない。その点で、「目的がない坐禅」などというと、戒も慧も解脱も解脱知見もないので、原始仏教の禅定とは異なる。すなわち、目的のない坐禅をしていると、たとえば、自覚なしに戒を犯す、解脱、解脱知見を知らないということになる。すなわち、慧がない、解脱知見(悟りの智慧)がない。解脱の自己の智慧がないので、ただ、自我の強情で、心の安定状態を作りあげていることになる。他の宗教の各種の行や、スポーツや芸術などの精神集中でも得られるものであろう。
 戒定慧等学の禅定において、持戒(種々の煩悩の捨棄を含む)が維持されることは、「削減経」に説かれている(3)。

(注)

慧(え)

 三学のうちの「慧」の内容を見よう。「象跡喩小経」の13の修行道のうちでは、第10から13までが「慧」の修行道である。宿住随念智、死生智、漏尽智、解脱の4つをあげている(1)。  意をとって、解釈すると、次のとおりである。「宿住随念智」は、自分の過去の種々の苦しみとエゴイズムによって他者を傷つけた経歴と原因がはっきりとわかることである。「死生智」は、苦や煩悩のないところを証したので、そこから離れることによる自己の苦と他者を苦しめるエゴイズムがはっきりとわかるので、他者の心が読める(苦のもとを見抜く、エゴイズムを見抜く)ようになるのである。「漏尽智」は、人間の本性(根源、ただし、実体ではない)は、苦や煩悩がないことをはっきりと自内證することである。それによって、苦やエゴイズムなどの様相と捨棄の実現がわかるのである。
 「解脱と解脱知見」は、やや詳細に述べられているから、わかりやすい。欲の煩悩、生存の煩悩、無知の煩悩のない真の自己を徹見する体験をする。意識分別によるわかりかたではなく前述の戒定慧の行による結果の体験的自覚であるので、「解脱した」という知が生まれる。そして、「再生は尽きた。梵行は完成した。なすべきことはなし終えた。もはやこのような輪廻の生存を受けることはない。」と認知するとは、魂のような実体はないことを体験的に證得したことであるから、再生しない、輪廻しないというのである。
 こうしてみると、苦の四聖諦、漏の四聖諦(貪瞋癡、悪見、慢、等を知る必要がある)、解脱(悟りの体験)、解脱の智慧がみな、含まれているので、結局、仏教の重要な教説および證得がすべて智慧である。しかも、学問的、思想的な分別探求の方法では実現せず、戒定慧の行によって実現する智慧である。これを「般若」というのである。

(注)

三学道と道元

 以上のように、原始仏教では、戒定慧の三学は、一体のものとして修行された。従って、戒は仏教の定慧の裏づけがあるものでなければ仏教ではなくなる。戒はキリスト教にもある。定は、仏教の戒と慧の裏づけがある。従って、戒定慧一等といえる。道元の「本証妙修」「修証一等」にひきつがれる。「本証」が「慧」であり、「妙修」が「定」である。「本証妙修」の「本証」は、原始経典から大乗仏教まで、通じて主張される「清浄心」「仏性」「本来ほとけ」の人間の根源的ありようを指しているとも、受け止められる。そうすると、修行も本来清浄心を離れてはいない、という意味でもある。
 「修と証は一等」という時、「修」は「坐禅」「定」であり、「証」は「慧」であると解釈できる。「慧」は、教説である。従って、道元は、経典を否定しないのである。修をせずに、経典だけを研究するのを否定するが、修を導く経典を肯定するのである。「坐禅」が、キリスト教やオウム真理教の瞑想と違って、坐禅が仏教の悟りと言えるためには、仏教の戒と慧が裏づけとなっていなければならない。これまでの道元解釈では、オウム真理教などの瞑想とは違うという論理もなく、違うという保証もない。形の坐禅のみあって、禅に慧を言わず、戒(自己のエゴイズムの捨棄)を言わず、救い(解脱、解脱知見)がない。現在の道元解釈が魅力がなく、大衆からそむかれて、宗教を求める人が臨済禅や、新興宗教に向かう原因の一つであろう。それが、道元とは思えない。和辻哲郎が「道元は殺されている」と言ってから久しい。道元学の再検討が求められよう。
 原始仏教でも、戒定慧は、修行道であり、その先に「慧」が予想していた教説であり、教説ではない「解脱」と「解脱知見」を別にあげている。「修証一等」という時の「証」は教説の「慧」であるが、戒定慧の修行の結果、「解脱」「解脱知見」がある。  
 
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