もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

「調査メモ2」へ  臨床禅学  
仏教学・禅学の批判

尋を捨棄する方法(迫り来る苦悩を捨てる方法)=初期仏教

「苦悩を招く思考を止める種々の方法」

 我々には煩悩があり、それが、業(思考、語、行為)を起し、苦(自分た他者を苦しめる)を招くという点は、初期仏教、大乗仏教を通じて共通の教えである。煩悩の定義やその捨棄の時点は異なるが、次の点は、ほぼ共通である。

正念・四念処法

 自分の煩悩に、一度に気がつき、捨棄できるものではないので、段々に捨棄していく。深層にあって自覚しにくい煩悩もある。煩悩を捨棄する方針としては、対症的、形式的な方面から入るものと、根本的な方面がある。
 まず、対症療法的、形式的な実践が教えられる。煩悩を含んだ思考が苦をもたらすのであるから、そのための心得として、種々の方法が考案された。当初は「正念」と言われていたが、やがて詳細な方法が確立されて「四念処」と呼んだ。 これに、中道の修行が網羅されている。

正念、四念処を実践できない場合

 正念、四念処は、中道の正門である。中道正観である。大きな苦悩を持たない者や、大機の者は、それを教えられると、そのまままっすぐに実践するであろう。だが、その標準的な方法を、そのまま実践できない場合には、どうするか。正念から離れてしまう者はどうしたら、正念に戻れるか、それを教えるのが、「尋止息経」(考想止息経、思考停止経)である。
 図で示すことにする。

(A)逆のこと(善なること)を思い描く
 たとえば、目前の物(「色」である)を見ること(仕事、学業に専念しようと)を自覚しようと(ある相に関してある相を作意する)しても、自分がいじめられた時の怒りがわきおこる(図の(a)の場合)場合、反対の「怒りのない姿」を思い描いてみなさい(図の(A)の対処法)というのである。それに成功すれば、怒りはおさまる。
 現実の人生はなまやさしくはない。自分の環境、状況が、自分にとって思いどおりにならず、種々の葛藤を生む。その時に、大きな願い(最低限の幸福は何かでもいい)、寛大な思いを持って、その今の不満な環境、条件が本当に障害になるかを熟考して、小さな不満、葛藤を止揚してしまう。
 僧侶の場合ならば、大悲・大願を思わせることが、これに該当する。苦悩する人々のことを思え(大悲)、救済できるようになれ(大願)、そのためには、まず自分で苦のないことを証明せよ、解脱せよ、と言ったのである。そのような大きな目標の前には、師や同僚への不満など、自分の一人よがりな葛藤は小さくなってしまう。大悲、大願のある身が、こんなつまらぬことで葛藤していては、達成されないから、葛藤を捨てて、また、正念にもどる。
 だが、苦悩は僧侶でない在家に多い。在家は大悲、大願をどう描いて自分の葛藤を乗り越えるか。そのことは、人生経験豊かな先達のアドバイスを受けながら高い見方、寛大な見方を描き、感情の対処法を変えていくのがこの方法であろう。それが在家にとって、「大悲、大願」観である。
 それは、個々のクライアントによって違うから、対機指導となる。一例をあげよう。人生には不満なことが多い。不満な相手が多い。配偶者や同僚、上司などへ不満なために、心の病気になった場合を考えよう。その時、思いをはせるとよい。親は、子供が「生まれてきて、生きていて、不幸だ」という思いではなく、生きていってくれさえすればいいと思う。自分に反抗してもいい、無視してもいい、ひどい言葉をあびせてもいい。親はそういう子でも許す愛を注ぐ。自分に「ありがとう」と言ってくれなくていい。「ああしてほしい」とは思わない。「ただ、悲しみだけ、不満なだけの人生を送らない。それだけでいい。」と思わないだろうか。どんなことがあっても、親には、子に対する無償、無条件の愛がある。それの一部を配偶者や、同僚、隣人、上司、部下、などに分け与えられないだろうか。その人もストレスがあるのだ、だから、私への配慮が欠けるのだ、自分がその人の親であれば許すだろう、そうだ許そう、と思う。これは一例である。
 また、自分の願いは何か。今の自分の不満・葛藤を持ち続けて、その願いが達成されるのか。その願いにとって、今の不満がそれほど大きな障害になるのか。自分の大悲・大願を思いなおす。そういうことを、先達のアドバイスを受けて、描きなおして、自分の今、この葛藤をしていては、大悲、大願を達成できないと思いなおして、不満、葛藤を捨棄してしまう。深い不満、重い葛藤の場合、いかに導くか、先達(師、カウンセラー)の経験、力量などによって左右されるであろう。だから、仏教はカウンセリングであり、形式的な技法ではない。深い苦悩を救済できるかどうかは、仏教の指導者の人生観、カウンセリングの力量に左右される。

(B)害、犯罪になる、苦になるとの智慧
 しかし、(A)の方法では、おさまらない場合(b)には、「こんなことを思考していれば、自分を傷つけるだけだ」と冷静に智慧を思いおこして、それ以上、その怒りを考えることをやめる(B)のである。この智慧は、惑・業・苦の仕組みや、十二縁起説の理解などによって、得ることができる。現代では感情の生理学で、感情は自分の自律神経、ホルモン、免疫系を傷つけて種々の病気をひきおこすことが判明している。そのように、怒り、不満、不安などの感情を伴う思考は、自分を傷つける(あるいは、犯罪を犯すに至る、苦しくなるだけだ)という智慧を思い起して、怒りなどの思考を停止しなさい、という対処法(B)である。そのほか、うつ病、不安傷害、心身症などの病気の発症の仕組みを精神医学、精神神経免疫学などの知識を学びぶことにより、自分の葛藤、感情が自分や他者を傷つけることを深く認識して、日々の葛藤を乗り越えていくのが、これにあたるであろう。

(C)思考を念じない
 しかし、その方法でも、おさまらない場合(c)には、思考を念じないで作意しない(C)、それでも成功しない場合(d)には、尋の尋行を止める作意をする(D)。この二者の違いは、わかりにくいが、(C)は、心が対象としてとらえたものを連想発展しないように努めることであろうか。
 基本的な坐禅の「只管打坐」は、これに該当するであろう。(A)(B)などの智慧が十分に理解・実践できない初心者でも、とにかく、只管打坐に戻る。そうすると、その時、苦悩・問題から離れている。

(D)尋行を停止
 次に、尋行を停止する試みもわかりにくいが。心が対象を次々ととらえて散乱するような場合に、息を観る、数える、など、わきおこる思考から心を他のもの(息、数など)に転じる方法がある。これは(D)の一つの方法であろう。
 数息観、随息観、複式呼吸法などは、初心者で、上記の方法ができない場合にも、苦から離れる功果がある。

(E)歯をくいしばる
 しかし、その方法でも、苦悩がおさまらない場合(e)には、「歯と歯を合わせ舌を上顎におしあて心をもって心を抑え込みねじ伏せ苦しめる」(E)方法をとれと教える。これは、思考のわきおこるのを、身体の感触に心の注意を転ずる方法であろう。こぶしを握りしめる、お守りなどを強く握るなど、苦悩の激しい初心者向けの方法であろう。

現代への貢献

 このような方法は、現代の心を病む人、種々の問題で悩む人が、禅で解決したいという場合にも、応用できる方法である。上記のうち、(B)は、特に、智慧の勝る対処法であるから、根本的解決に近づく。他の方法は、(B)の智慧が十分に会得できない初心者が用いる初歩的な対処法である。いずれにしても、指導者から、こういう智慧を習って、智慧を帯びて坐禅していくと、自分の問題の解決が早まる。

(図)「苦悩を招く思考を止める種々の方法」

ある相に関してある相を作意する
(a)貪瞋癡を伴う悪不善の尋が生じる場合
(A)その相とは反対の善を伴う相を作意する 成功 尋は捨てられ消滅する 内なる心は止まり落ちつき一つになり定まる
失敗
(b)貪瞋癡を伴う悪不善の尋が生じる場合
(B)尋の過患を考察する
「尋は私にとって不善、有罪、苦の報いである」と考察する
成功 尋は捨てられ消滅する 内なる心は止まり落ちつき一つになり定まる
失敗
(c)貪瞋癡を伴う悪不善の尋が生じる場合
(C)尋を念ぜず作意しないことを達成する 成功 尋は捨てられ消滅する 内なる心は止まり落ちつき一つになり定まる
また
(d)貪瞋癡を伴う悪不善の尋が生じる場合
(D)尋の尋行の止息を作意する 成功 尋は捨てられ消滅する 内なる心は止まり落ちつき一つになり定まる
また
(e)貪瞋癡を伴う悪不善の尋が生じる場合
(E)歯と歯を合わせ舌を上顎におしあて心をもって心を抑え込みねじ伏せ苦しめる 成功 尋は捨てられ消滅する 内なる心は止まり落ちつき一つになり定まる

「調査メモ2」へ  臨床禅学
このページのHP素材は、「てづくり素材館 Crescent Moon」の素材を使用しています。
「てづくり素材館 Crescent Moon」