もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

自内證するもの=原始仏教
仏教の解脱・悟りは、言語の思惟によらない、ということは、「自内證」という言葉でも、原始仏教経典にも記述されている。「リンゴ」という文字を理解しても、りんごの実物ではなく味もしないし、食べることもできないいように、文字に説かれたものを知る、理解するというのは、その依所となるものを、正しくそのとおりに見ているわけではない。だから、文字の依所となるものを、自分の内(こころ)に見よ、という。それによって、文字の依所がいかなるものであるかを証明することになる。そのような、他者の文字ではなく、文字の依所になったものを、自分の心に現にみることを「自内證」という。
智者内證
無間定
自ら證する
知りおわってから、離貪し、滅し、自ら覚る
智者内證=智者によって各自に知らるべきもの
「増支経典」の「六法」に、次の言葉がある。法は、すべての人に文字で説かれたものを理解するのではなくて、智者によって「観よ」といわれるもの、「内證」するもの、「各自に知らるべきもの」である。
「世尊の善説なる法は現見なり、無時なり、来観なり、引導なり、智者内證なり、と摩訶迦葉よ、聖弟子が法を随念するーー」(「南伝大蔵経」の訳)(1)
(平川彰氏の訳)
「世尊によりて善説せられた法は、現見さるべきもの、時をまたないもの、来たり見よと言いうるもの、涅槃に導くもの、智者によって各自に知らるべきもの。」
平川彰氏は、ブッダゴーサ(仏音)の「清浄道論」の解釈を参照しながら、次のとおり解釈する。教えられる文字の教説のほかに、「自ら見らるべきもの」「自己のものにすること」がある。「来たり見よ」と言うことの説明でも言っているように、「この出世間法(聖道と涅槃)は実在であり、まったく清浄なものである」という。これは、文字を理解するという抽象的なもの、思惟ではなくて、実践的にあるもの(もちろん、これは、実体化していうのではない。実践的なものということ)、実証しうるもの、ということである。
「この「法随念」の文章を「清浄道論」では次のように解釈する。即ちここに示される法は、「教法」と「出世間法」との二つであるという。第一に「法は善説された」という点には、教法と出世間法との両者が含まれているという。次に「現見のもの」以下は、「出世間の法」のみを含むという。
ブッダゴーサは最初に「教法」としての法の意味を説明しているが、そこにはとくに注目すべき説明はない。第二の「出世間の法」に彼の解釈の特色が見られる。彼によれば、ここに示されている「出世間の法」とは、「実践道」、「聖道」と「涅槃」とであるという。即ち、法が「現見さるべきもの」というのは、煩悩を断じた聖者によって、「聖道」が自ら見らるべきものだからであるという。即ち聖者が、聖道(道諦)を自己のものにすること、聖道を悟ることが、「法は現見される」ことであるというのである。即ち現見される法は「聖道」である。悟りの智慧を中心とする実践が、ここで「法」と呼ばれているのである。
故にこの法が「出世間法」と呼ばれるのである。次の「時をまたない」とは、聖道の果報、即ち「四沙門果」が得られるのに時をまたないこと、(聖道の)発動の直後に果が与えられるからであるという。即ち悟りの智が現われる直後に、悟りの果(四沙門果)が得られる。悟りの智とその果報との間に隔たりがないことである。四沙門果の最後は阿羅漢果であるが、これは涅槃を得ることである。したがって聖者が道諦を証得した直後に涅槃を得ることが、「法は時をまたない」という意味になる。したがってこの場合の法は、道諦と涅槃を指すと言ってよいであろう。
次の「来たり見よ」と言われるのは、「この出世間法(聖道と涅槃)は実在であり、まったく清浄なものであるからである」と言っている、即ち法(聖道と涅槃)は真理であり、誰でもそれを見ることができるという意味である。仏陀の悟った法は選ばれた小数の人の独占物ではなく、何びとにも公開されているという意味である。決められた方法に随って実践えおなし、努力をすれば、何びとにも実証しうるという意味である。これが「来たり見よ」という意味であるという。
次の「涅槃に導くもの」とは、「聖道が行者を涅槃に導くからである」という。ここでは法は「聖道」(道諦)を意味している。
最後の「智者によって、各自に知らるべきもの」とは、「智者によって、<われによりて道は修せられた。果は証得せられた。滅は作証せられた>と知らるべきものだからである」と説いている。「道は修せられた」というのは、道諦であり、「果は証得せられた」とは四沙門果であり、「滅は作証せられた」とは涅槃である。したがってここで法というのは、道諦と四沙門果、涅槃である。しかし道諦と四沙門果とは一つのものと見てよいから、聖道と涅槃とが法であると言ってよい。即ち四聖諦で言えば、苦諦と集諦の法は「世間法」であって、この二つは法宝の法の中には含まれない。但し「教法」という場合には含まれる。狭義の法宝の法は、道諦と滅諦とを含む法であるというのが、以上のブッダゴーサの法宝の法の解釈であると見てよい。そしてこれが、パーリ上座部の法宝の理解であったと見てよかろう。ここに、帰依法の法が、教法と、教法の示さんとする根本の真理との二つによって示されていることが見られる。」(2)
「教法」は、道諦の修行をしない者にも、理解できるものであるが、道諦の修行の果として証得される「四沙門果」「涅槃」がある。「四沙門果」「涅槃」は、各自が証得するものである。
それは、「煩悩を断じた聖者によって、「聖道」が自ら見らるべきもの」である。「聖者が、聖道(道諦)を自己のものにすること」である。道諦を証得した直後に涅槃を得る。言葉の思惟・理解だけではなくて、煩悩を断じ、道諦の修行をした果として得られるもので、「証得」という直後に涅槃を得る、という「時を待たない」体験のあることを示している。文字に書かれた教法を、煩悩を断じる道諦を修して証得する、その直後に涅槃を得る、そのようなことを「自内證」という。各自が證得することである。
「時を待たない」ということは「無間定」の説明があり、それを参照すれば、その禅定体験の直後に、得られるので、間がない、時間がない、という意味である。禅においても、「見性体験」の直後に、時間をおかず「覚った」という自覚が生まれ、自己の真相を知る智慧が直ちに生まれる。
原始仏教では、解脱知見、悟りの智慧は、文字の思惟・理解ではなくて、一種の「定」体験により得られる智慧であることがわかる。「無間定」は、次項参照。
(注)
- (1)「南伝大蔵経」20巻、10頁。
- (2)平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、190頁。
無間定
「出世間法」を「証得」するということは、単に文字の思惟によって得られる知識ではなくて、禅定の修行の結果、聖者の心に体験される一種の「三昧体験」である。このことを、平川彰氏は、上記の説明につづいて、「以上の「清浄道論」の解釈は「出世間法」を涅槃と道諦(聖道)と見る解釈であるが、これに合致する解釈が「スッタニパータ」の「宝経」に見られる」と言う(1)ことで、論じている。それは次の言葉である。
「禅定に入りし釋迦牟尼の証得した滅尽・離貪・不死(甘露)・微妙なるもの、この法に等しいものはない。これ、最勝の仏が賛嘆する清浄なる(心統一)を、世人は無間定という。この心統一と等しいものはない。これ、法における微妙なる宝である。この真理によりて吉祥あれ。」(2)
証得する法は、別の側面からは、滅尽・離貪・不死(甘露)・微妙の性質があり、禅定に入った後に得られる。これによって、原始仏教には、文字によらないで、禅定の結果、体験される滅尽・離貪・不死(甘露)・微妙なるものを証得することがある、と説かれている。「この心統一と等しいものはない」という最高の賛辞に値するものは、単に、思想ではない。煩悩の滅尽、貪瞋癡を離れる、という人格的実現である。
この詳細は、「無間定」を参照。
無間定
(注)
- (1)平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、193頁。
- (2)中村元「ブッダの言葉」岩波文庫、44頁。「南伝大蔵経」24巻、82頁。
自ら證する
そのほか、原始経典に現れる「自内證」「自ら悟る」という経典をみておく。「枳タ山巴邑経」(キーターギリ・スッタンタ)」は、こういう。
「されど比丘達、又、比丘にして学すべきもの有る身にしていまだ目的を達せず、無上安穏を求めつつ在る者あり。比丘達、是の如き諸比丘に対しては、予は「不放逸をもってなさるべし」と説くなり。そは何故となれば、「これら尊者は正規の床坐を用ひ善友を友とし、諸根を制御して、善家の男子が在家より出家行者となれる目的なる、かの梵行の成就を、現在に於いて自(みずか)ら知り自ら證して安住せよかし」との此の不放逸の果を、予は此れら比丘に望むが故に「不放逸をもってなさるべし」と説くなり。」(1)
この場合も、「諸根を制御して」「かの梵行の成就」の後に、「現在に於いて自(みずか)ら知り自ら證する」ことである。決して、文字を思惟、理解するにとどまるのではない。修行が必要であり、修行の結果、自ら証明するもの、自ら知るものである。文字に書かれたことが、実際には、どういうことかを証明し、実際を知るのである。
次に、「第一ケン度」は、こういう。
「比丘達よ、能く聴け。我已に不死を證得せり、我教ふべし。我現法に自ら證知現證し具足して住すべし。此れ善男子の在家を出でて出家する本懐なり。」(2)
教えるから「自ら證知現證」せよ、というのであり、教えらる教法を證得するものである。思惟・理解ばかりであれば、出家しなくても可能であるが、あえて、出家する目的は、教法を「自ら證知現證」するためである。出家しないとむつかしいようなことである。思惟・理解のみではない。他の経典に明らかなように、梵行が必要である。そして、證得した後には「具足して住すべし」というものであるから、その證得したものを護持していく戒(無相戒)の性格を持つもの、実践的なものである。
(注)
- (1)「南伝大蔵経」10巻、301頁。
- (2)「南伝大蔵経」3巻、17頁。
知りおわってから、離貪し、滅し、自ら覚る
「六浄経」では、次の言葉がある。善巧・取著、心の住著・執持・随眠、それらを盡し、離貪し、滅し、捨し、退堕の後に、「自ら覚る」。
「友よ、我は色を無力・離貪・不安穏なるものと知り已りて、およそ色に関する諸の善巧・取著、心の住著・執持・随眠、それらを盡し、離貪し、滅し、捨し、退堕し、もってわが心は解脱せりと自ら覚る。」(1)
これは、「色」について、言われているが、その後に「受」「想」「行」「識」も同様に言われている。色受想行識のすべてについて、「知り已りて、・・・諸の善巧・取著、心の住著・執持・随眠、それらを盡し、離貪し、滅し、捨し、退堕し、もってわが心は解脱せりと自ら覚る。」
この後、「地水火風空」の六界、六境(色聲香味觸法)、六識(眼耳鼻舌身意)、その識がしる所の諸法についても、同様に「善巧・取著、心の住著・執持・随眠、それらを盡し、離貪し、滅し、捨し、退堕し、もってわが心は解脱せりと自ら覚る。」と説かれている。
「色受想行識」については、「知りおわる」ことが、先行し、その知ったものを「善巧・取著、心の住著・執持・随眠、それらを盡し、離貪し、滅し、捨し、退堕」することが行われて「解脱」したと自ら覚る。このような、順序になっているので、文字で教説を知ることは、初歩である。知ったことに関して、修行(執著を離れ、貪を離れ、滅し、捨し、退堕)してから、「わが心は解脱せりと自ら覚る」のである。文字の理解によって知ることではなくて、知ったことに関して、修行して「自ら覚る」ということがある。知った文字の正しさを証拠だてる何らかが心理的に体験されて「解脱した」との思いがおこる。
文字に書かれた教説は、文字で説法される教えは、それを了解したからといっても、貪瞋癡を起こして他者を苦しめ、自分を苦しめるのが人間である。思想を了解させさえすれば、人間が苦悩を脱し、他者を苦しめることをやめるのであれば、学校教育のみで足りる。しかし、そうではないから、教えのごとく「実践」することが必須なのである。そして、教え、文字が言っていたことの「実際」とは、こうであったのかと、自分の心魂で、観て、心底納得することで、落ち着くのである。
関連の教説
文字の教えを了解し、思惟するのは、初歩の段階であって、貪瞋癡を離れる実践、一種の定(無間定、想受滅)の体験によって、解脱したと自分自身で覚るものが仏教であることは、次の教説でも、判明する。別に論じているので参照していただきたい。
- アーナンダの悟り
- チューラパンタカ
- 想受滅
- 無間定
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