第1部:苦の解決手法=仏教経典による検証
研究メモ1部
八正道
初期仏教では、苦の解決のための心理療法にあたるものを「八正道」という。この内容は、現代の認知行動療法に似ている。認知行動療法を実行すると、八正道と同じような内容を実行することになる。
八正道
初期仏教の教説を研究した三枝充悳氏は、「正念」などの八支についての内容を、各経典から整理すると、次のようになるという。
「正見・・・正しい見解、真理の知識、いわゆる般若(智慧)。
正思・・・正しい思い、意欲。
正語・・・正しいことば。
正業・・・正しい業、おこないとそのつみ重ね、その結果と責任。
正命・・・正しい生活、出家と在家との両方に分かれる。
正精進・・正しい努力、修養、励む。
正念・・・正しい気づかい、注意、思慮。
正定・・・正しい精神統一、集注。
そして右の解説は、この八正道が道諦として四諦に組みいれられたのちも、そのまま適用されよう。しかし具体的に諸経典の説くところを綜合したうえで要約すると、つぎのようになる。
正見・・・四諦の一々に対する知。
正思・・・出離・怒らない・不傷害の三つの思い。
正語・・・虚言・そしることば・あらあらしいことば・戯言の四つを断つ。
正業・・・殺生・盗み・邪淫の三つを断つ。
正命・・・法にかなった衣・食・住。
正精進・・善への四種の努力。
正念・・・身・受・心の観において、熱心で、気をつけ、気づかい、世間における貪りや憂いを制する。
正定・・・四禅。」(1)
(注)
- (1)三枝充悳「初期仏教の思想」(下)レグルス文庫、第三文明社、1995年、567頁。
正見
戯論を離れるという修行の方針や、分別が二元観におちいるとして「思惟、分別」を離れることを仏教では重視するが、もちろん、すべての思惟を離れるわけではない。八正道の中に「正見」があり、教義の知的理解が必要とされる。
「諦分別経」によれば、「正見」は次のとおりである。
「友よ、正見とは何であろうか。友よ、それは、苦に関する知、苦集に関する知、苦滅に関する知、苦滅道に関する知、これが、友よ、正見と言われる。」(1)
「正見」は、苦の四聖諦を正しく理解することである。仏教の目標やその修行法を理解することである、
(注)
- (1)「南伝大蔵経」11巻下、344頁。田中教照「初期仏教の修行道論」山喜房佛書林、平成5年、128頁。
正思惟、正語、正業、正命
「諦分別経」によれば、「正思惟」「正語」「正業」「正命」は次のとおりである。
「友よ、正思惟とは何であろうか。出離の思惟、無恚の思惟、無害の思惟、これが、友よ、正思惟と言われる。
友よ、正語とは何であろうか。妄語からの離、二枚舌からの離、悪口からの離、綺語からの離、これが、友よ、正語と言われる。
友よ、正業とは何であろうか。殺生からの離、不与取からの離、欲邪行からの離、これが、友よ、正語と言われる。
友よ、正命とは何であろうか。友よ、ここにおいて聖なる声聞は、邪命を捨てて、正命によって、生活を営なんでいる。これが、友よ、正命と言われる。」(1)
四聖諦には、苦の起きる原因の分析が含まれている(そこには、十二縁起も含まれている)が、四聖諦を理解するという「正見」だけでは、現実には、実行されていないから、苦を解決しない。そこで、この正思惟、正語、正業、正命は、苦をもたらす「悪」を思わない、言葉を言わない、行為をしないという実践行にあたる。主に他者との関係において起きる苦をもたらす行為が多い。
二種の「正思惟」
なお、正思惟には、2種あるという経典がある。悟りを得る前と後である。
「正思惟を分けて二種類述べよう。煩悩があり(有漏)、福徳を分有し、煩悩の拠り処たる心身の影響下にある正思惟と、聖なる、煩悩なき(無漏)、世間を出た、悟りへ至る道の一部である正思惟である。
煩悩があり(有漏)、福徳を分有し、煩悩の拠り処たる心身の影響下にある正思惟とは、出離に関する思惟、無瞋に関する思惟、無害に関する思惟である。
、聖なる、煩悩なき(無漏)、世間を出た、悟りへ至る道の一部である正思惟とは、聖なる心があり、無漏なる心があり、聖なる道を完備し、聖なる道を修習している者の推理、尋求、思惟、専注、細専注、心の想起、言語活動である。」(2)
(注)
- (1)「南伝大蔵経」11巻下、344頁。田中教照「初期仏教の修行道論」山喜房佛書林、平成5年、128頁。
- (2)田中教照「初期仏教の修行道論」山喜房佛書林、平成5年、120頁。
「大四十経」にも同様の説示がある。「南伝大蔵経」11下巻、75頁。
正精進
以上は、他者を苦しめることを思惟、発語、行為をしないという実践が主であるが、正精進は、さらに内面の実践を積極的に行うことが含まれる。
正精進は、四種の努力であるが、「諦分別経」によれば、次のとおりである。
「友よ、正精進とは何であろうか。友よ、ここにおいて、比丘は未生の悪・不善法が生起しないようにと、意欲を生ぜしめ、精進し、勤め、心を索励して努力する。已生の悪・不善法は捨てるように、意欲を生ぜしめ・・・(略)・・・未生の善法は生起するように、意欲を生ぜしめ・・・(略)・・・未生の善法は生起するように、意欲を生ぜしめ・・・(略)・・・已生の善法は存続するように、失念しないように、増大するように、拡大するように、修習するように、円満完備するようにと、意欲を生ぜしめ、精進し、勤め、心を索励して努力する。これが、友よ、正精進と言われる。」(1)
教義を思惟、理解するだけではなくて、心を常に観察して、悪を思わないよう勤め、善を思うように勤めることである。これは、他者と接するときばかりではなく、常なる実践である。学問研究とは異なる。悪と善を思惟、理解するのは限られた期間で習得できる。それを、常に実践しているのである。
(注)
- (1)「南伝大蔵経」11巻下、344頁。田中教照「初期仏教の修行道論」山喜房佛書林、平成5年、128頁。
正念
中部経典「諦分別経」では、「八正道」のうちの「正念」を次のとおりとする。内容は「四念処」と同じである。
「友よ、正念とは何であろうか。友よ、ここにおいて、比丘は、身体において身体をくりかえし観察し、熱意あり、正知あり、正念あるならば、この世における貪愛と憂悩を調伏するであろう。。
感受において感受をくりかえし観察し、・・・
心において心をくりかえし観察し、・・・
法において法をくりかえし観察し、熱意あり、正知あり、正念あるならば、この世における貪愛と憂悩を調伏するであろう。。
これが、友よ、正念と言われる。」(1)
善悪ばかりではなく、自分の心の上でおきる法のすべてを観察している実践である。そして、貪愛と憂悩を調伏する。
(注)
- (1)田中教照「初期仏教の修行道論」山喜房佛書林、平成5年、128頁。
正定
「諦分別経」によれば、「正定」は、以上の修行の結果到達する四つの心の状態である(1)。
後世の「禅」でも、実際に行われているのは、正思惟、正語、正業、正精進、正念などに類似しているようである。禅を行じるというのは、正思惟、正語、正業、正精進、正念を実践することであり、その結果、心の状態(苦楽の受け止め方や、安楽にいる状況)が、四つの段階になるという。
正定を除く他の修行をしていると、「四禅」に達する。ここに至り、ほとんど、苦を解決している。しかし、まだ、解脱ではない。
(注)
- (1)「南伝大蔵経」11巻下、355頁。田中教照「初期仏教の修行道論」山喜房佛書林、平成5年、129頁。
研究メモ1部
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