もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
第六部目次
無間定
仏教学・禅学の批判

三帰依・五分法身
三宝のうちの「法宝」
五分法身
経典の「五分法身」
自燈明・法燈明
三宝のうちの「法宝」
阿含経には、「三帰依」「五分法身」の教説がある。「仏に帰依す、法に帰依す、僧に帰依す。」という三帰依である。ここで帰依される「法」はいかなる法であるか。
帰依される法は、ゴータマによって説かれた「教法」をさすこともある。しかし、阿含経では、文字に書かれた教法ではない「法」があるというのが、阿含経の考えであると、平川彰氏は言う。。
「たしかに教法に帰依を表白する例もあるが、しかし教法以外の「法」に帰依する例も多いのであり、仏教全体として見れば、この方が重要である。」(1)
まず、スッタニパータの「宝経」では、禅定に入って得る「滅尽・離貪」「無間定」を「法宝」としている。
「禅定に入りし釈迦牟尼の証得した滅尽・離貪・不死(甘露)・微妙なるもの、この法に等しいものはない。これ、法における微妙なる宝である。この真理によりて吉祥あれ。
最勝の仏が賛嘆する清浄なる(心統一)を、世人は無間定という。この心統一と等しいものはない。これ、法における微妙なる宝である。この真理によりて吉祥あれ。」(2)
「ここでは、仏陀の悟った「滅尽・離貪」が法宝であるといい、また仏陀の賛嘆する清浄なる無間定が法宝であると言っている。
「滅尽」は煩悩の滅尽で「涅槃」のことである。「離貪」も同じ意味であるが、この場合には、煩悩を断じる智慧あるいは解脱を指すと見てよい。「無間定」はこの智慧の生ずる心理的「場」である。これは仏陀の「悟り」を法宝と見ていることを示している。これは仏陀が、自己の悟った法に帰依したという物語とも一致する。」(3)
「法」とは、文字で書かれた教法ではなくて、実践で得られる涅槃、解脱、無間定である。
(注)
- (1)平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、22頁。
- (2)同上、23,195頁。岩波文庫「ブッダのことば」225,226偈。
- (3)同上、23頁。
五分法身
こうして、平川氏は、「宝経」の法宝の解釈では、「法」とは「涅槃」「解脱」「無間定」であるとする解釈を紹介された。これは、文字で理解するものではない。
また、平川氏は阿含経には、「法」を、五分法身(戒、定、慧、解脱、解脱知見)とする経典もあることを指摘している。
「仏陀は菩提樹下で悟りを開いてからまもなく、次のように考えたという。
「尊敬するものがなく、恭敬するものがないのは苦である。したがって自分は、何びとかを尊敬し、その人に帰依して住したいが、しかし自分よりすぐれた戒蘊、定蘊、慧蘊、解脱蘊、解脱知見蘊をそなえた人を見ない。それ故、自分は、自分の悟った法を尊敬し、恭敬して住しよう。」(1)
と。ここにいう戒蘊・定蘊・慧蘊・解脱蘊・解脱知見蘊は「五分法身」のことである。戒蘊・定蘊・慧蘊の三は、「三学」ともいわれ、不完全な形では、凡夫も修行によってそなえることができる。しかし凡夫の三学は有漏であるが、悟りに達すれば三学は「三無学」になり、無漏となる。さらにこれに、解脱と解脱知見とが加わって「五分法身」となる。五分法身はすべて「無学」である。」(2)
このように、帰依すべき「法」は、戒・定・慧・解脱・解脱知見の五分法身とする考えが重要であった。これらは、次のように、文字を理解するだけのものではなくて、実践的であった。
「悟りは智慧であるから、五分法身のうちでは、第三の「慧蘊」が中心である。しかし智慧は単独にあるのではなく、その根底には、戒としての身体的行為をも含めた「実践」と、定としての「心の統一」があり、これらを含めた実践に裏づけられた「智慧」によって、煩悩を断じて、実現するのが「解脱」である。さらに自己が解脱したとの自覚を得るのが「解脱知見」である。智慧によって得られた「解脱」が、五分法身の中心となっている。」(3)
なお、解脱の前にも煩悩を断ずるという戒(有相戒)があり、解脱してからも、五分法身、特に、解脱、解脱知見に帰依して住するという無相戒の考えがある。
(注)
- (1)平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、23頁。「南伝大蔵経」12巻、238頁。18巻、36頁。大正、2巻、321c。
- (2)平川彰「法と縁起」23頁。
- (3)同上、23,194頁。
経典の五分法身
上記で、平川彰氏が参照する経典は、次のとおりである。
「復た是の念を作したまはく「諸天魔梵沙門婆羅門天神世人の能く我が具足する所の戒より勝り、三昧より勝り、智慧より勝り、解脱より勝り、解脱知見より勝り、我をして恭敬し宗重し奉事し供養せしめ、彼に依りて住する者有ること無し。唯だ正法のみ有りて我れをして自覚して三藐三仏陀を成ぜしむ。我れ當に彼れに於いて恭敬し宗重し奉事し供養し、彼れに依りて而かも住すべし。」(1)
「三 時に世尊はかく考え給ふ未だ満されざる戒蘊の成満のために、他の沙門又は婆羅門を敬ひ尊び近づきて住すべし。されど我は天界魔界梵天界を含む世界に於いて、沙門婆羅門人天を含む衆の中に於て、我よりもよく戒を成就せる他の沙門婆羅門の敬ひ尊び近づきて住すべきものを見ず。
四−七 未だ満されざる定蘊・・(乃至)・・未だ満されざる慧蘊・・(乃至)・・未だ満されざる解脱蘊・・(乃至)・・未だ満されざる解脱知見蘊の成満のために、他の沙門婆羅門を敬ひ尊び近づきて住すべし。されど我は天界魔界梵天界を含む世界に於いて、沙門婆羅門人天を含む衆の中に於て、我よりもよく解脱知見を成就せる他の沙門婆羅門の敬ひ尊び近づきて住すべきものを見ず。」(2)
(注)
- (1)大正、2巻、321c。
- (2)「南伝大蔵経」12巻、238頁。なお、18巻、36頁にも同様の言葉がある。
自燈明・法燈明
上記の「法」が五分法身の意味であることを示す経典が「自燈明、法燈明」である。「自燈明、法燈明」は、釈尊が入滅(死亡)される直前の説法において出てくる言葉である。パーリ長部経典「大般涅槃経」に説かれている。
インド各地を説法してまわっておられた釈尊が、ヴェーサーリあたりにおられた。その時、釈尊は、病気になり、説法を請うたアーナンダに語られた言葉の中に、次の語がある。
「なんじらは、ここに自からを燈明とし、自らを依所として、他人を依所とせず、法を燈明とし、法を依所として、他を依所とせずして住するがよい。」(1)
釈尊が生きておられるうちは、釈尊に依存する(依所とする)者もいたであろう。しかし、釈尊のなき後は、「自ら」と「法」を燈明、依所とせよ、と示された。
サンスクリット経典の言語では「燈明」よりも「島」「洲」が正しいという説もある(2)。島、洲なら川の中で流されない足場である。「依所」の譬えに使用されているのは明らかである。燈明は、自分と周囲を照らすものである。燈明の方が、深さがあるようである。大乗仏教になると、悟りの智慧、仏が「光明」とされているように、悟りの智慧、依所を「燈明」にたとえてもかまわないだろう。
「自からを燈明とし、自らを依所として、他人を依所とせず」とは、他人に依存するな、ということである。「大智度論」にも「自知自證して他語に随わず、若しくは魔、仏形となって来るも心また惑わず」(3)という。他の宗教者などの言葉に迷わされず、依存せず、自己を確立していけ、ということである。もちろん、偏見、エゴイストでない自己、我執なき自己を、依り所としなければならない。
「法を燈明とし、法を依所として、他を依所とせずして」とは、「法」以外のものを依り所とするな、ということである。「法」(ダルマ)とは、種々の意味を持ち、経典では、法則、教え、真実・最高の実在、経験的事物などの意味で「法」という語が使用されている(4)。
だが、この経典の場合には、「法」の意味は「五分法身」が妥当である。もし、釈尊が、このようなことを言ったとしたら、拠り所とするには、文字で記録されなかった当時、膨大な量の説法(教法)と考えるのは、無理がある。体得、証得された実践的な戒・定・慧・解脱・解脱知見と見るのが自然である。涅槃、解脱の体験から自覚される「自ら」の性質から、悟る前も後にも、「滅尽・離貪」という戒の根拠も生まれるし、「解脱」「解脱知見」は、解脱しない者にとっては、最高の目標となるからである。
(注)
- (1)増谷文雄「阿含経典による仏教の根本聖典」大蔵出版、1987、271頁。「南伝大蔵経」7巻68頁、長部経典16、「大般涅槃経」(マハーパリニッバーナ・スッタンタ)
- (2)三枝充悳氏は、「洲」や「燈明」となっている経典をあげている。同じような依所、帰依所を説いている中で、むしろ「燈明」が適切な経典もある(「初期仏教の思想」中、第三文明社、1995年,464頁)。この場合、譬喩の意義は、洲でも、燈明でも同様に、帰依すべきもの、仏教者の生活で標準とすべきもの、である。
- (3)大正、25巻、262a。
- (4)平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、5頁。
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