仏教学・禅学の再検討


原始仏教における縁起説

 十二支縁起説は、苦が起こる縁を列挙している。
 「無明」によって、「行」があり、・・・ないし、・・「触」によって「受」あり、受によって「渇愛」あり、「渇愛」によって「取」があり、「取」によって、「有」があり、「有」によって「生老死」の「苦」が起こる、とされる(順観)。
 このゆえに、逆に、「無明」が滅すれば、「行」が滅し、・・・・「苦」が滅する(逆観)。

 原始仏教経典を注意深く読むと、二支間の縁起、因果(初期仏教の十二支縁起説、後世の縁起説とは異なる)は、修行する上で、早い段階で理解しているものである。ただし、無明は、解脱前の意識では信じるしかなく、八正道の修行の後に、はじめて、無明が明(般若)に転じるので、無明->行->識は、厳密に言えば、八正道の修行をしない限り、真に理解したとはいえない。その意味からであろうが、縁起説は、一方で、甚深難解とも言われる。
 十二支縁起説は、初期の段階で、自己の上で観じてある程度理解される(1)ものであるとされていたことに私も賛同する。
 十二支縁起説は、経典に多く書かれているので、書かれている限りは、ある程度、思惟理解できるものと考えるべきであろう。それなのに、四聖諦に「八正道」が組み込まれているのは、修行なしでは無明の滅が達成されないということであろう。
 十二縁起は、修行の初期段階でも、研究者のように修行しないでもある程度理解できるものであるが、一方では甚深難解と言われている。研究者も、十二支縁起説の各支の関連は理解困難であるという。十二支縁起説について新しい解釈も出てきた(2)。悟りの世界まで縁起とする後世の縁起説で、初期仏教の十二支縁起説を解釈するのが誤解、偏見のもとであるようだ。
 現代の臨床心理学や脳神経・感情の生理学によれば、思考、その根底の固定観念・認知のゆがみ、感情、情動性の行動(非行や偏見などによる他者攻撃、差別行動を含む)、そして、心の病気などの苦しみなどの関連が詳細に研究されている。これらが、初期仏教の十二支縁起説と類似している。そして、心の病気や非行、偏見ある行動などは、思考だけでは、治癒、修正されないことが多い。自分の心をしずめて深く洞察しなければ、治らないことがある。宗教者(その宗門の学者でさえも)も、一度、形成された見解を固執して変えることはほとんどない。縁起説の思考も同様であり、その十二支のうちにある「見」にあたる「見解」は容易に変わらない。真剣な「実践」でしか、変わらない固執された見解がある。これが、学者でさえも起きており、学者によって、見解がまちまちである。自分の執着を離れて、謙虚にならなければ、みにくい貪・瞋・癡・慢・悪見(偏見、見取見など)などは自覚されない。
 こういう学問の現状では、「十二支縁起説のみが仏教である」とか、「坐禅は仏教ではない」と断定するのは、妥当でない。逆に、禅者が因果を超えるような言動をする(3)のは、初期仏教の縁滅の意味で言う場合もあるかもしれない。腹式呼吸法や坐禅を実践すると、論理によらずに、見取見などが修正されることがある。見取見(臨床心理学でいう「固定観念」)などで、心を病んでいた患者が、坐禅をしているうちに、いたずらに自分の見取見を固執して思考することをやめる努力をするうちに、ある日、「はらり」と、苦悩が落ちることがある。論理的に理解したのではなくて、見取見に執着しない生活をしようと努力しているうちに、論理によらずに、問題が消滅するのである。後に振り返ってみれば、自分に見取見があって、それに執着していたのであることがわかる。だが、理解によって苦悩が解決したのではない。実践によって、苦悩が解決して、後に分析すれば、見取見を発見できるのである。ただし、指導者が、見取見の存在を指摘しながら実践させる場合、その執着を離れることが早い。もちろん、実践しようとしない者は、そのような見取見を自覚して修正することはない。だから、本人による「思索」のみでは、自分を心の病気においこむ見取見などを修正できない。また、他者を害する見取見などを修正するとはない。このゆえに、宗教者間の闘争が続き、学者が一度思いこんだ学説、見解は、修正されることはほとんどない。長い期間、宗門の見解が変わらないのもこのためである。
 また、大乗仏教の「空」でいうように、我々の生きて働く只中には、一切の思想などない。そういうところから、真の自己の働く場には、一切思想がないことから、禅者が縁起さえも否定するのかもしれない。
 仏教は、種々の縁起思想を説いた。とにかく、種々の縁起説がある。「道元が晩年に、因果を否定する坐禅は正しい仏教ではないとし、縁起思想のみが正しい仏教であると思想を変えた」という説も、再検討をせまられる。

(注)



縁起説の位置

 縁起は一つの説明できる真理(種々の縁起説がある)には違いないが、それだけでは説明であり、現実の悟りでもなく、苦を解決することも、慢心、傲慢などを捨棄する無我を実践しているわけでもない。(現代、人間関係の悩みや、心の病気などで、苦悩する人々を「十二縁起」で導いてみようとしてもらいたい。思想だけでは、救われないことがわかる。)
 初期仏教経典には、八正道や三十七品菩提分法などの修行が多く書かれているし、それを仏教ではないと排斥する理由がない(むしろ有機的に関連している。森章司氏の解釈によって、八正道の道によって、十二支縁起説の逆観が身の上に実現すると解釈できる)ので、抽象理念を理解しただけで、慢心し、修行もしないのは、本格的仏教に入っていないことになる。(唯識説では、こういう思想理解の段階を「資量位」といって、初期の初期段階とする)
 仏教の生活は長い。それぞれの段階の人を次の段階へ導く方便があり、すべての教義を絶対視していない。ある人には、「為せ」といって、ある人には、「捨てよ」という、矛盾に見えるようなことがある。縁起も理解に留まらず、理解のさらに先に超えていかねばならない。ささいな思想的言句をとらえて、「仏教ではない」と、原理主義的学説を展開する方法は、わかりやすいが、研究者を批判的に見ることができない人々を誤解させる危険がある。十二支縁起説を理解するのは四聖諦のうち、苦集諦、苦滅諦として一部であり、縁の滅(苦の縁滅であるから四聖諦の中)を理解(「識」以後「無明」までは信じるしかないであろう)したら、さらに道聖諦の修行をして現実に、取、愛、無明などを滅しなければならない。原始仏教経典では、四聖諦が重視されたこと、そういう意味では四聖諦は、十二支縁起説をも有機的に包含するので、初期仏教経典は、そのように説かれていると解釈できる。

初期仏教(原始仏教)でも縁起の理解は浅い位置にある

 詳細に分析する学問仏教に似たアビダルマ仏教が大乗仏教からは、批判されたが、初期仏教の縁起説でさえも、それが、釈尊の悟りの内容ではないという解釈がいくつかある。
 西義雄氏、森章司氏、三枝充悳氏、水野弘元氏、田中教照氏などが、因果(縁起)の理解は、最初(初歩)の段階の悟り(悟りにも思惟だけによるもの、人格上に体現されるもの様々であろう)であり、それから本格的に修行して、さらに深い悟りを得るのであると確認された。すなわち、縁起の理解は、初歩にすぎないのである。縁起の理解のみを仏教の条件とし、縁起思想(後世の縁起思想)からだけで仏教である、仏教ではないとする説は、十二縁起の「取」を犯しているおであり、再検討をせまられる。

経典での確認

 上記の諸氏が、数多くの経典を参照しているので、いまさら、ここに書くまでもないが、別な観点から補強しておきたい。

心解脱は知見のさらに先

 一歩譲って、仏教が縁起説だとしても、経典に書いてある限りは、縁起説は知見で理解できる(解釈はまちまちであろう)。しかし、原始仏教では、知見を得て、おごるな、という(1)。心解脱は、もっと先である。

(注)

正思惟、正知には縁起が理解されている

 原始仏教では、八正道が修行の基本である。たとえば、次の経典では、正思惟、正見には、縁起が用いられており、修行の基本段階で、縁起が理解されていることになる。縁起は、最終的に解脱するための修行内容(慧である)のような位置にあって、縁起は修行の段階である程度理解されるものである。十二縁起を観じながら、苦楽、取の捨棄、貪瞋痴の捨棄により、菩提、涅槃を得るのである。
(注)

縁起の理解の後、菩提を得る

 縁起を理解した後に、菩提の終局に達するとして、明らかに、時間的に、縁起の理解が因であり、菩提が果である。 (注)




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