もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

 
仏教学・禅学の批判

煩悩の捨棄(初期仏教)




 仏教は解脱、成道を目標とした。苦や漏からの解脱である。それは、自分だけではなく、他者をも含む。自分で苦を感じないで、他者を苦しめる「漏」(煩悩)があってはならない。そのため、思想の了解に終るのではなく、実際に煩悩(十二支縁起説でいえば、煩悩は、十二支のいずれかの「支」に該当することになる)の捨棄がされなければならない。すなわち、坐禅中だけ坐禅するだけでもなく、縁起思想を理解するだけでもなく、人格的な問題である。常に実践していることである。他者の苦を抜くことも視野になければならない。「苦」とは「自分と他者」を苦しめることとされているからである。それが、本来の仏教であった。

煩悩障・所知障と涅槃・菩提

 道元の仏道は禅が悟りで、それ以外の目的はない、といわれることが多いが、それは、一面観に落ちた解釈であることを、二障(煩悩障・所知障)を断じて、涅槃と菩提を得る、という本来の仏教が何をめざしていたか、を検証する。

 大乗仏教では二障を断ずることを目標としていた。それが達成されることが、悟りであり、涅槃と菩提を得ることである。
 しかし、アビダルマ仏教では、法を実体視し、所知障を言わない。それは、釈尊がそうであったのではなくて、後期の部派仏教での変質である。

原始仏教経典の「迷理惑」(見惑)と「迷事惑」

   アビダルマ仏教も、二障を断ずることを目標としていた。二障については、原始仏教と大乗仏教では定義が大きく異なる。
 発展した段階での、「倶舎論」は「迷理惑」(見惑)と「迷事惑」(修惑)の二つを言い、見惑は、明確なる知識の欠けるより起こるもので、性質が猛利であるが、正智がおこれば、急速に断じられる。修惑は、感情に関する煩悩のことで、性質が微弱であるが、容易に断じられないから、修行の後期の修道において長時に思惟修習して断じていく。
 原始仏教の経典では、次のように言われている。 (注)

煩悩の捨棄

 貪瞋痴などの煩悩の捨棄をいう原始仏教の経典は多い。(1)
インドの仏教教団でも、後期のアビダルマ仏教は、法を実体視し、涅槃に入ることを最終目標として、所知障の断と他者の苦悩の救済を教義に折り込まなかった。
 だが、最初期の経典には、法の実体視の証拠はなく、法の実体視をもしないはずの「中道」の強調があり、釈尊が他者の救済に奔走されたのは確かなことであるから、煩悩を実体ある法としてとらえるのも、部派仏教の時代になってからの変質であろう。
 詳細に記述する余裕がないので、断片的であるが、煩悩を捨棄すべきことは、次のように、種々の形で、くり返されている。十二支縁起を常に実現するには、十二支縁起の「支」が何であるかを理解し、それを常に離れる(中道)実践をしていくことが求められた。それが、煩悩の教義に織り込まれた。たとえば、「貪」「瞋恚」は、十二支縁起の「渇愛」「受」に関連する。身見、戒禁取は、十二支縁起の「取」に関連する。十二支縁起の、十二支は、すべて、離れ(滅す)るものであると言われるが、「煩悩」も離れるべきものとされる。十二支縁起が、すべて離れるべきものを網羅しているとすれば、「煩悩」はみな、十二支縁起の、どれかの「支」に該当する。経典は、これに埋め尽くされている。


(注)

アビダルマ仏教ー倶舎論

 倶舎論でも、悟るには煩悩を断じるのを根本とした。倶舎論も、二障をいうが、大乗仏教とは内容が違う。倶舎論は「迷理惑」(見惑)と「迷事惑」(修惑)の二つを言う(1)。見惑は、明確なる知識の欠けるより起こるもので、性質が猛利であるが、無漏の正智がおこれば、急速に断じられる。修惑は、感情に関する煩悩のことで、性質が微弱であるが、容易に断じられないから、修道において長時に思惟修習して漸断する(2)。
 「大毘婆沙論」によれば、一切の煩悩、諸の貪愛が、諸の善根を成熟せしめないので、煩悩を見道によって、除くという。
 「能く正性離生に入るとは謂く此の心心所法は、能く見道に入ることなり。問ふ、一切の聖道は皆是れ正性にして亦是れ離生なるに何が故に此の中、独り見道のみを説くや。答ふ、一切の煩悩或は、諸の貪愛は、諸の善根をして、成熟することを得ざらしめ、及び諸有の愛潤をして、過ちを合起せしむるを皆、生と名くと雖も、而も見所断の惑は此の所説に於て生の義増上するを、見道能く畢竟対治す。是の故に見道を独り離生と説く。諸の不正見は、要ず見道に由りて、能く畢竟して断ずるが故に、正性と名け、世第一法の無間に引起するが故に、能く正性離生に入ると説くなり。復た次に、一切の煩悩或は諸の貪愛は、能く善根をして、成熟することを得ざらしめ、及び諸有の愛潤をして、過ちを合起せしむるをもて、皆名けて生と為す。見道起り已りて、彼の勢力を摧きて復た増上の生過を為さざらしむ。此に由つて見道を独り、離生と名く。(3)
 また、見惑によって、人々が苦悩するという。見道によって、これが断じられるので、苦から解脱する。
 「復た次に、見所断の惑は、諸の有情をして、諸悪趣に堕して、諸の劇苦を受けしむること譬へば生食の久しく身中に在りて、能く種々なる極苦悩事を作すが如し。是の故に此の惑を説きて名けて生と為すなり。見道は能く之を滅するが故に離生と名く。正性に入ると言う義も亦前説の如し。」(4)
 煩悩(惑)のうち、特に、有身見が強烈であるが、これも、見道によって断じられるとする。有身見は、衆生がその身について五蘊和合の仮者であることを知らずして、実に我ありと計度する盲見で「我見」ともいう(5)。この我見も見道によって断じられる。
 「復た次に、有身見等は剛強にして伏し難きこと、獣の瀧涙の如きが故に説きて生と名づく。見道は能く之を滅するが故に離生と名く。正性に入るの言も亦前説の如し。」(6)
 このように、アビダルマ仏教は、二種の煩悩を除くのを目標とするが、まず、見道によって、煩悩や我見などの見惑を除くことを目指している。その後、修道で、微弱な惑を除いていく。

 インド初期仏教でも、釈尊の時代から長くたった部派仏教の倶舎論や、アビダルマ論書では、法(煩悩も)を実体視してしまって、法執を除くということが軽視され、他者の苦悩を救うことをせず涅槃に入ることが目標とされた。本来の「中道」の精神が失われた。

(注)
 
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「てづくり素材館 Crescent Moon」