もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
対機指導ー初期仏教
「臨床的仏教」=初期仏教
初期仏教の対機指導について、
竹村牧男『大乗起信論読釈』山喜房佛書林、平成5年改訂版、472頁。
『大乗起信論』は、出入息観はとらない
仏教は、思想だけの哲学ではなくて、苦の解決という実践的なカウンセリングの性格があった。臨床的であれば、一律に適用するのではなくて、特定の苦悩には、それに最適の療法(修行法)が適用されたはずである。
- まず、過去の仏教において、そういう部分を明らかにする。だが、そのままでは現代人の苦悩に適用できない。適用している例はほとんどないであろう。
- 現代人の苦悩が軽減できる坐禅法を開発する。心理学、生理学、などの科学の知見を参考にする。
- 両者の関係をあきらかにする。仏教の教義と現代科学との両側面から分析する。
仏教の思想の研究は多いが、こういう切り口の研究は少ないであろう。特に、現代人の苦悩へ適用できる研究は皆無であろう。ここに掲載するのは、ごく一部である。研究は今後のことである。
仏教の学問と実践の現状
仏教は「苦の四聖諦」が重視されたように、苦の原因分析、苦を解決するための治療を行うようなところがある。そうすると仏教教団は病院のようなものである。実際、経典には、医者のたとえで教義を書いたものもある。
今、精神的苦悩を治す分野は、宗教よりも、臨床心理学、精神医学がある。臨床心理学、精神医学が顕著な実績をあげている。しかし、現代人の苦悩には、こういう科学的治療では扱っていないものがある。そこまでかかる必要があるとは思わない問題、および、宗教的問題である。
科学的治療で扱わない領域は、科学的治療を受けようという問題ではなくて、深刻に悩む問題はすべてである。たとえば、人間関係の悩み、劣等感、職場や家庭で起きる種々の精神的問題があり、仏教では四苦八苦として列挙されてきた。宗教的問題は、生きる意味、自分、魂、仏、過去世・来世などの問題である。
仏教が知識の習得だけのことであれば、仏教の範囲を規定してその全部の詳細な分析をして、文字にして提供すればすむ。しかし、仏教が、現代の臨床心理士や精神科医、カウンセラーのように、個々人の問題を実際に臨床的に治療することも重要であったとすれば、そういう側面の研究をして、現在でも科学的治療で扱わない領域での、現代人の苦悩の解決のために貢献できるはずである。
たとえば、現代の大きな社会問題の一つは「自殺」である。交通事故による死者は年間1万人以下であるのに、自殺は3万人以上である。この問題に、現代の仏教学、禅学は全く貢献できない。だが、仏教が、四苦八苦を解決するものであったとすれば、自殺の回避に仏教が貢献できるはずである。なぜなら、何らかの問題で悩む、そのうちに、「うつ病」になる、そして自殺するという経過をたどるようである。悩むのは、仏教では「四苦八苦」で整理したが、現代人の苦悩もこれにおさまる。禅は仏教の八正道に含まれていたから、仏教や禅が、現代人の自殺、その前段階の種々の苦悩軽減に貢献できる可能性は高い。
実際に禅によって、苦悩を解決した人は多い。だが、その心的な経過は、学問的には明らかにされていない。苦の解決は、臨床心理士、カウンセラー、精神科医などによる科学的治療のように、その苦悩する人の問題に対して、臨床的な援助、助言をしなければ十分な解決ができない。仏教も苦の解決を目標としたのであれば、個別の問題が解決する理論、臨床的な援助・指導法があったかもしれない。それを明らかにして、それが現代人の苦悩の解決に適用できるかの実験(治験である)を行い、改良を加えていけば、仏教や禅の現代的展開となる。
これまでの坐禅は苦の軽減を軽視
臨済宗には公案体系があるが、それは、現代人の苦悩、たとえば、自殺のような問題に対しては貢献できない。最初の公案が「無字」または「隻手」である。これを通過するのは、見性である。現代人の苦悩、たとえば、自殺でも、それは公案以前の問題である。自殺したくなる問題を解決しない限り公案には取り組めない。公案指導の中で、中道、我見・我執の臨床的な指導が一部実行されているが、一般人の苦悩についての指導があるかどうか公開されていない。「無字」や「隻手」などの公案以前の、苦悩を解決させる段階の「個別の問題が解決する理論、臨床的な援助・指導法」は実践的にも学問的にも解明されていない。なお、宗教的問題については、公案体系による指導法が、実践的には存在し指導されている。この問題で救われる人の数は微々たる者である(無字を通過して見性する人は、日本全国で、ごくわずかであろう)。
曹洞宗の坐禅も宗学では、目的を持たずに坐禅する、というのが従来の学問成果であり、実際、それで指導していることが多いであろう。ここには、「個別の問題が解決する理論、臨床的な援助・指導法」は何もない。しかし、参禅者の中には、指導者が自己の問題への助言をしないのに、自らの坐禅の力で偶然に自分の苦悩を軽減するのに成功する人がいる。これは学問的には解明されていない。
具体的な課題
以上のような問題意識から、解明する価値があると考えるのは、次の点である。
- 仏教経典や禅の語録の中から、「個別の問題が解決する理論」「臨床的な援助・指導法」がないのか、抽出してみる。
- それが、現代人の苦悩の解決のために実施されている科学的治療法と類似性があるかを研究する。
- 現代の科学的治療法が扱わない、あるいは、実行していないが、現代人が苦悩している領域に貢献するための方法を仏教の実践指導法が貢献できないか研究する。(アメリカのマサチューセッツ大医学部では坐禅を応用した心理療法が適用されて実績をあげている。)
口先ばかりでは何でもいえる。実現可能性があるかどうかであるが、これまでのわづかな例と自分自身の問題解決から、実現可能であると判断する。仏教にも対機指導(退治ともいう)の重要性をいう経典・論書(今後、掲載していく)がある。苦悩、問題の違いによって坐禅により探求する自分について重点を変えて助言する方が効果が大きい。共通の宗教的問題(悟り、慈悲など)をめざすのではなくて、多様な個人的問題の解決をめざすのなら当然である。
たとえば、神経症とうつ病は異なる。これも、仏教では四苦八苦に入る。愛別離苦、求不得苦などから生じる。神経症は不安障害であり、うつ病は気分障害である。その発病のしくみが異なる。
だから、その人たちが坐禅によって救済されたい(科学的治療を受けたが成功しなかったとか、種々の理由で科学的治療を受けられないとか、そういう問題ではないと思って、など)という場合、やはり、それぞれの参禅希望者の問題によって、個別的、臨床的な坐禅指導が効果が大きいことは予想される。実際に、坐禅の指導者のういちに、入室・独参として、個別的、臨床的な指導を行う人もいる。こういう臨床的援助法を体系化し、仏教経典、禅語録などの文字と比較してみたい。
当面の目標は、次を目標とした坐禅の体系化である。仏教の論書や禅の語録からの抽出と、実際に適用してみて効果を見て体系化する。
- 脱気分障害(うつ)観=うつ病を快復するため、うつにおちいる心のプロセスを探求し、坐禅によって、そのプロセスの進展を停止する心得を体得する。ここには、認知療法で「スキーマ」(深さが異なるが無明、我見、悪見などなどに相当する位置にある)や「認知のゆがみ」などの自覚(中道の実践、我見を離れる、是非善悪を管しない、などの心の工夫が相当する)の鍛錬も入る。これは、他の種々の悩みにも適用できると思う。
- 脱不安障害観=対人恐怖、パニック障害など、「不安」障害が起こる心の様子を坐禅によって知り、自分のこころの上で「不安」「予期不安」の生滅の動きを観察し、思考、不安、行為などの正体を観察する。臨床心理学で「エクスポージャー法」と呼ばれる試験的行動(不安を感じても指導者と共に外出してみる、など)も指導に織り込む。
神経症の人に、うつ病の治癒に必要な心の探求をさせても効果は少ない。逆もいえる。
坐禅は、うつ病の早期快復、再発防止に顕著な効果があるように思う。それで、自殺の予防になる。そういう坐禅法を文字化して、現代人がうつ病、自殺におちいるのをできるだけ防止したい。
「悟り」は、個人の問題、うつ病や神経症などを解決した後のことである。仏教の「階位論」でもそうなっている。個人の苦の解決の後、悟る。悟ることで宗教的問題が解決する。
心の病気の人には、一律の坐禅指導では顕著な効果があがらない。また、かえって悪化させることもあるだろう。坐禅をやめることを推薦すること、坐禅指導の限界を知ること、他の方法を選択するよう指導することも、苦悩する人の利益になる。苦悩する人の貴重な人生の時間を浪費させないこと、坐禅によってかえって苦悩を増すことの防止を考えるべきである。こういうのも対機指導であり、やはり経典に記述されている。すべての人に、「悟り」「慈悲の実践」をめざすように強調するのは害がある。そのように記述した経典もある。実践する仏教者、禅者として学びたい。
以上は、エッセー風に、この会の願いと具体的ねらいを書いてみた。経典からの抽出、坐禅指導での実際適用がすすむにつれて、整理していきたいと思う。
経典の中から、このねらいに関連する記述を少し列挙していく。大勢の人が、経典の中から、こういう箇所を抽出する作業に参加してくだされば、研究は大幅に進展する。
これから管見にはいった「臨床的仏教・臨床的禅」に関連する経典を掲載していく。
(6/03/2003、大田)
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