もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

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仏教学・禅学の批判

尋伺

初禅に尋伺あり

 初期仏教で、八正道を修習して、禅定が深まっていく。四段階に区分して「四禅」と呼ばれる。その最初に「尋伺」が出ている。  経典では、尋伺の意味がつかみ難いとして、平川氏は、論書を参照する。  倶舎論の解釈は「問題がある」としているが、むしろ平川氏が「尋と伺とは心に同時に有るものと考えられる」という前提がおかしいのであろう。それは、以下の説明で、同時ではなさそうであるからである。
 さらに、平川氏の説明をみていく。  パーりの『清浄道論』では、四禅の解説をなすうち、次の説明もある。  平川彰氏は、尋伺はわかりにくいというが、『清浄道論』や『倶舎論』を参照すると、「尋」は、心が対象をつかむこと、「伺」は、それが自分にとってどういう影響があるかを熟考して評価・判断することであるようである。その際、煩悩の汚染された心で思考、判断するか、煩悩の汚染されないで思考、判断するかで大きな差が生じるであろう。
 まだ、わかりにくいので、管見にはいった限りで、尋伺について、少し、考察してみよう。

(注)

かなりすすんだ段階での思惟の一種

 初禅にも、尋伺があるというのである。初期仏教の階位では、初禅は、かなり進んだ段階にある。「象跡喩小経」「沙門果経」などの経典では、13段階の階位を説いているが、初禅は、その第六であり、禅定を得るようになる最初である。八正道の「正定」は、四禅という定義があるくらいに、初禅は「正定」に入った段階であるから、修行が相当すすんでいる。
 第五段階は、五蓋の断であり、それは、貪ぼり、瞋り、のない心を持続し、浮つき、後悔、疑いを捨てることである。この段階を過ぎているのであるから、そのような修行者のする「尋伺」、すなわち、思惟は、五蓋のない内容である。あまり煩悩に汚染されていない思考、判断であると考えられる。 そういう段階での、尋伺であるから、「悪、不善」の要素は少ないようである。
 では、尋伺とは何か。初禅にある尋伺とは何か。

思惟には正思惟がある

 思惟は、思考、分別であるが、思惟は、すべてが悪、汚染のものではないことを確認しておく。釈尊は、弟子や在家に説法する時に、思考したはずである。その思考は、悪、汚染ではない。すなわち、解脱した者の思惟は悪ではない。
 戯論を離れるという修行の方針や、分別が二元観におちいるとして「思惟、分別」を離れることを仏教では重視するが、もちろん、すべての思惟を離れるわけではない。八正道の中に「正思惟」があり、思惟が肯定されるものもある。
 正思惟に2種ある。  解脱の前の修行者にも、悪、煩悩でない思惟がある。思考には、煩悩に汚染された思考と、汚染されていない思考がある。尋伺も思考であれば、煩悩に汚染された尋伺と、汚染されない尋伺があるだろう。 (注)

大乗唯識の尋伺

 部派仏教(大乗教団からは小乗とされた)教団と同時に存在した大乗の瑜迦行派の「唯識」による「尋伺」の意味を検討してみよう。
 部派仏教では、尋および伺は「不定法」とされた。唯識説でも「不定法」である。共に、不善法、煩悩の法ではない。尋伺は、悪、不善にも、善にもある心作用である。尋伺そのものは、悪、不善とはされていない。竹村牧男氏の『唯識の探求』で、尋と伺について、唯識論者の説明をみると次のとおりである。  これを整理すると、共通点、相違点は、おおよそ、次のことがわかる。
 
共通点 尋も伺も、その体は、思または慧である。思と慧の特別なもの。
ともに、いまだ発語することのない、心の中の言語活動である。
ともに、安・不安をもたらす。
相違点 思または慧によって尋求する 思または慧によって伺察する
心の粗さ
意言の境の於に、粗く転ぜしむる。
心の細やかさ
意言の境の於に、細かく転ぜしむる。
これは何か、と探し出すこと。
(具体的な)事物のみを尋求することを(その)ありようとする。
それはこれであるか、というように、前に(すでに)知られたものについて探し出す。

 「思」と「慧」の相違点は次のようである。
  「思」 「慧」
相違点 深く推度しない位 深く推度する位
心の発動を自性とする。 徳と過失の区別を自性とする。その力によって心が起きるからである。

 大乗唯識では、尋も伺も、安・不安をもたらすという。安・不安は、くせものであり、短絡的には、安をもたらす思考は「善」、つまり、煩悩に汚染されていないで、不安をもたらす思考は「悪」、つまり、煩悩に汚染されていると解釈できる。しかし、苦から逃避することで、安を得るのは、煩悩に汚染されている。  だから、尋伺には、煩悩の有無はなくて、「不定」であり、「思」が煩悩に汚染された思考、判断であり、「慧」が煩悩に汚染されない思考、判断であろう。このことを、「慧は徳と過失の区別を自性とする」というのであろう。正しい区別をするという意味であろう。慧がない「思」は、徳失を正しく区別できないで、不安を得るのであろう。
 『清浄道論』や『倶舎論』では、「尋」は、心が対象をつかむこと、「伺」は、それが自分にとってどういう影響があるかを熟考して評価・判断することであるようである。その際、煩悩の汚染された尋伺と、汚染されない尋伺がるだろうと考察した。
 以上のことから、尋伺には、煩悩の有無(有漏、無漏)ともにあり、「思」による尋伺が不安、苦をもたらし、「慧」による尋伺は、安の中での思惟活動であると考えてよいであろう。初禅における「尋伺」は、一応、安の中での(あるいは安に向かっての)尋伺である(禅定の境地はさらに上があるが)と言ってよいであろう。「尋」は、心が対象をつかむこと、つまり、意識がある事物、法などの一点に止まることであろう。「伺」は、そのとらえたものが自分にとってどういう影響があるかを熟考して評価・判断することであろう。尋伺において、煩悩に汚染された者と汚染されない者とでは、「伺」が異なるものになるであろう。

(注)

『摩訶止観』の尋伺

 初禅にも尋伺があるという。かなりすすんだ修行者にある「尋伺」とは何か。パーり経典では、わからないが、中国の天台大師の『摩訶止観』では、尋伺について詳細な記述がある。
 それによれば、尋は、身体の八種の触感で、伺は、それを評価・判断することである。十種の判断であり、これは、智慧ある判断である。それ以前は、同様の触があっても、邪の判断をする。
 修行がすすんでいくと、初禅の境地に達する。そこには、五つの特徴がある。覚、観、喜、楽、一心である(1)。
 八触は、坐禅中に経験する身体への感触の八種である。動・痒、冷・煖、軽・重、渋・滑。
 十眷属は、十種の功徳である。空、明、定、智、善心、柔軟、喜楽、解脱、境界、相応の十である(3)。これは、坐禅において感じる身体状況を仏教の智慧の種々の方面から正しく評価することである。初禅における「観」は、正見に裏づけられていることになる。「尋・伺」という場合に、「伺」は広義であり、邪見となる「伺」もあるが、初禅の場合に、「伺」(観)は、智慧に裏づけられた「伺」であって、悪いものではない。たとえば、心臓の鼓動が高鳴るのを感じて、「死ぬのではないか」という判断をして恐怖を招くのは、伺である。このような人は、十種の功徳の見方(智慧)を知らない。しかし、同じような高鳴りを感じて、「縁に触れて高鳴りが起こったに過ぎない。放置しておけば、やがておさまる。」と判断するのは、正伺である。修行がすすむと、そのような判断も介入しなくなるのであるが、初禅程度では、智慧で判断する微細な思惟(尋・伺といいう、覚・観という)があるというのである。
 このように、天台大師によれば、初禅における尋伺とは、修行がすすんだ段階における修行者が坐禅における身体状況を、智慧によって、思考評価して、教説の妥当性を確認して、楽を感じているものである。以前には、苦悩の仕組みがわからず、脱出する方法もわからず、苦悩にあえいでいた者が、修行によって開発された智慧によって、自分のうえに起きる状況を観じて、仏教の教説のとおりにすれば、楽を得ることを確認しているのであろう。

(注)

現代への貢献

 現代、種々の問題で苦悩する人々が坐禅(智慧を帯びて)して、自分の心、自分の苦を観察すると、自分の苦悩の仕組みがわかってくる。その際、やはり、あえて、尋・伺を用いる。見る、聞く、思うなどの対象を捕まえる(尋であろう)、そして、それを、誤った評価をしないで(認知のゆがみや我見・我執で)、苦を根本的に解決する方向をもって、苦の起きる様、消える様をありのままに観察し、評価・判断する(伺であろう)ことを指導する。その時に、用いるのが、中道の智慧であるが、認知療法でいう認知のゆがみを治すことに相当するであろう。それをある程度の期間修習して、苦をもたらす思考(自動思考)を停止し、認知のゆがみのない冷静な判断で、自分の環境、仕事などに対処していくことを当面の目標とする。従って、智慧のない坐禅では、現代人の苦悩を十分に解決できない。中道の智慧を帯びて坐禅していくと治癒が早く、根本的解決に導くことが期待される。認知療法でいえば、「認知のゆがみ」のない判断法を帯びて坐禅し、認知のゆがみを捨棄する力を身につけ、日常生活での種々の感情の心を「認知のゆがみ」なく観察して、冷静に生きていくことになるであろう。

 中道を帯びた坐禅とは、初期仏教では、「四念処」であった。現代人でも、苦悩する人は、これに似た坐禅法を習う。数息観、随息観、複式呼吸法、只管打坐などである。これを行っても、自分の苦悩が強く迫ってきて、自動思考(妄想)がやまない場合には、どうしたらよいか。初期仏教では、そのような初心者向けのアドバイスがある。次の記事に記載する。
(11/20/2003)
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