もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

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仏教学・禅学の批判

「無記」の教え=十難無記、十四難無記

三枝充悳氏の「四諦説」に、「無記」についてふれている。




 十二縁起説は原始仏教で重視されている。十二支の中で、特に「有」があるからには、これに執著しないことも、中道の実践にとって、重要であったはずである。

非有非無の「中道」の「有」

 平川氏は、「相応部」の「迦旃延姓」の教説を参照して、「有無中道」を次のように説明する。  この経典は、龍樹の「中論」にも引用されている。平川彰氏は、こう述べている。  「心の根底となっている執著と煩悩とを受け入れず、取らず、わが我なりと執持せず」とあって、「正見」は、取著と煩悩から離れることであるとされる。
 平川彰氏によれば「苦楽中道・有無中道」などは言葉では説明できないものとされているという。  「有無」は見解である。有無の見を離れるというのは、何を意味するのであろうか。苦の解決(再生はない、という生死を超えることを含む)は、肯定、否定の二元的、論理的思惟によらず、十二縁起を修せよ、というのであろう。十二支縁起説にも、「取」がある。「見」を取することを捨棄するのである。十二縁起は論理的思惟では達成されないものである。道聖諦、すなわち、八正道によって修するものである、ということではあるまいか(5)。

(注)

十二支縁起説の「愛」

方便に執著371 以下は、「取」のものーーーーー 欲楽に耽溺することを否定。これは苦楽中道の補助的説明 平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、230頁。 愛とはなにかについて、種々の解釈がある。(463) 平川彰「あらゆる欲望の根底にある執著である。」 楽、快をもたらすもの(受、)を、極度に「好むこと」むさぼること、逆に、苦、不快をもたらすものを、極度に「嫌うこと」すなわち、「嫌択」であろう。 結局、むさぼり、である。自分の好き嫌いをむさぼり、他者の好き嫌いを認めないエゴイズムであろう。

 十二支縁起説によれば、苦が起こる縁を列挙しているが、その中に「取」がある。「無明」によって、「行」があり、・・・ないし、・・「取」によって、「有」があり、「有」によって「生老死」の「苦」が起こる、とされる。「苦」が生じるために、この「支」の一つも欠くことができないとすれば、そのうちの「取」でも滅すれば、苦が滅する(1)であろう。すなわち、苦の滅のためには、「取」は、滅すべきとされる。その「取」とは、何を意味するか、平川彰氏と西義雄氏の解説を参照しておく。これが、道元や現代の坐禅の修行法にも関わりがある。
平川彰氏
 パーリ「相応部」「因縁相応」第二「分別」に、十二支縁起説のなかの「取」の定義について、次のようにある。  これを平川氏は、次のように説明している。
西義雄氏
 次に西義雄氏の解釈を見る。  西義雄氏は、十二縁起説も、中道、八正道、四念処法と同じものであるという解釈をされるが、特に、この「取」が十二縁起説の中にあることは、西氏の説が重みを持ってくる。この「取」を実際に滅するには、相当の心の探求、修学が必要であり、それを、日々の生活、人格の上に実現していくのはむつかしそうに思えるである。十二縁起説の「取」は、理解するだけではあるまい。実行が求められているはずである。
 この「取」を実際に、「自分が」滅するには、日々の「心の探求」、それは「八正道」に近い実践が求められるのではあるまいか。それは道元の禅(思量を用いない、是非善悪を管しない、煩悩の捨棄などの「中道」に似た実践)に類似するのではあるまいか。それは、西義雄氏や私の誤解であるのかどうか、研究者が納得いく解明をしてほしいのである。

学問にも「見取」があるのではないか

 現代の仏教や禅の学問における「見取」を問題にしたい。平川氏は、「見取」の「見」は、主義や主張、イデオロギー等のことで、これらは執著の対象になる。主義の異なる人の間には、とかく対立がおこり、争いの原因となる。それは、見に対する取著によるのである。」という。
 西氏は、「自己流の意見とか学説とか自己所属の宗義主張等を唯一無二として徒らに排他的となるが如き見取」という。
 これは、釈尊の教えに近い原始仏教の教説である「十二縁起」の中で、「見取があっては、苦や争い(自分と他者を苦しめる)が起きる、「見取」を滅すれば、苦や争いが滅する。だから、十二支縁起は、「見取」をも滅すべきだというのがその趣旨であろう。
 ところが、仏教が、十二縁起説ばかりでなく、四聖諦、八正道、ほか、生が尽きたという解脱などをも重視しているというのが、学会の積み上げてきた成果であるならば、「仏教は十二縁起を思惟するもの」であるという説に固執するならば、十二縁起説がいう「見取」にあたるはずである。研究の成果というまでもなく、ある一つの説に固執するという研究者の行為が「見取」にあたることを教えているはずである。そうでなければ、十二支縁起説の「取」は何を教えているのだろうか。ある一群の学者は、仏教は体験ではなく言葉を重視した、といって、思想の点だけから仏教、非仏教という。経典の「言葉」を重視するといいながら、多くの経典の言葉の中から、自分の先入見ある説に都合のよい言葉だけを選択して、他の言葉(特に実践をいう言葉)を否定するのは、自分のいうようには「言葉」を重視していないことに気がつかないのだろうか。それが「十二支縁起」の言葉で説いた教えであり、それを実際に行うことが「体験」「実践」なのである(もちろん、「悟り」は、さらに異なる「体験」であるが)。また、言葉で論争することをやめて、行・実践によって知ることがあると解釈する西義雄氏、平川彰氏、三枝充悳氏、竹村牧男氏などの学者や、道元、白隠の場合も、「言葉」を重視しないのではない。実践が重要であるとか、言葉では得られず実践によってしか得られないことも人間にはあるのだという経典の「言葉」は、そのまま重視しているのである。そこが誤解されている。
 また、道元が、坐禅ばかりではなく、苦からの解放、煩悩の捨棄、悟り、慈悲行を重視しているとしたら、「道元の仏道は、目的のない坐禅をするのみである」という学説に固執し、道元が重視した他の実践を無視するならば、「見取」にあたるはずである。道元は、釈尊の正伝ということを誇りとするが、その仏教の教えにもそむく。
 私は、現代の僧侶が、自分の好き嫌いを入れて、片寄った見方を入れて「私は道元禅師をこう解釈する。坐禅のみが道元禅師である。」というのは宗教者としてかまわないと思う。それは宗教者の場合である。それを信じる信者は、信じるであろう。信じる信者がいなければ、その宗教者は、信者を失い、その宗教は、その本人限りで終わる。だが、学者が行う学問が、それと同様でいいのかという疑問を持つ。
 仏教や道元の研究にかかわる学問から、「見取」を排除し、仏教や禅定の実践者の中で、苦悩する人、争いを起こす人をなくさなければならない。そのためには、仏教とは何かを、偏見(見取など)を持たずに、一刻も早く、明らかにしなければならない。また、道元は、本当に、目的のない坐禅のみを主張し、苦の解放も、煩悩の捨棄も、悟りも、因果の習学も、慈悲行も否定したのか、偏見を持たずに研究しなければならない。

(注)
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