もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
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臨床禅学
仏教学・禅学の批判
「無記」の教え=十難無記、十四難無記
三枝充悳氏の「四諦説」に、「無記」についてふれている。

- 戯論、独断を離れる(三枝充悳氏105頁)
- アートマン論は、十難無記にはなかったが、十四難無記に入り込んだ。
(103頁)
十二縁起説は原始仏教で重視されている。十二支の中で、特に「有」があるからには、これに執著しないことも、中道の実践にとって、重要であったはずである。
非有非無の「中道」の「有」
平川氏は、「相応部」の「迦旃延姓」の教説を参照して、「有無中道」を次のように説明する。
「有と無ということも観念である。事実の世界に有や無があるのではない。「無」があるということは、言葉としても矛盾がある。われわれは、「有」という観念、「無」という観念でもって、事実の世界の存在を理解するのである。事実の世界の存在を「有」と理解したとしても、それだから事実の世界の存在が、「有」という在り方で存在するというわけではない。有として把握することと、事実の世界に実際に有ることとは、問題が別である。「無」についても同じことが言いうる。
「有無中道」の教説は、「有」という見方、「無」という見方が、ともに「極端な見方」であると批判して、「如来は有と無の両極端を離れて、中によりて法を説く」と述べ、ついで十二縁起を説いているのである。その教説は次のごとくである。」(1)
「迦旃延の姓の比丘が、釈尊に「正見」について質問した。
「大徳よ、正見、正見と言われるが、正見とは何ですか」。
「迦旃延よ、正しい般若によって、如実に世間の集起を見る者には、世間に<無いということ>は存在しない。迦旃延よ、正しい般若によって、如実に世間の滅を見る者には、世間に<有ということ>は存在しない。
迦旃延よ、この世間(の人)は多く、方便と取著と執著とに束縛されている。(しかるに)この(聖弟子は)方便と取著、心の根底となっている執著と煩悩とを受け入れず、取らず、わが我なりと執持せず。苦が生ずれば生ずと見、苦が滅すれば滅す(と見て)、疑わず、惑わず、他に依ることなくして、ここに彼に智が生ずる。迦旃延よ、このごときが正見である。
「凡てが有る」とは、迦旃延よ、これは一つの極端である。「凡ては無い」というのも、これは第二の極端である。
迦旃延よ、如来はこれらの二つの極端に近づかずして、中によりて法を説くのである。
「(即ち)無明を縁として行がある。行を縁として識がある。乃至、かくのごとくにして純大苦蘊の集起がある。しかるに無明が残りなく離貪し、滅することより、行の滅がある。行の滅より識の滅がある。乃至かくのごとくにして、純大苦蘊の滅がある」と。」(2)
この経典は、龍樹の「中論」にも引用されている。平川彰氏は、こう述べている。
「さらに龍樹の『中論』巻三「観有無品」に、
仏は能く有無を滅す。「化迦旃延経」中の所説の如し。有を離れ、亦た無を離ると。
刪陀迦旃延経中に、仏は正見の義を説かんが為に、有を離れ、無を離る。若し諸法中に少しでも決定して有ならば、仏は応に有無を破すべからず。若し有を破すれば、則ち人謂いて無と為さん。仏は諸法の相に通達するが故に、二倶に無なりと説く。是の故に汝は応に有無の見を捨つべし。
と述べて、この経を引用している。『中論』が偈文の中に引用している経典は、この経典のみであり、しかもこの経典が「有無中道」を説いている点を考えると、龍樹が与えた「中論」という書名と、この「迦旃延経」とに密接なつながりのあることが知られる。」(3)
「心の根底となっている執著と煩悩とを受け入れず、取らず、わが我なりと執持せず」とあって、「正見」は、取著と煩悩から離れることであるとされる。
平川彰氏によれば「苦楽中道・有無中道」などは言葉では説明できないものとされているという。
「原始仏教では、「苦楽中道・有無中道」等は般若の智慧によって知られるものであり、言葉によって説明できないことが示されていた。そしてそれは「縁起によって理解されるべきである」として、十二縁起が説かれていたのである。」(4)
「有無」は見解である。有無の見を離れるというのは、何を意味するのであろうか。苦の解決(再生はない、という生死を超えることを含む)は、肯定、否定の二元的、論理的思惟によらず、十二縁起を修せよ、というのであろう。十二支縁起説にも、「取」がある。「見」を取することを捨棄するのである。十二縁起は論理的思惟では達成されないものである。道聖諦、すなわち、八正道によって修するものである、ということではあるまいか(5)。
(注)
- (1)平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、367頁。
- (2)「南伝大蔵経」13巻、24,25頁。「増阿含経」巻12、大正2巻、85c。前掲書369頁)。
- (3)平川彰、前掲書、369頁。
- (4)同上、449頁。
- (5)ただし、原始仏教の縁起説には、五支縁起、十支縁起などもあり、種々の縁起がある。原始仏教の「支縁起」は、観法(坐禅法、日常での功夫)と見ることもできる。現代の坐禅にも、似たような功夫が行われているからである。十二縁起を坐禅法・日常功夫と見る解釈をされるのが西義雄氏である。平川氏は、縁起説の観法と見る考察は少ない。この点については、西義雄氏の説を検討する。
十二支縁起説の「愛」
方便に執著371
以下は、「取」のものーーーーー
欲楽に耽溺することを否定。これは苦楽中道の補助的説明
平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、230頁。
愛とはなにかについて、種々の解釈がある。(463)
平川彰「あらゆる欲望の根底にある執著である。」
楽、快をもたらすもの(受、)を、極度に「好むこと」むさぼること、逆に、苦、不快をもたらすものを、極度に「嫌うこと」すなわち、「嫌択」であろう。
結局、むさぼり、である。自分の好き嫌いをむさぼり、他者の好き嫌いを認めないエゴイズムであろう。
十二支縁起説によれば、苦が起こる縁を列挙しているが、その中に「取」がある。「無明」によって、「行」があり、・・・ないし、・・「取」によって、「有」があり、「有」によって「生老死」の「苦」が起こる、とされる。「苦」が生じるために、この「支」の一つも欠くことができないとすれば、そのうちの「取」でも滅すれば、苦が滅する(1)であろう。すなわち、苦の滅のためには、「取」は、滅すべきとされる。その「取」とは、何を意味するか、平川彰氏と西義雄氏の解説を参照しておく。これが、道元や現代の坐禅の修行法にも関わりがある。
平川彰氏
パーリ「相応部」「因縁相応」第二「分別」に、十二支縁起説のなかの「取」の定義について、次のようにある。
「比丘等よ、取とは何であるか。比丘等よ、これらの四取あり。欲取・見取・戒禁取・我語取である。比丘等よ、これを「取」という。」(2)
これを平川氏は、次のように説明している。
「取を「四取」で説明することは、「雑阿含」「増一阿含」でも同様である。「取」とは「執著」の意味であるが、とくにここでは四種類の取を出している。この中、
第一の「欲取」は、「五種欲」に対する執著である。「五種欲」とは、眼で見た色、耳で聞いた声、鼻でかいだ香、舌で味わった味、身体の触覚で得る触覚の対象(所触)の五者である。これらは感覚の対象である。五欲・五妙欲とも訳す。美しい色や声、味覚や触覚の対象等は、人間の執著の対象となる。それが「欲取」である。
第二の「見取」の「見」は、主義や主張、イデオロギー等のことで、これらは執著の対象になる。主義の異なる人の間には、とかく対立がおこり、争いの原因となる。それは、見に対する取著によるのである。
第三の「戒禁取」とは、戒とは戒律、禁も戒律のことである。要するに「宗教の実践」に対する執著のことである。宗教の異なる人々の間にも、対立や争いが起り易い。その原因となるものが戒禁取である。
第四の「我語取」とは、我と我所(私のもの)に対する取著である。仏教では無我を説くから、我を実在とは見ていない。心も身体も無常であって、絶えず変化しているから、そこに自己同一の自我は成立しえない。故に「自我」は、自己の心身を対象として構想された観念・言葉であると見る。そして人間は、自己の構想した自我の観念(言葉)に執著するので、我語取という。
この欲取等の四取から成立する「取」が、対象に執著し、それによって善悪の業を作り、来世の生存を決定する「有」の縁となるというのである。」(3)
西義雄氏
次に西義雄氏の解釈を見る。
「取は一切への取著であり固執であり、恋着、耽着でもあるから、囚縛となる。即ち精神的不自由ー不安動揺未知等より、自由、平安、不動、有知等となりたいと取著して、而も自由等を得られないこと、換言せば、己我の気儘や自由の要求に固執し取著し恋著し耽著するもそれが達せられない、我の肉体的存在の常住を固執し取著するも得られない、己我の所有物の増益に恋著するも得られないから茲に制限があり、凡てが苦憂悲悩となって現れてくるのである。かくてこの取に対しては、前に示した如く、取にも種種あつて前に論じた如く、(一)諸種の貪り、あくなき欲求等を固執し取著する欲取、(二)各々の我には常住・独善・放肆なる自儘自由の存し得るものと、固執し恋著する我語取、わが生命を惜しみ、わが財産、わが名声、わが身の地位等を獲得し、奪取したいと堅執する我所取があり、又(三)自己流の意見とか学説とか自己所属の宗義主張等を唯一無二として徒らに排他的となるが如き見取、(四)不当・偏狭・無義なる苦行や方法等
の禁戒を以て真の解脱涅槃・平和安楽等が得られると取執する戒禁取等があると解せられている。」(4)
西義雄氏は、十二縁起説も、中道、八正道、四念処法と同じものであるという解釈をされるが、特に、この「取」が十二縁起説の中にあることは、西氏の説が重みを持ってくる。この「取」を実際に滅するには、相当の心の探求、修学が必要であり、それを、日々の生活、人格の上に実現していくのはむつかしそうに思えるである。十二縁起説の「取」は、理解するだけではあるまい。実行が求められているはずである。
この「取」を実際に、「自分が」滅するには、日々の「心の探求」、それは「八正道」に近い実践が求められるのではあるまいか。それは道元の禅(思量を用いない、是非善悪を管しない、煩悩の捨棄などの「中道」に似た実践)に類似するのではあるまいか。それは、西義雄氏や私の誤解であるのかどうか、研究者が納得いく解明をしてほしいのである。
学問にも「見取」があるのではないか
現代の仏教や禅の学問における「見取」を問題にしたい。平川氏は、「見取」の「見」は、主義や主張、イデオロギー等のことで、これらは執著の対象になる。主義の異なる人の間には、とかく対立がおこり、争いの原因となる。それは、見に対する取著によるのである。」という。
西氏は、「自己流の意見とか学説とか自己所属の宗義主張等を唯一無二として徒らに排他的となるが如き見取」という。
これは、釈尊の教えに近い原始仏教の教説である「十二縁起」の中で、「見取があっては、苦や争い(自分と他者を苦しめる)が起きる、「見取」を滅すれば、苦や争いが滅する。だから、十二支縁起は、「見取」をも滅すべきだというのがその趣旨であろう。
ところが、仏教が、十二縁起説ばかりでなく、四聖諦、八正道、ほか、生が尽きたという解脱などをも重視しているというのが、学会の積み上げてきた成果であるならば、「仏教は十二縁起を思惟するもの」であるという説に固執するならば、十二縁起説がいう「見取」にあたるはずである。研究の成果というまでもなく、ある一つの説に固執するという研究者の行為が「見取」にあたることを教えているはずである。そうでなければ、十二支縁起説の「取」は何を教えているのだろうか。ある一群の学者は、仏教は体験ではなく言葉を重視した、といって、思想の点だけから仏教、非仏教という。経典の「言葉」を重視するといいながら、多くの経典の言葉の中から、自分の先入見ある説に都合のよい言葉だけを選択して、他の言葉(特に実践をいう言葉)を否定するのは、自分のいうようには「言葉」を重視していないことに気がつかないのだろうか。それが「十二支縁起」の言葉で説いた教えであり、それを実際に行うことが「体験」「実践」なのである(もちろん、「悟り」は、さらに異なる「体験」であるが)。また、言葉で論争することをやめて、行・実践によって知ることがあると解釈する西義雄氏、平川彰氏、三枝充悳氏、竹村牧男氏などの学者や、道元、白隠の場合も、「言葉」を重視しないのではない。実践が重要であるとか、言葉では得られず実践によってしか得られないことも人間にはあるのだという経典の「言葉」は、そのまま重視しているのである。そこが誤解されている。
また、道元が、坐禅ばかりではなく、苦からの解放、煩悩の捨棄、悟り、慈悲行を重視しているとしたら、「道元の仏道は、目的のない坐禅をするのみである」という学説に固執し、道元が重視した他の実践を無視するならば、「見取」にあたるはずである。道元は、釈尊の正伝ということを誇りとするが、その仏教の教えにもそむく。
私は、現代の僧侶が、自分の好き嫌いを入れて、片寄った見方を入れて「私は道元禅師をこう解釈する。坐禅のみが道元禅師である。」というのは宗教者としてかまわないと思う。それは宗教者の場合である。それを信じる信者は、信じるであろう。信じる信者がいなければ、その宗教者は、信者を失い、その宗教は、その本人限りで終わる。だが、学者が行う学問が、それと同様でいいのかという疑問を持つ。
仏教や道元の研究にかかわる学問から、「見取」を排除し、仏教や禅定の実践者の中で、苦悩する人、争いを起こす人をなくさなければならない。そのためには、仏教とは何かを、偏見(見取など)を持たずに、一刻も早く、明らかにしなければならない。また、道元は、本当に、目的のない坐禅のみを主張し、苦の解放も、煩悩の捨棄も、悟りも、因果の習学も、慈悲行も否定したのか、偏見を持たずに研究しなければならない。
(注)
- (1)無明の滅がないと恒久的な苦滅ではないかもしれないが、それは、ここでは問わない。
- (2)平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、462頁。
- (3)同上、462頁。
- (4)西義雄「原始仏教に於ける般若の研究」大東出版社、昭和53年改訂版、460頁。
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