仏教学の再検討
縁起説は難解であるという=思惟だけではないから
原始仏教経典において、縁起説は難解であるという説もある。
- 第一に、経典がそう記している。
- 第二に、研究者から見ても難解である。
十二支縁起説の中でも、「取」や「無明」は難解である。現代の心理療法でいう、固定観念や認知のゆがみが、こ「取」に相当する。うつ病やパニック障害などの心の病気の人や、他者をいじめる者、偏見ある学説を主張する学者にも「見取見」がある。心の病気の人を治癒させるために、固定観念や認知のゆがみを説明するが、簡単には理解できない人がいる。さらに、それを現実に修正するのは、難しい。(もし、すぐに実現できるならば、日本から世界から「うつ病」の患者や「パニック障害」の患者が、説明だけでただちに治るのであるから、ノーベル賞に値する)。見取見などの理解と修正・捨棄の実現は、難しい。多くの学者でさえ、この見取見を完全には理解していないだろう。まして、実現していない。実現されていれば、これほど、仏教が誤解されはしない。
こういう面からも、「縁起は難しい」といえる。特に、「無明」は難しい。見取見、貪・瞋・癡のない人の真相をみて解脱した者しかわからない。縁起説の理解と実現は難しいのである。仏教は、縁起説を理解するだけではない。

(1)縁起は難解という経典
縁起は知り難い、と経典に記している。また「貪欲と瞋恚に敗れし人に、この法はいと悟り難し」とある。偏見などをいだいて他者と抗争し、論争し、苦しめる者には、自らの心に貪瞋痴があり、やすらぐことがないので、法を悟ることができないという意味に解釈してよいであろう。
初期仏教経典でも十二支縁起説は難解であると言っている。「思念の領域を超え」るというのであり、思惟のみで会得できない(学問研究の方法では縁起を会得できない。その意味は、学問では、縁の滅に至らないということであろう。)から難解である。修行したとしても、貪瞋痴のある人には、会得できないから難解となる。
- 平川彰氏の指摘
- 釈尊が成道した時考えたこととして「我に依りて證得せられたるこの法は甚深にして見難く悟り難く、寂静微妙にして思念の領域を超え、深妙にして賢者のみの知るべきものなり」。(1)
- 上記に続く偈頌に「貪欲と瞋恚に敗れし人に、この法はいと悟り難し」(2)
- 阿難が「縁起はやさしい」といったところ、釈尊が「そのように考えてはならない」と言った。(3)
思惟で至るのならば、「滅」とは言われないであろうが、同じことであるが、十二支縁起説の逆観が完了したところが涅槃であるが、それが「滅」で示されるから、また、思惟での理解は「難し」となる。思惟による理解でなく、心理上の体験ならば「滅」の用語で示し得る。何か(無明、我ありとの意識、苦、漏など)が無くなった状態を「滅」と表現した可能性がある。禅の悟り体験も「自己を忘れる」「我は無い」というように、否定的に表現されている。
- 森章司氏の指摘
- 「説一切有部では、縁起現観は仏の占有物であるとされるようになり、弟子たる声聞の修行道には縁起は組み込まれなかった。」(4)
- 「「アーラヤを楽しみ、アーラヤに浮かれる人々にとっては、此縁性・縁起であるということのことわりは難見である。また一切行の止滅・一切の依り処の棄捨・渇愛の滅尽・離貪・滅・涅槃であるということわりもまた難見である」といわれるように、縁起の理も、そして当然ながら縁起の還滅たる涅槃も、同時に難見と示されるのは、それが表裏の関係であるとともにその悟りはつねに止滅・棄捨・滅尽・滅・涅槃というように否定的にしか示されないもの、それがこの現実のあり方から超越したあり方をしているということを示さんがためのような気がしてならない。」(5)
(注)
- (1)「南伝大蔵経」12巻、234頁。平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、514頁。
- (2)同上、235頁。
- (3)中阿含経「大因経」大正、1巻、579c。平川彰「法と縁起」春秋社、414頁。
- (4)森章司「原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究」東京堂出版、1995年。530頁。
- (5)同上、593頁。
(2)縁起は難解という研究者
十二支縁起説は難解である、と経典に書いてあるほかに、現代の研究者も難解だと指摘している。これも、うなずける意見である。なぜなら、研究者によって、「縁起」の「縁の滅」の解釈がまちまちであり、三枝充悳氏は、縁起説にまつわる偏見が多いと批判されるほどであるから。森章司氏も、縁起について、基本的なところでさえ確認されていないという(1)。
- 平川彰氏
- 「十二支の説明はあるが、十二支の構成について、このような構成になる理由の説明は見当たらない。その意味で、十二縁起はきわめて難解な教理と言わなければならない。その点が四諦説とはかなり異なるのである。」(2)
- 森章司氏
- 「先入見の固まりである言葉で、立場のない立場を説明することは至難の技である。そこで縁起は甚深難解とされ、説法を躊躇されたという伝承が生じたのであろう。」(3)
特に、なぜ、「識」の先に、「行」と「無明」が置かれたかその理由がむつかしい。さらに、どうすれば、無明が滅するかは、十二支縁起説には説明がないので十二支縁起説だけでは完結しないので難しい。十二支縁起説だけでは現実の苦が滅することはない。ある病気がヴィルスによるものという原因がわかっても、いかにして、そのヴィルスを殺すことができるかの治療法が開発されないと病気は滅しないのと似ているであろう。ヴィルスを殺すことができて、症状が消滅した時はじめて、「この病気の原因は、ヴィルスである」と証明されるのである。各自、無明を滅尽してみて、証明しなければ、「自分の」苦、煩悩(自分と他者を苦しめる)は滅しない。仏教はそれゆえ、道聖諦を重視する。
(注)
- (1)森章司「原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究」東京堂出版、1995年。561頁。
- (2)平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、431頁。ほかに432,433,434頁。
- (3)森章司「原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究」東京堂出版、1995年。529頁。
初期仏教は、その治療法にあたるものとして「苦の滅のための道聖諦」「八正道」を開発したが、現代の研究では、その部分を仏教ではない(松本史朗氏など)と否定したり、否定しないでも修行の研究をせず、思想研究ばかりに集中している研究者では、結局、全体としての仏教、本来の仏教から離れているような気がしてならない。生きた森全体を見ず、枯れた一枚の葉っぱを見ているような研究が多いのではないだろうか。そのために、研究者の間に、縁起説にも種々の独断、偏見が生まれているのだろう。
森氏、三枝氏が指摘されたように、十二支縁起説の真意は解釈がまちまちであり、まだ学会の賛同を得る統一見解にまで至っていない。禅の修行も悟りも、その真意(たとえば、坐禅せず思惟で得られる思想なのか、坐禅が悟りか、そうではなくて無分別の体験か)が学会の統一見解がまだ得られていない。こんな学問の現状では、「仏教は十二支縁起説のみ」とか「坐禅は因果を否定するから仏教ではない」と排他的、否定的に断定することはできない。そういう独断的仮説を根拠にして、特定の禅者を「仏教ではない」と結論するのは、軽率であり、独断、偏見であろう。仮説においた根拠が誤りとされた時、論のすべてが崩壊する砂上の楼閣である。そんな段階での学問で、誠実な実践を否定すべきではない。多くの人が宗教を求めているのに、伝統仏教が軽侮され、カルト宗教の思うつぼである。
仏教者にも、禅者にも未熟な側面がある。だが、仏教や禅が未熟なのではない。人が未熟なのである。思想(らしく見える言葉)だけを見て、仏教や禅の実践面を完全否定せず、仏教者や禅者を完全否定するような方法をとらず、その人のすぐれた面は肯定し、未熟な部分を個別、具体的に批判すべきである。
悟れる者も、理としては釈尊と同じでも、行動面では未熟な面がある。未熟さは「差別意識」だけではない。多くの「貪瞋痴」がある。慢心、偏見もある。苦悩する人が多い社会に目を向けず、教団内だけの名誉、自分だけの幸福に浸る禅者もいる。学問研究者も未熟な面が多い。それを自覚しないならば、慢心、偏見という煩悩障にまみれている。如実知見できていない。仏教は、縁起説だけでなく、そういう現実の心理面もきわめて重視しているはずである(特に禅は、理解ではなく、人格上への体現をきびしく指導される)。最初期経典以来、すべて誠実な仏教経典ならば、「貪瞋痴」の捨棄を必ず指摘している。それを経典から読みとらない人では、仏教の重要な一面を理解していないのだから、「誰々は、仏教ではない」というべきではないだろう。
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