第2部 慈悲行=他者の苦悩のカウンセリング
対機指導ー大智度論
対機指導で因縁観など用いる=大智度論
現代人にピンときて、すぐ実践できるようでもないが、個人に応じて、問題に応じて、修行法を変えるべきという言葉を抽出する。
因縁観も、貪瞋痴を抑制するという修行の初期段階に用いられている観法であるので、十二縁起は初心者にも簡単に理解、観察されることである。初歩段階である。
大智度論
『大智度論』巻1では、ある病気には、薬であっても、他の病気には、薬とはならないように、「仏法の中にて心病を治するもまたかくのごとし。」と言って、おおよそ、次の対機指導が主張されている(1)。
- (A)貪欲病には、不浄観を用いる。不浄観は、瞋恚病には効果がない。理由は、身の過失を観ずるのが不浄観であるから、もし瞋恚の人が過失を観ずれば、瞋恚の火をますからである。
- (B)瞋恚病には、慈心を思惟する観法を用いる。慈心は、貪欲病の人には害となる。理由は、慈心は衆生の中において好き事を求め功徳を観ずるものだから、もし貪欲の人が好き事を求め功徳を観ずれば、貪欲をますからである。
- (C)愚痴病には、因縁観を用いる。因縁観は、貪欲病、瞋恚病の人には害となる。理由は、先に邪観するために邪見を生じる。邪見は愚痴であるためである。
- (D)常に著する顛倒の衆生は、諸法の相似相続を知らないから、無常観が効果がある。
これについて、中村元氏は、こういう。
「ナーガールジュナは慈心というものを個別的な一種の精神療法と考えている。すなわち怒りっぽい人には慈心を涵養させる必要があるが、貪欲のあり人が慈心を起こすとかえって貪欲を増すからいけない、というのである。」
「この見解は天台宗はじめシナの仏教にも継承されている。
右の立言は慈しみが貪欲とつながるものがあるという事実を明らかにしている点で興味がある。慈しみとは人間的な愛情にもとづいているが、人間的な愛情は同時に欲情に転化する危険をはらんでいるのである。」(2)
(注)
- (1)大智度論、大正、25巻、60a-b。
- (2)中村元「大乗仏教の思想」春秋社、1995年、149頁。
(臨床的な禅、すなわち、禅の実践指導)
仏教や禅の初心者は、貪・瞋・痴などで何か悩みを持つ場合がある。その場合には、その個人の悩みに効果のある坐禅法を指導すべきであることになる。そうでないと、高度な坐禅修行に進むことが難しい。
また、すべての人に、悟れ、そして、他者を救済せよ、慈悲行を行え、と説法するのも在家仏教の場合には、弊害があることがある。貪欲の大きい者が、それを聞いて、自分の貪欲を充分に自覚しないうちに途中で修行をやめて、世の為、救済のためと称して、自己の財欲、名誉欲など種々の貪欲をまして、社会を害する行動をするおそれがある。仏教や禅を己の欲望達成の手段に利用するのである。偏見ある学説を主張して己の名誉欲などを満足させるとか、カルト教団の設立をするなどがその例であろう。誰にでも同じような仏教、禅指導では問題がある、というのである。
このようなことは、現代でも真理であるから、仏教や禅の指導者は、その個人をみて、対機指導しなければならないのだろう。在家仏教であるから、その人を手元で生涯、指導するのではなくて、自己都合で勝手にやめていくから問題が生じる。
学者が知識を教えるのと違って、禅の実践指導は臨床的な治療の現場であるので、独特の難しさがある。
(十二縁起のみが仏教という説に対する批判)
龍樹が、「愚痴病には、因縁観を用いる。因縁観は、貪欲病、瞋恚病の人には害となる。理由は、先に邪観するために邪見を生じる。邪見は愚痴であるためである。」というような趣旨からわかるように、十二縁起(因縁)は、愚痴病の初心者でも習わせるものである。これのみが仏教であるはずがない、というのが龍樹の主張からもわかる。
十二縁起の順観は、現代の生理学、精神医学などの知見からでも説明できる。十二縁起説の「無明」だけは、悟りとからむので、現代科学では説明がむつかしいが、それ以外の十二縁起の「各支」は、生理学、精神医学の言葉で、説明できる。うつ病などの人に、その仕組みを説明するが、それは十二縁起とほとんど同じである。十二縁起は、苦の説明であり、苦悩する初心者でも理解できるやさしいものである。しかし、その逆観が実現され、現実に苦悩を解決して健常な生活ができるようになるためには、しばらく、「各支」の連鎖を断ち切る訓練が必要である。仏教では、修行といわれる一種の訓練(八正道、六波羅蜜、坐禅など)によって達成したが、現代の臨床心理学や精神医学では、「精神療法」「心理療法」(認知療法を含む)で行って効果をあげている。禅(の初期)は、現代人の苦しんでいる問題解決に、臨床心理学や精神医学で用いている「精神療法」「心理療法」を純粋に実践するようなものである。(もちろん、この段階の坐禅は、3−6カ月で達成されるものであり、さらに高度の坐禅ではない。十二縁起のうち「取」(「見取」という偏見を含む)や「無明」が充分解決してはいないが、自分が苦痛に感じていた問題は解決して、仕事や家庭生活などに専念できるようになる。うつ病や、神経症、対人問題などの、自分の苦悩は解決する。このような段階も仏教は重視していた。)
十二縁起を理解するだけは、やさしい。しかし、徹底した逆観を実現するのは、むつかしい。相当の修行(八正道、六波羅蜜、坐禅など)が必要である。自己の問題だけの特定の苦悩ならば、逆観も短期的な修行で達成できる。
とにかく、十二縁起を「思惟することだけが正しい仏教」ではない。修行が必要であり、「見取」「無明」の捨棄、悟りは、さらに徹底した修行が必要であり、他者の苦悩解決の援助をするには、そのことを主眼とした修学が必要である。これらすべてが、釈尊の仏教、大乗仏教、禅にも含まれていた。
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