第2部 慈悲行=他者の苦悩のカウンセリング

 

対機指導ー『大乗起信論』

大乗以前の人の問題に応じて指導する=『大乗起信論』

 仏教は臨床的であるから、対機指導である。現代人にピンときて、すぐ実践できるようでもないが、個人に応じて、問題に応じて、指導法を変えるべきという言葉が経典にあるのを抽出する。

止観

 『大乗起信論』の修行は、止観が重要である。竹村牧男氏の『大乗起信論読釈』で、必要な箇所を抽出です。  止観の止と観は、次の意味を持つ。

(注) 竹村牧男『大乗起信論読釈』山喜房佛書林、平成5年改訂版、472頁。

退治邪執

 『大乗起信論』の「退治邪執」の節では、二乗の鈍根と、諸の凡夫に区分して、誤った見解に執著するのを退治するという。  因縁観も、貪瞋痴を抑制するという修行の初期段階に用いられている観法であるので、十二縁起は初心者にも簡単に理解、観察されることである。初歩段階である。  これらは、修行の初期段階に行われる。

華厳経

 これに対して、『華厳経』は、別な対機指導を説明している。  「衆生下劣にして」という差別的表現になっているが、ここでは、悪くとらないで、その精神を考えてみる。
 「衆苦を出しむ」とあるので、衆生の苦しみから抜けださせるのであるから、現代のように、何かつらく、苦しい問題で悩む人に対しては、声聞の修行道を教えるというのである。
 根(才能素質)が少し明晰な人で、因縁の法を願うものには、辟支仏の修行の道を教える。その本人の希望を尊重している。
 根が、明晰な人で、人々の役に立ちたいと願い、大悲心ある人には、菩薩の修行道を教える。
 無上正等覚(悟り)を求める心があり、大事を必ず得たいという固い信念のある人には、仏とは何かということを示して、究極の法を教える。
 ここでは、道場に来る人に、一律の教えを説くのではなくて、その人の希望と信念の程度に応じて、教えを説くという。
 これを、差別主義だと批判するのは、軽率である。華厳経は大乗仏教、在家仏教である。在家には、種々の職業がある。家庭がある。仏道修行だけに専念できない。
 苦悩する人が仏道の教えを願ってくる。そんな人に、悟りを説いても意味はない。そのひとには、苦悩を脱する修行を教える。
 特に世俗的な悩みを持つわけでもなく、明晰な人で、因縁の法を願うものが来た場合には、辟支仏の修行の道を教える。現代の学者のような人や、思索を好む人であろう。
 こうして、人々の役に立ちたいと願う大悲心ある人、悟りを求める人など、希望に応じて説くというのである。
 これは、人間の心理に合致している。出家ではなく、在家である。ずっと教団にとどまる可能性はない。そうした場合、本人の希望、決意、志しか、仏道継続を動機づけるものがない。本人の願いに反することを説くと、二度と来なくなる。そのため、本人の苦悩、希望、決意、志を見て、それにふさわしい内容で教える。もちろん、苦の解決、因縁の法、辟支仏の法、菩薩道が無上道への一直線上のことでなければならないだろう。最終目的地が城であるとして、その他のものは、その城に近づく道の途中である。それてはいない。
 次の言葉も、これを簡潔に示している。「此の菩薩」とは、無生法忍を得て不退転になった菩薩である。  何かの問題で苦悩する在家で、それを解決したいと願う人には、その希望が達成されるように説く。悟りは説かない。それは、当面、彼の関心ではない。その程度であれば、短い期間で、達成するかもしれない。心の病気の人に、むつかしい指導をして悪化させてはいけない。本人の利益を思って区別する教育的配慮ある指導であり、差別主義ではない。仏教学者には、そこを誤解しないでいただきたい。実際の現場、臨床的な指導では、どうしてもそうでなければ、本人が向上しない。
 苦の解決を求めて参禅を始めた人が、その先の、因縁の法、慈悲の道、無上道を希望するようになるかどうかわからない。だが、それでよい。強制はしない。在家には家庭や職場、趣味(茶道、能、俳句、芸術、学問研究など)などがある。そちらに関心が大きいのであれば、苦悩が解決した段階で、それまで学んだ仏道を生かして、それぞれの関心ある産業領域で活躍していくほうが社会に貢献できる。在家なのであるから、仏道の専門家(すべての人々の希望、苦悩解決から無上道まで、仏道そのものを教える僧侶のようなありかた)になる必要はない。社会には、産業人も必要である。これが、大乗仏教で重視された対機指導であろうか。

(注)
 
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